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王羲之

中国、4世紀前半、東晋の六朝文化を代表する貴族文化人。とくに書に優れ、その作品とされる蘭亭序などは後世の書家の軌範とされ、世に書聖といわれている。

 おうぎし。4世紀前半、東晋の時代に「書聖」といわれた六朝文化を代表する書家。王氏は魏以来の貴族の出であり、東晋の建国に最大の功績があった一族で、政治と軍事において強い権力を持ち、代々高官を務めていたので、王羲之も官吏として高い地位についたが、政治にはなじめず、首都建康を離れて、会稽(浙江省)の地方官として赴任し、文人と交遊しながら文化人としての生涯を送った。特に書に優れ、『蘭亭序』などの代表作を生み出し、楷書・行書・草書の書体を完成させ、後の書道に大きな影響を与えた。子の王献之も優れた書家として知られ、二人合わせて「二王」という。
 王羲之の書は、存命中から高く評価されていたが、紙への墨書というものであるため、彼の親筆とされる書は現存していない。しかし、それを模写したり、石碑としたものを拓本にするという形で多数残され、中国の各王朝だけでなく、日本にも伝えられて、説くに平安時代の貴族社会では珍重された。現在でも、書道の世界では、王羲之の書は基本となる教本として揺るぎない存在となっている。
 またその書跡が尊重されたため、王羲之の手紙の断簡は尺牘(せきとく)として残されており、その解読によって当時の六朝時代の貴族社会の文化、思想、宗教、政治などのあり方を知ることができ、貴重な資料となっている。それによって知られることは、王羲之は書家としての評価だけではなく、六朝時代の思想家、文章家の一人として重要であることであった。また、王羲之が道教の信者であったことなど明らかにされている。教科書では、王羲之と言えば蘭亭序に代表される書家としてだけとりあげられているが、六朝貴族社会の性格を知る上でも多面的に取り上げられるべきであろう。

王羲之の時代的背景

 当時の中国は、3世紀の初めに後漢王朝が滅び、魏呉蜀の三国時代を経て、一時は(西晋)が統一を回復したが、八王の乱を契機として北方民族五胡が華北に進出し、つぎつぎと五胡十六国が興亡した。一方、長江流域以南の中国南部には華北から逃れてきた漢人が建康(現在の南京)を都として東晋を建て、その後は宋-斉-梁-陳と漢人王朝が続いた。

六朝の貴族、王羲之

 この中国の三国分立から南北の分断が続いた時代は、魏晋南北朝時代とも言われるが、文化史上では、魏-晋-宋-斉-梁-陳の六つの漢人王朝によって文化が継承されたとされ、六朝時代とも言われる。六朝時代の政治と社会は貴族によって担われていたので、この時代は「貴族の時代」ともよばれている。貴族とはおおむね、後漢時代の豪族(地方の名望家)の系統を引く門閥貴族であり、身分上は「士」に属し、賦租、徭役を免除され、九品中正という魏に始まる官吏登用制度によって、ランクに応じて自動的に官吏に任用された。貴族の中でランクを決める上で重要であったのが「清談」と言われた仲間内の議論の場であった。その際に貴族の教養として欠くことができないのが、儒教の素養、知識であったが、六朝時代にはそれに加えて仏教や道教の影響を受けて思索的な議論や哲学的な思考とその文章力、歴史に対する知識なども求められるようになった。このように、六朝時代の貴族は、玄(老荘思想と『易』をミックスした哲学)・儒・文・史、ないしは儒・仏・道の三教、さらに書や絵画などの芸術に通じていること、が理想の人間とされていた。
(引用)王羲之にしても例外ではない。かれは貴族のなかでも筆頭に位する王氏に生をうけ、さまざまの教養をそなえた文化人であった。第一級の文化人であった。かれはもっぱら書家として著聞するが あえていうならば、書家王羲之、それは羲之の全体像の一部分にしかすぎない。六世紀の人、顔之推は、「王羲之は風流才子、わびさびに徹した達人であった。ところが世間の人はだれしもかれの書にしか注目しないため、かえってかれ本来の面目がおおいかくされてしまっている」といい、あまり書名がたかすぎるのも考えものだと結んでいるが、まったくそのように、王羲之の書は、ひろくゆたかな教養がその背景をなしており、その点を明らかにしないかぎり、かれの書に対する理解は周到なものとはなりえないであろう。かれの書は、手工的な職人芸と対立しているのである。<吉川忠夫『王羲之―六朝貴族の世界』2010 岩波現代新書 p.12-13 初刊は1972 清水書院>

蘭亭の会と『蘭亭序』

 王羲之の出た王氏は、東晋の建国に功績のあった一族として、漢人貴族社会の高位にあったが、そのころ東晋の朝廷では遊牧民に奪われた華北を奪還するという北伐が最大の政治課題となっていた。その主導権をめぐって貴族間の争いが続き、混乱していた。王羲之自身は政争を避ける形で都建康を離れ、南方の会稽の地方官となった。
 351年 会稽の長官(会稽内史)として赴任。会稽は現在の浙江省紹興市(魯迅の故郷でもある)で、銭塘江(浙江)の南岸、夏王朝の始祖禹王が葬られたという会稽山があり、春秋時代には呉越の戦いがあったなど、史跡に富むところであった。王羲之はその地の山水に強くひかれ、終焉の地と心に決めた。
 353年3月3日 会稽郡山陰県西南20里(8km)の名勝の地、蘭亭で風雅な遊楽の宴を主催した。集まったのは謝安、謝万、孫綽などの高名な文人と王羲之の兄弟や子供たち、春の微風を受けながら曲水の宴を楽しみ、それぞれ自作の詩を朗詠した。27人が詩作を披露、詩を賦すことができなかったものは罰盃の酒を飲みほさなければならない。このときの27人の作品はやがて『蘭亭集』としてまとめられ、その序文を王羲之が書いた。それが世に『蘭亭序』と言われる書である。
 王羲之の『蘭亭序』は、その原本は失われており、現在みることができるのは模写したものか、あるいは木刻したものの拓本である。真蹟は伝承では太宗の所有となり、その死によって陵に納められたためみることができなくなった、とされている。1965年に中国で今伝わる『蘭亭序』の筆蹟は王羲之のものではない、偽物だという説が出され波紋をひろげた。 → 『蘭亭序』の項を参照

その他の作品

 『蘭亭序』は行書で書かれているが、王羲之の作品として伝えられいるものには、他に楷書や草書で書かれた次のようなものがあり、また多くの書簡の断簡(尺牘)も伝えられている。ただし、現在みることができるのはいずれも模本か拓本である。中には日本に伝えられたものしか現存しないものもある。
・『楽毅論』楷書で書かれており、日本の正倉院には聖武天皇夫人の光明皇后が筆写(臨書)したという『楽毅論』が残されている。
・『喪乱帖』行書で書かれており、手紙の断簡を集めたもの。東晋の北伐の経緯などが断片的に知られる。日本に伝えられ、桓武天皇の御物として皇室に伝えられているものだけが現存する。
・『十七帖』草書で書かれた書簡を集めたもの。古来、草書の手本として尊重されている。これ以外にも、いくつかの断簡が伝えられている。

Episode 王羲之の鵝(アヒル)好き

 王羲之は鵝(アヒル)が大好きだったという。あるとき一人暮らしのおばあさんがすばらしい鵝を飼っているときき、売ってほしいとたのんだが、承知してくれない。せめて一度なりともみせてもらいたいと、ともだちと連れだってばあさんのところに出かけることにした。ところが王羲之たちがわざわざ来てくれると聞いたばあさんは、鵝を料理して待っていた。ばあさんのところにきた王羲之はくやしがった。
 また、ある村の道士が飼っていた鵝を手に入れたときの話もよく知られている。すばらしい鵝なのをみた王羲之がぜひ譲ってほしいと頼んだが、道士はうんといわない。王羲之も後に引かず交渉したところ、道士がひとつだけ条件があると言い出した。それは老子道徳経を誰かに描いて貰おうと思い白絹を用意しているが「よう書けるやつがみつからん、おぬしに書のたしなみがあって書いてくれたら鵝をそっくりやろう」というものだった。よろこんだ王羲之は半日かかって道徳経五千文字を書き上げ、かごいっぱいの鵝をうけとって上機嫌でひきあげた。王羲之は、あひるの姿や動きが大好きだったのだ。<吉川忠夫『同上書』 p.145-146>
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書籍案内

吉川忠夫
『王羲之―六朝貴族の世界』
2010 岩波現代新書
初刊は1972 清水書院

王羲之の生きた六朝時代を描く。書法そのものを論じたものではないが、六朝文化を知る世界史の参考書としては好著のひとつ。再刊で新しい論考を加えている。