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(1)朝鮮王朝

1392年に李成桂がひらいた朝鮮の統一王朝。訓民正音など独自の文化を発展させた。16世紀末には豊臣秀吉軍の侵入を受けて国土が荒廃、さらに北方を清朝に脅かされ、1637年からは事実上その属国となった。

 1392年に李成桂によって始められた王朝。高麗倭寇に苦しんで衰退する中、倭寇の撃退に成功した李成桂が高麗に代わり建国した。その後日本に併合される1910年まで存続した(1897年、国号を大韓帝国に変える)。都は漢城(現在のソウル)。

注意 李氏朝鮮とはいわない

 朝鮮王朝は、李成桂が建国し、李氏が王位を継承した王朝なので日本では李氏朝鮮(または李朝)という言い方をするが、韓国ではそのような言い方はされず、現在は日本でも李氏朝鮮と言う用語は使用しない。李成桂の立てた国の名称は、「朝鮮」そのものであり、この王朝でしか使われていないから、わざわざ「李氏」をつける必要はない。古代の朝鮮を区別して言う場合には「古朝鮮」という。「李朝」は文化史などでは現在もよく使われているが、世界史上ではベトナムにも李朝があるので、混同しないようにしよう。

15~16世紀 世宗の全盛期と士禍

 成立時から宗主国とし、その属国という立場を採った。15世紀には世宗のもとで安定し、文化が開花し、訓民正音が作られた。  また明から伝えられた朱子学は、世襲官僚である両班の政治理念、生活規範として受容され、高麗王朝の仏教に代わって、李朝では儒教が国家の理念として重んじられることになった。16世紀には朝鮮の儒教李退渓李栗谷などの大家が現れ、もっとも盛んであった。その一方で、16世紀には、両班のなかに首都の漢城に居住し大官の地位を占める建国以来の功臣の一族である勲旧派と、地方を基盤とした在郷両班である士林派の二派に分かれ、特に権力を握る勲旧派による新興勢力である士林派に対する弾圧事件が続き、それを士禍という。

壬辰・丁酉の倭乱

 15世紀には日本とも積極的に日朝貿易を展開したが、16世紀には再び倭寇の動きが活発となって海岸地歩を脅かした。16世紀末には日本の豊臣秀吉の侵略(朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱という)が起こった。1592年に侵攻を開始した倭軍は、都の漢城を陥落させ、さらに平壌を占領した。朝鮮は明の援軍を受け、平壌を奪回し、李舜臣の率いる水軍が各地で勝利して倭軍の補給路を遮断した。戦争は長期化し、一旦講和が成立したが、倭軍は1597年に再び侵攻し、今度は朝鮮南部で激しい攻防が繰り広げられた。その間、倭軍による略奪、破壊、さらに撤退する明軍による暴行などもあり、朝鮮の国土は荒廃した。1598年、豊臣秀吉が死去したため、倭軍は撤退を開始し、年末までにようやく戦闘が終わった。
 この戦争で朝鮮は国土の荒廃、人口の減少に留まらず、多くの陶工や活版工、織工が拉致され、また儒者も捕虜となって日本に連行され、生産力・文化面でも大きな打撃を受けた。李朝政府は支配体制を再建するために儒教道徳による人心の安定をめざして、規律を強めた。

17~18世紀 清の属国化と鎖国

 ついで満州に女真がおこると太宗ホンタイジの時に朝鮮に対する侵攻を重ねた。そのため朝鮮は1637年にに服属し、明に対してと同じように宗主国として従属することとなった。毎年、清朝に朝貢のための使節として燕行使を派遣した。しかし、朝鮮の両班層は非漢民族王朝である清に対しては政治的・外交的には従ったが、文化面では明の正統的な文化を継承しているという自負を持っており、小中華思想ともいうべき意識を持ち続けていた。一方、日本との間では徳川氏の江戸幕府が国交回復に転じたため、朝鮮通信使をほぼ将軍の代替わりごとに派遣し、鎖国時代の日本に文化的な刺激を与えた。
党争 しかし、安定した支配層となった両班層は、血統で結びついた党派が形成され、中央政界では派閥を形成して争うようになった。16世紀末から激しくなり、17世紀を通じて続いた有力両班層の党派党争を党争という。これは儒学の学派争いと結びついて不毛な議論と抗争を続けた結果、朝鮮王朝の国力を衰退させる大きな要因となった。

朝鮮王朝の文化

 朝鮮(李朝)を代表する文化的な遺産は、何と言っても訓民正音をあげなければならない。漢字文化圏にありながら、朝鮮王朝政権が短期間に独自の文字を作り上げたことは、特筆に値する。また高麗が仏教を保護したのに対して、朝鮮王朝は儒教を国教として重んじ、李退渓李栗谷などを産み、独自の発展をとげてその社会に深く根を下ろしたが、反面、朝鮮の近代化を疎外する面も強かった。
 美術・工芸の分野では、陶磁器が高麗の高麗青磁に代わって、明の正当技術の影響を受けながら、白磁の製造で独自の文化を高めた。李朝の陶磁器は日本にも輸出され、室町から安土桃山時代の茶道の流行のなかで、茶人に珍重された。そして16世紀末の豊臣秀吉の侵略の際に、多くの陶工が日本に連れ去られ、有田焼・萩焼・薩摩焼などが起こった。また儒者の姜沆(カンハン)は捕虜として日本に連れ去られ、日本の朱子学者に大きな影響を与えた。

(2)朝鮮王朝の危機

19世紀、欧米列強の圧力高まり、1876年、日本の圧力で開国する。日清戦争での日本の勝利により、清の宗主権は否定され、1897年に大韓帝国と称号を変える。

外圧への抵抗と開国

 19世紀にヨーロッパ列強の圧力が強まると、その小中華思想によって鎖国政策をとり、排外活動を行った。特に1870年代には国王高宗の父の大院君が摂政として政権を掌握し、アメリカ・イギリス・フランスの侵略に抵抗する攘夷事件が相次いだ。しかし、高宗が成人に達した1873年から、王妃の閔妃とその一派が実権を握った。そのころすでにいち早く明治維新を成し遂げ、近代国家の体裁をとった隣国の日本が朝鮮に対して圧力をかけ、江華島事件を機に1876年に日朝修好条規が強要されて開国した。

壬午軍乱

 政治的な定見のない閔氏が日本に従って軍政改革を実行したことから、旧来の兵士の不満が高まり、1882年に壬午軍乱が起こると、反乱軍は日本公使館を襲撃するとともに閔氏政権を倒し、大院君を政権に復帰させた。それに対して軍隊を介入させた清は、大院君を捉えて清に拉致し、閔氏政権を復活させた。

甲申事変

 その後、朝鮮の宮廷では、日本にならった改革をめざす独立党と、宗主国である清と結ぶ保守派である事大党の対立が厳しくなり、閔氏政権は清及び保守派と結んだ。それに対して独立党の金玉均らが1884年に閔氏一派の排除と日本に倣った改革を目指して甲申政変を起こしたが、これも清軍の介入で失敗し、金玉均らは日本に亡命した。この事件後、日本と清は天津条約を結んで、出兵の際には互いに事前通告することとした。

甲午農民戦争と日清戦争

 この間、開国後の朝鮮では外国商品に市場を抑えられ、民衆の生活は苦しくなり、次第に西洋文明に対する反発が強まり、1894年に東学という反キリスト教教団の全琫準に率いられた農民が蜂起し甲午農民戦争(東学党の乱)が起こった。それを機に出兵した日清両国は、同年に衝突して日清戦争となった。その結果、下関条約で中国は朝鮮の独立を認め宗主国との立場から退いた。日本は日清戦争の勝利によって賠償金とともに、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲を受けるなどアジアの大国化への第一歩を踏み出した。

親露派の台頭と閔妃暗殺

 その後、アジアへの進出を積極的に展開したロシアが三国干渉の中心となって日本に遼東半島を還付させたことをうけ、朝鮮内部でロシアと結ぼうとする勢力が台頭した。それが王妃の閔妃一派であった。閔氏政権がロシアとの結びつきを強めていることを恐れた日本は、駐韓日本公使の三浦梧楼が命令して、1895年、閔妃暗殺事件を引き起こしたが、かえって朝鮮民衆の反発を受け、朝鮮国王の居室がロシア公使館に移されるなど、ロシアの力が強まった。

大韓帝国への改称と日本の韓国併合

 朝鮮は、独立を達成したことを示すため、1897年、国号を大韓帝国(略称が韓国)に改めたが、それは名ばかりで、ロシアと日本が盛んに干渉し、独立国としての実態を保つことが次第に困難となっていった。
 その後、日露戦争と戦後の過程で日本は3次にわたる日韓協約を韓国に押しつけ、保護国化を進め、ついに1910年の日本の韓国併合によって独立を失い、日本の植民地となった。