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晋の文公

中国の春秋の大国晋の君主。名は重耳。春秋の五覇の一人とされる。

春秋時代の黄河中流域を支配した大国の晋(春秋)の王子の一人で名前を重耳(ちょうじ)といったが、内紛によって19年も亡命しなければならなかった。秦の穆公の助けを借りて晋に帰り文公となった。たまたま起こった周王室の内紛に介入して周王を助け、さらに異民族の侵入を撃退し、前632年に城濮の戦いで北上してきた楚の大軍を北方諸侯連盟軍を率いて迎え撃ちって破り、周王を招いて諸侯と会盟した。こうして「尊王攘夷」を実行したことで、晋の文公は斉の桓公についで、二人目の春秋の五覇のとなった。この強国であった晋も、文公の死後は次第に家臣であった卿大夫層が実権を握るようになり、前452年、韓・魏・趙の三国に分裂してしまう。それが戦国時代の幕開けとなる。<司馬遷『史記』3 世家上 小竹文夫・武夫訳 ちくま学芸文庫 p.167-229/『春秋左氏伝』上 小倉芳彦訳 岩波文庫>

Episode 重耳の物語

 晋の公子重耳の19年にわたる流亡と苦難の物語は、司馬遷の『史記』の晋世家に詳しく物語られている。またその史料となった『春秋左氏伝』にもいろいろなエピソードが載せられている。晋では本家の翼と分家の曲沃が争っていたが、重耳の祖父である曲沃の称が、翼を倒して晋の武公となった。その子の詭諸(献公)の子どもたち申生、重耳、夷吾と、献公が溺愛した驪姫の産んだ末子の確執が生じ、重耳は長い亡命生活におかれることとなる。重耳はあばら骨が一枚につながっているという特異な体をもち、大柄で勇猛な公子であったが、意外にのんびりしたところもあり、斉の桓公を頼って亡命した時はその王女を娶って安住してしまい、晋に戻るという野望を棄ててしまった。あわてた重耳の家臣たちはその妻と図って酒を飲ませ、前後不覚になった重耳をかついで斉をあとにしたという。その後、各国を経巡った後、秦の穆公のもとに落ち着く。穆公は重耳を後援して晋に帰らせ、重耳は秦軍の力で晋公となることが出来た。しかしその後は秦の意のままになることなく、大きな敵であった南方の楚の北上を食い止めて大勝し、ついに諸侯から推されて覇者となった。<そして中国古代史を題材に多くの歴史小説を発表した宮城谷昌光の大作に『重耳』(1993)がある。小説であるが史実を詳しく調べ上げた上で、面白い読み物に仕上げている。1993年 講談社刊>

Episode 「三舎を避ける」

 晋の公子重耳は継母の策略にあって国外亡命し、諸国を流浪するあいだに、楚王の世話になったこともあった。重耳は楚王の厚遇に対する謝意として、もしも将来、楚王と戦うことになったら、「三舎を避ける」、つまり三日分の行程だけ軍を退けましょう、と約束した。その後、重耳は晋に戻ることが出来、文公となった。やがて楚王は天下統一の野望に燃えて、軍を北上させ、晋の文公と城濮の戦いで相まみえることとなった。その時文公は、不遇であった若いころの約束を忘れず、戦いの前にいったん退いた。楚軍がさらに攻め込んできたので改めて戦い、見事に勝利した。食うか食われるかの春秋時代の中で、この晋の文公の行動は礼にしたがったものとして称賛されている。<司馬遷『史記』3 世家上 小竹文夫・武夫訳 ちくま学芸文庫 p.195,205>
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ノートの参照
第2章3節 エ.春秋・戦国時代
参考

宮城谷昌光『重耳』
上中下
1993 講談社文庫