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ソグド人

中央アジアで東西交易に従事したイラン系民族。サマルカンドを中心に、匈奴や突厥の保護の下、東西交易に活躍。唐代の長安でも活動し、ゾロアスター教・マニ教を中国に伝えた。

 現在の中央アジア諸国の一つ、ウズベキスタンの都市サマルカンドを中心とした一帯であるソグディアナ地方を原住地とするイラン系民族で、古くから内陸のシルクロード(オアシスの道)での交易に従事していた商業民族であり、その多くはソグド商人といわれた。

ソグド人・ソグド語・ソグド文字

 ソグド人は人種的にはコーカソイドであり、ヨーロッパ人と同じ緑や青い目、眼窩が深く鼻が高い。濃い鬚、亜麻色・栗色あるいはブルネットの巻き毛などが特徴である。言語は、今は滅びたソグド語で、インド=ヨーロッパ語族に属する中世イラン語の東方言のひとつだった。
 紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシア帝国キュロス2世に征服され、その属州となった。そのころ、はじめて文字が使われるようになったが、それはアケメネス朝の公用語であるアラム語がアラム文字で書かれているだけだった。アケメネス朝滅亡後にアラム文字でソグド語を書写するようになり、アラム文字の草書体としてソグド文字が生まれた。
 ソグド人はソグディアナ地方を中心に中央ユーラシアで商業活動を行っただけでなく、武人や外交使節、宗教伝道者、通訳、音楽や舞踏、幻術などの芸能者として活躍したため、ソグド語は中央ユーラシア、とりわけシルクロード東部の国際共通語となり、ソグド文字は突厥文字、ウイグル文字、モンゴル文字、満洲文字へと転化していった。
 ソグディアナは前4世紀の末にアレクサンドロス大王によってペルシア帝国が滅ぼされてから、ギリシア系のセレウコス朝シリア、バクトリアの領域となり、その後は大月氏国、クシャーナ朝、ササン朝、エフタル、突厥などの支配が続いたが、いずれも間接的支配に留まり、実質的にはほぼ独立の状態が続いた。

ソグド人と突厥帝国

 彼らは東トルキスタンからモンゴル高原、西域諸国を通って中国にも進出した。古くは遊牧帝国である匈奴に従っていたが、6世紀に突厥帝国がモンゴル高原から中央アジアに及ぶ遊牧国家の大帝国を建設すると、その保護のもとで東西交易に活躍した。突厥とソグド人の関係は一方の軍事力と一方の経済力と文化が相互に依存しあう関係であったと考えられる。続くウイグルなど騎馬遊牧民の遊牧国家との関係も同様であった。

唐朝の建国とソグド人

 617年、李淵(高祖)が挙兵し、翌年長安城で唐朝を創業したとき、ソグド人がそれを助けている。西域への出入り口にあたる河西の中心地涼州(武威)を拠点としたソグド人の首領(薩宝と呼ばれた)であった安修仁は、群雄の一人李軌に従っていたが、兄の安興貴は長安で即位した李淵に仕えていた。兄は涼州に赴き、弟と共に李軌に長安への帰順を説得したが、李軌がそれを拒否したので、兄弟はウイグル人(当時は胡人と言われた)集団を率いてクーデタを起こし、李軌を殺害、河西を唐に献上した。これによって安兄弟は唐朝の功臣として地位を築いた。この安氏以外にもソグド人が、西魏以来の府兵制をささえる軍団の郷兵としてその中核となっていたことが、最近の研究で明らかになっている。<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』2007初刊 2016 講談社学術文庫 p.140-141>

ソグド人と唐帝国

 7~8世紀には中国のの勢力が西域に及び、その保護のもとで東西交易に活躍し、唐の都長安には多数のソグド人商人が住んでいたことが知られている。彼らによって中央アジアから中国にかけて、イラン人の宗教であるゾロアスター教マニ教がひろがり、中国にも伝えられた。ソグド人は中国社会では商人として活動しただけでなく、武人として活躍したものも多く、唐で節度使となり、安史の乱を引き起こした安禄山はソグド人であった。

Episode 密と膠(にかわ)の民

 『旧唐書』などによると「(ソグド人は)子供が生まれると、かならず、その口中に石密(氷砂糖)をふくませ、掌中に明膠(よいにかわ)を握らせる。それは、その子供が成長したあかつきに、口に甘言を弄することを石密の甘きがごとく、掌に銭を握ること膠の粘着するがごとくであれ、という願いからである。人々は胡書を習い、商売上手で、分銖(わずか)の利益を争う。男子が二〇歳になると商売のために近隣の国へ旅立たせ、こういう連中が中国へもやって来る。およそ商利のあるところ、彼らの足跡のおよばぬところはない」という。彼らソグド人は、密と膠とに祝福された生まれながらの商人だったのである。<護雅夫『古代遊牧帝国』1976 中公新書 p.168>

ソグド人の行方

 ソグド人とそのソグド語、ソグド文字は、いつごろ、どのように消滅していったのだろうか。本国ソグディアナは8世紀中葉にイスラーム帝国アッバース朝の直接支配下に入り、それ以後イスラーム化が進行するにつれて、徐々にソグド人としての宗教的・文化的独自性は失われていく。特にサーマーン朝治下では、アラビア文字ペルシア語が主流となった。そのような近世ペルシア語が現在のタジク語につながっていく。一方、カラハン朝以後のトルコ系イスラーム諸王朝治下でトルキスタン化が進むと、アラビア文字トルコ語が支配的になっていく。 → トルコ人のイスラーム化
 西トルキスタンの都市部・平野部の言語がトルコ語とペルシア語にすっかり替わってしまった後も、山間部ではソグド語が細々と保たれたらしい。20世紀後半、ザラフシャン河上流にあるヨグノーブ渓谷で約3000人が話していたヤグノーブ語は、その唯一の生きのこりである。
 また東トルキスタンの西ウイグル王国にはソグド系ウイグル商人が活動していたことが、トゥルファンのベゼクリフ千仏洞(11~12世紀ごろ)の仏教壁画に紅毛碧眼で高い鼻などコーカソイドの特徴の見られる人物像が、おそらくソグド人であることから分かっている。<森安孝夫『同上書』 p.368-370>
ソグド文字のその後、  ソグド人は消滅したのではなく、他の民族の中に融解していったのである。ソグド人がもたらしたソグド文字がほそぼそとそのままウイグル文字となり、それが13世紀にモンゴル文字となった。さらにモンゴル文字が16世紀末~17世紀初頭に改良されて満州文字となる。ソグド文化は清朝の文化に受け継がれ、現在も中国の内蒙古自治区で使われているモンゴル文字は現代に残るソグド文化の遺産なのである。<森安孝夫『同上書』 p.371>

中国のソグド人

(引用)ところで、史料に登場する人物をみて、どうしてそれがソグド人だとわかるのかというと、それはソグド固有の姓をもっているからである。中国の記録は当然ながら漢字で書かれ、アルファベットは用いない。ソグドの国名も漢字で表記される。例えば、サマルカンドは康国、タシケントは石国、ブハラは安国、ケッシュは史国のごとくである。そして、彼らの姓名を中国風に表記するとき、康国の人ならば康某、タシケントの人ならば石某というように、みな出身と同じ国名を姓とする。とすれば、有名な人物に思いあたるであろう。安史の乱を起こした首謀者の安禄山史思明は、ブハラとケッシュのソグド人の血を引いているのである。<石見清裕『唐代の国際関係』世界史リブレット97 2009 山川出版社 p.32>
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書籍案内

森安孝夫
『シルクロードと唐帝国』
興亡の世界史 2007初刊
2016 講談社学術文庫

護雅夫
『古代遊牧帝国』
1976 中公新書

石見清裕
『唐代の国際関係』
世界史リブレット97
2009 山川出版社

唐と北方民族・西方世界との関係を東アジア世界としてとらえている。