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ペルガモン/ペルガモン王国

前3~2世紀、小アジアの西岸に栄えたヘレニズム諸国の一つ。セレウコス朝から独立し、アッタロス朝が栄えた。前133年にローマに服属した。現在のトルコのベルガマ。

ペルガモンの位置
ペルガモンの位置 赤字が古代重要都市
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 小アジアの北西岸、エーゲ海に面したペルガモン(現在のトルコのペルガモ)を都とした王国(アッタロス朝)。はじめセレウコス朝シリアに属していたが、前262年にエウメネス1世の時に独立し、初代アッタロス1世の前241年に王を称するにいたり、アッタロス朝がはじまった。ついでアッタロス2世はシリアと戦い、アテネの広場に柱列を建設したことでも知られる。アレクサンドロス帝国の成立によって生まれた、ギリシア系諸国、つまりヘレニズム諸国の一つであり、前2世紀にはヘレニズム文化を繁栄させた。さらにローマに服属してからは属州アシアの中心都市として、ローマ文化の栄えた。1860年代にドイツ人の手によって発掘されて古代遺跡が発見され、現在はベルリンに保管されているペルガモンの大祭壇はヘレニズム彫刻の代表的な彫刻群があることで有名である。現在はトルコのイス見る県に属する小都市ベルガマとなっている。(なお、北イタリアに似た地名のベルガモがあるが、これは関係なさそう。)

ヘレニズム国家のひとつ

 ベルガモン王国は同じヘレニズム国家であるアンティゴノス朝マケドニアセレウコス朝シリアとは対立していた。その両国が手を結び、小アジア西岸に勢力を伸ばしてくることを警戒したペルガモン王国は、当時の新興勢力である西方の共和政ローマに支援を要請した。それに応えてローマ軍が東方遠征が行われマケドニアとの戦争となったのが、前200年の第二次マケドニア戦争である。

ローマへの帰属と反抗

 しかし、前167年、ローマは第三次マケドニア戦争でアンティゴノス朝マケドニアを滅ぼし、さらに前146年にはコリントを滅ぼしてギリシア本土を征服、属州として支配するようになると、ベルガモン王国もローマに征服されることが危惧されるようになった。そこで第3代のアッタロス3世は思い切った策に出て、前133年に国土をローマに献上し、自ら王位を退くこととした。

アリストニコスの蜂起

 ペルガモン王国は戦わずにローマに屈することになったが、国内にはそれを受け容れない人々も多く、彼らは国王の異母弟のアリストニコスをのもとで「太陽の国」と称する国を建て、ローマに反抗した。「アリストニコスの蜂起」といわれるこの反乱には農民・奴隷が加わり、激しくローマに抵抗したが、前130年に鎮圧され、この地はローマの属州アシアとされた。
(引用)ペルガモン王国のアッタロス3世が、ローマの魔手の伸びるのを察し、また王国内の社会的不安にも先手をうって、前133年、王国をローマに遺贈した。国土のローマへの遺贈は、ほかにもその例がないわけではない。ところが、それに対して、この国では3世の異母弟のアリストニコスなる人物が、現存の社会秩序に満足しない人や祖国をローマに譲るのに反対する人をあつめ、ローマに対する叛乱を企て「太陽の国」を樹立しようとした。叛乱には貧民、奴隷がたくさんくわわったという。このアリストニコスの太陽国の思想的な背景には、前2世紀はじめのアラビア人イアンブロスのユートピア思想「太陽の国」があったらしい。その理想郷(ユートピア)は、気候、生産面でめぐまれた土地であぶばかりか、万人同等の勤労義務がうたわれた農村共同体的共産社会であった。アリストニコスの「太陽の国」は、こういったユートピア思想を軸にした、ローマに対する反抗運動であった。<長谷川博隆『ギリシア・ローマの盛衰』1993 講談社学術文庫 p.201-202>
グラックス兄弟の改革との関係 ローマ史上で紀元前133年と言えば、グラックス兄弟の改革が始まった年である。ペルガモン王国のアッタロス1世が国土をローマに献上したこととグラックス兄弟の改革には関係があった。
 前133年、コンスルとなった兄のティベリウス=グラックスは、大土地所有者の公有地占有を制限し、制限を超過した分は下層の平民に安価で分け与えるという法案を民会に提出した。それは重装歩兵としてローマの軍事力をになっていた平民の没落を防ぐ目的であった。その際、グラックス(兄)は平民への土地分与の原資として、ペルガモン王国がローマに献上した土地を充てる提案をふくんでいた。グラックスの改革はこのペルガモン王国からの国土の献上をチャンスとして提案されたものだった。この改革で財産を奪われることを恐れた元老院の保守派、大土地所有者たちは、外国から獲得した領土の処分は民会ではなく元老院で決定する案件であることをグラックス案への反対理由の一つとした。元老院の激しい反対にもかかわらず強引に民会の採決を強行したグラックスは、結局翌年、元老院保守派によって殺害された。

ペルガモンと羊皮紙

 ペルガモン王国はヘレニズム諸国の一つとして、高度な文化が栄え、エジプトのアレクサンドリアと並ぶ図書館もあった。プトレマイオス朝エジプトからのパピルスの輸入だけでは紙が不足したため、ペルガモン王国で羊皮紙が発明されたという。羊皮紙を英語でパーチメント(parchment)というのはペルガモンを語源としている。その後もペルガモンは良質の羊皮紙の産地として有名であった。 → 

ペルガモンの大祭壇

 紀元前180~170年頃にペルガモンのアクロポリスに建てられたゼウスの大祭壇は、ヘレニズム美術を代表する建造物である。祭壇やそれを取り囲む大理石の壁には、高さ2.3m、延長113mにわたって彫刻が刻まれていて、神々と巨人の戦いが描かれている。その上部にはイオニア式列柱が屋根を支えている。なお、ペルガモンでは、アッタロス1世が小アジアのガラティア人(ガリア人)に対する戦いの勝利を記念した「瀕死のガリア人」もヘレニズム彫刻として知られている。 →ベルリン ベルガモン博物館 ペルガモン大祭殿の3D画像

Episode ベルリンでよみがえった古代文化

 この大祭壇は、19世紀後半にドイツ人によって発掘され、大理石群は19世紀末に船でそっくりベルリンに運ばれ、ベルリン博物館の目玉として復元された。第2次世界大戦が始まると防空壕に保管され、戦火を逃れたが、敗戦の1945年、旧ソ連に没収され、54年に旧東ドイツ・ベルリン博物官に返還されたが、本格的な修復は後回しだった。94年から約4億円をかけた修復作業が10年後の2004年にようやく終了し、ペルガモン博物館で2200年前の輝きを取り戻した。<朝日新聞 2004年6月16日朝刊による>

ローマ時代のペルガモン

 前133年にローマ領となってから、ペルガモンは属州アシアに組み込まれた。ローマ帝国の時代となってもペルガモンは文化の中心地としての繁栄が続いており、アスクレピオス神殿には多くの巡礼者が訪れた。紀元後17年、地震で破壊されたが、ハドリアヌス帝の時代に復興し、このころ医者として名高いガレノスがペルガモンで生まれている。166年には疫病で大きな被害が出たが、再び復興を成し遂げ、カラカラ帝のころには人口は約15万を数えた。

世界遺産 ペルガモン

ペルガモン、トラヤヌス神殿

ペルガモン(現在のベルガマ)のトラヤヌス神殿跡。 (トリップアドバイザー提供)

 2014年、ペルガモンの遺跡群が世界遺産に登録された。「ペルガモンとその重層的な文化的景観」というのが正式名称である。遺跡群は郊外のアクロポリスの丘の上に、ヘレニズム期のゼウスの大祭壇跡、ローマ時代のトラヤヌス神殿跡、円形劇場跡などを中心に、重層的に残されている。このうち、ゼウスの大祭壇の遺物は、大部分がドイツのベルリンに運ばれ、ペルガモン博物館の目玉となっている。ペルガモン博物館と言いながら、ペルガモンにないことがこの遺跡の過去を物語っている。トラヤヌス神殿などは長い間放置され、荒廃していたようだが、最近の世界遺産ブームに乗って復興がすすめられ、2014年の登録となった。
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ノートの参照
1章2節 ケ.ヘレニズム時代
書籍案内

村川堅太郎他
『ギリシア・ローマの盛衰』
1993 講談社学術文庫