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皇帝教皇主義(参考)

参考項目 ビザンツ帝国で、皇帝がギリシア正教の総主教に対し常に優位を保っていたとして、ビザンツ皇帝の特質を示す概念、とされていたが、現在は否定されており、教科書からも省かれるようになった。

 かつてはどの世界史教科書でも、ビザンツ帝国を説明するとき、ビザンツ皇帝はキリストの代理者として国を治め、その絶対的権威は国政のみならず、ギリシア正教のコンスタンティノープル総主教の任免権以下の聖職にまで及び、政教両面を支配する専制君主であったと説明され、その概念を示す用語として「皇帝教皇主義」がとりあげられていた。そしてそれは、西ヨーロッパでは神聖ローマ皇帝や国王たちが聖職者の叙任権闘争などで常に対立し、政治上の権力と宗教上の権力が分離していたことと著しい違いがあり、ビザンツ帝国、しいては東ヨーロッパのギリシア正教世界の特色であると説明され、理解されてきた。
 しかし、現在は「皇帝教皇主義」という概念は誤り、というより西における皇帝と教皇の関係を一つのモデルとしたとき、それに対比するために作り上げた虚像にすぎないのであり、実際のあり方とは離れているとの見方が強まり、この用語は用いられなくなってきた。いささか煩雑であるが、教科書・用語集でのこの用語の扱いの変遷を見てみよう。

教科書・用語集から消えた「教皇皇帝主義」

 現在(2019年)使用されている、山川出版社の『詳説世界史』には「1054年にキリスト教世界は、教皇を首長とするローマ=カトリック教会と、ビザンツ皇帝を首長とするギリシア正教会の二つに完全に分裂した」<p.126>という一文があり、これは1990年代以来、基本的に変わっていない。また、「西ヨーロッパでは皇帝と教皇という二つの権力がならびたっていたのに対して、ビザンツ皇帝は地上におけるキリストの代理人としてギリシア正教会を支配する立場にあり、政治と宗教両面における最高の権力者であった」<p.132>との記述は2008年版以来続いている。
 このような西ヨーロッパのローマ=カトリック世界とビザンツ帝国のギリシア正教世界とを対比させたときに強調されたのが、後者の皇帝が教会の首長を兼ねて教会をも支配する体制を意味する「皇帝教皇主義」という概念であった。山川詳説でも1990年代の旧版ではカッコ付きながらその用語が見られる。しかし、2000年代になると、本文はあまりかわないが「皇帝教皇主義」の語そのものはなくなった。他の教書では2013年版まではカッコ付きであったりしながら、まだ使われていた。
 山川版『世界史B用語集』でも2013年版までは「皇帝教皇主義」Caesaropapism として「ビザンツ帝国において、皇帝がギリシア正教会の首長(コンスタンティノープル総主教)の任免権を持つことで、政教両権を握った体制のこと。皇帝権(王権)と教皇権が分離されていた西ヨーロッパの体制とは、大きな違いがある」と説明されている。
 ところが、2014以降の版から「皇帝教皇主義」という事項は姿を消した。ということはすべての教科書で取り上げられなくなった、と見て良いだろう。もっとも山川の詳説世界史では上記のように「皇帝教皇主義」という用語は消えたものの、その中身が本文に残っているのはいささか不徹底のような気もするが。

ビザンツ皇帝とギリシア正教

 それでは、ビザンツ皇帝とギリシア正教の関係は正しくはどのようなものだったのだろうか。また、従来の説明は何故誤っているとされたのであろうか。それらの事情を端的に解説したものがなかなか見つからないが、次の一文が最もよくまとまっていると思うので長くなるが引用しよう。 (引用)初期の教義論争に皇帝は積極的に介入し、公会議を開催し、コンスタンティノープル総主教を初めとする高級聖職者の人事権をも掌握して、教会に絶大な影響力を行使した。こうした黄帝の姿は、かつて「皇帝教皇主義」という用語で説明されることが少なくなかった。しかし今日では、それは、誤解をまねきやすい不正確な用語として使用を控えるべきとする見解が主流になっている。なにより、皇帝は決して聖職者ではなく、教会の祭式を自ら執行することはなかったこと、そして「皇帝教皇主義」という用語自体が、皇帝権と教皇権が長い抗争のすえに分立、別個の世界を築いた中世西欧の現実を前提として構想された概念であり、異なる歴史をたどったビザンツの状況を、それを基準に異端視するかのような言説は倒錯した議論としかいえぬこと、がその理由である。<根津由喜夫『ビザンツの国家と社会』世界史リブレット104 2008 山川出版社 p.15>  また「コンスタンティノープル総主教はつねに皇帝の言いなりになっていたわけではなく、後者の放恣な行動にたいして道徳的な見地から警告を与え、正しい方向に教導しうる存在としての高い権威が認められていた」のであり、「都で皇帝にたいする反対行動が生じたとき、総主教座聖堂たる聖(ハギア)ソフィアがそのうした集団の結集の場となったのは、以上のような背景があったのである」と記している。<根津 同上>
※ここでの根津氏の指摘に従えば、皇帝教皇主義という用語は使うべきではないと言うことが了解されるが、とすると山川詳説世界史の本文にある「ビザンツ皇帝を首長とするギリシア正教会」とか「ビザンツ皇帝は地上におけるキリストの代理人としてギリシア正教会を支配する立場にあり、政治と宗教両面における最高の権力者であった」といった記述も修正しなければならないのではないだろうか。山川出版教科書編集部の見解を聞きたいところだ。

参考 ビザンチン=ハーモニー

 どうやら「皇帝教皇主義」とは、西ヨーロッパのカトリック世界の政教分離問題を東のギリシア正教に投影して、勝手に作り上げてしまった虚像であるらしい。日本の歴史教育が西ヨーロッパの位置から周りを見てきたこと、すぐ隣のビザンツ世界に対しても同様の誤りを犯したと言えるのかも知れない。最近のビザンツやギリシア正教の研究の立場から異議申し立てがあったのだろう。  もっとも日本でのギリシア正教研究者高橋保行さんが1980年に出した『ギリシア正教』には、ギリシア正教の側からの認識が述べられている。高橋氏は、皇帝教皇主義は「カエザロ・パピズム」の訳語であるが、カエザロ・パピズム(注)という概念は西側のものであり、ギリシア教会とビザンツ帝国の関係を理解するキーワードは「ビザンチン=ハーモニー」だという。(注 カエザロとはカエサルつまり皇帝とパパつまり教皇、法王をどちらかが兼ねること)
(引用)中世西欧のキリスト教は、国家を俗とし、教会を聖なるものとして、互いに対立する位置に両者を置いている。これは、国家機構形成期にあった各民族に対して、ローマ法王を中心とする教会機構が立ちはだかっていたという歴史的現実を背景に生じた考え方である。ここから両者の力関係おおびカエザロ・パピズムという問題が出てくるのである。カエザロ・パピズムとは、皇帝が同時に法王となったり、反対に、法王が皇帝となったりすることをいう。両者共に力関係が崩れたときに起きる状態と言える。近代西欧において政教分離という考えがでたのは、宗教と国家をこのような関係に置かないためである。
 この国家と教会の力関係とカエザロ・パピズムに対して、東のキリスト教のビザンチン・ハーモニーがある。ビザンチン・ハーモニーは、原則として国家と教会を対立する力関係や位置に置かない。……互いの立場を尊重しつつ、教会はこの世の救いに専念するものであって、政治的に国家と競う機構でない。皇帝は、その立場をもって政治の面から、この世を来世の写しとし、教会の聖職者は同じことを教会の面から充実させるのである。このように、帝国を代表する皇帝と、教会を代表する総主教が互いに立場を理解し、共通のゴールに向かって歩む形をビザンチン・ハーモニーとよぶ。敵対するか断絶か、それともどちらかが一方的に治めるかという問題はここにはない。したがって政教分離という考え方も生じてこない。<高橋保行『ギリシア正教』1980 講談社学術文庫 p.87-88>
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書籍案内

根津由喜夫
『ビザンツの国家と社会』
世界史リブレット 104
2008 山川出版社

高橋保行
『ギリシア正教』
講談社学術文庫