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リヴァプール

イギリスの代表的な港湾都市。18世紀には三角貿易の一環である奴隷貿易の拠点として繁栄し、19世紀にはマンチェスターなどの工業生産の原料としての綿花輸入と製品としての綿布の積出によってイギリス資本主義を支え、さらに新大陸への移民の出発地となった。イギリス産業の盛衰とともにあり、戦後は長く停滞している。

リヴァプール GoogleMap

リヴァプール Liverpool (リバプール)はイギリス(イングランド)の西海岸、マージー川の河口にある港湾都市。アイルランドへの渡航の出発港であったが、15世紀末からの大航海時代にはブリストルと並んで、新大陸に向けての遠洋航海の基地として重要性を増した。港湾とともに商業や造船業も興り、イギリスでも有数の都市に成長した。リヴァプールは、世界史の中で、その港湾としての性格を、三回にわたって変化させている。
三角貿易・黒人奴隷貿易 最初は18世紀にイギリスの三角貿易の拠点としての繁栄したことであり、リヴァプールを出港した船はアフリカ西岸で黒人奴隷を積み込んで西インド諸島などに運び、帰りに新大陸からタバコやコーヒーなどを積み込んで帰り、大きな利益を上げた。この黒人奴隷貿易による利益がリヴァプールの最初の繁栄をもたらした。
工業原料と製品の輸出入 黒人奴隷貿易が禁止された19世紀には、イギリス産業革命で成長した内陸の綿工業都市マンチェスターにむけての原料の綿花の輸入、そして綿製品の輸出港として繁栄し、1830年に両市を結ぶ鉄道が開通した。こうしてリヴァプールはイギリス資本主義を支えた貿易港として重要な都市となった。
新大陸への移民 19世紀には並行してアメリカ新大陸への移民の出発港となった。特にアイルランドからの移民はいったんリヴァプールに渡り、そこから新大陸に向かった。このようにリヴァプールは、黒人奴隷貿易・原料と工業製品の輸出入・新大陸への移民によって支えられてきた。
戦後の停滞 第二次世界大戦後はイギリス産業の停滞によって、次第に活性を失っていった。しかし、港湾都市としての自由さや新しいものを受け入れる性格は残っていたのか、1960年代にリヴァプール出身の若者が結成したザ=ビートルズの登場で活気を取り戻すことになった。現在は世界遺産とされたリヴァプール港の施設が、かつての繁栄を物語っているだけである。

三角貿易(黒人奴隷貿易) 18世紀

(引用)三角貿易のお蔭で、18世紀のヨーロッパには二つの新しい港湾都市が彗星の如く台頭した。すなわち、イギリスのリヴァプールとフランスのナントである。17世紀にすでに成長を開始していたブリストルやボルドーも、この貿易の拡大に伴っていっそう発展した。リヴァプールの最初の奴隷貿易船は、1709年にアフリカに向かった30トンの小型船であった。1783年になるとこの港は、奴隷貿易のために85隻、1万2294トンの船を保有するに至った。1709年から1783年までに、延べ2249隻、24万657トンの船がリヴァプールからアフリカに赴いた。年平均にすれば30隻、3200トンである。全船舶に対する奴隷船の比率は……1771年には3隻に1隻が奴隷貿易船となった。1752年には88隻のリヴァプール船がアフリカから運び出した奴隷は2万4730人を数えた。<エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで』1970 岩波現代新書 2014 p.229-230「資本主義と奴隷制」>
 リヴァプールが1770年にアフリカへ輸出した商品は、豆類、真鍮、ビール、繊維品、銅、ロウソク、椅子、サイダー、索具、陶器、火薬、ガラス、小間物類、鉄、船、双眼鏡、しろめ、パイプ、紙、ストッキング、銀、砂糖、食塩、やかん。まるでイギリス物産の一覧表の感がある。<同上書 p.230>

Episode リヴァプール税関の紋章は何を語る

(引用)当時、リヴァプール市民の人口に膾炙した常套句にこんなのがあった。すなわち、わが町の大通りを区切るのはアフリカ人の奴隷をつないだ鉄鎖、家々の壁に塗り込められたのは奴隷の血潮、というのである。実際、1783年までにリヴァプールは、商業の分野では世界一有名な――というか不名誉な、というかは立場の問題だが――都市のひとつとなった。赤レンガ造りの同市の税関が採用しているニグロの頭部を象った紋章こそは、このリヴァプールが何を踏み台として発展したかを無言のうちに、しかしきわめて雄弁に物語っている。<エリック=ウィリアムズ『同上書』 p.230>

Episode 黒人の血で固められた煉瓦 リヴァプール

 同じくエリック=ウィリアムズには、次のような文がある。
(引用)同市(リヴァプール)には、ある役者についてこんな挿話がつたえられている。その役者は、一再ならず酔っぱらって舞台に出たため、ひっこめとばかり観客に野次られたが、そのとき少しも騒がず威たけだかにやり返した。「リヴァプールくんだりまでやってきて、人でなしどもに野次られるなんて、おたまりこぼしがあるものかい。おまえさん方の町じゃあ、地獄じゃないが、煉瓦は一枚一枚アフリカ人の血で固めてあるんだってね」。<エリック=ウィリアムズ/中山毅訳『資本主義と奴隷制』初刊 1944 ちくま学芸文庫 2020 p.108>

黒人奴隷貿易の禁止

 リヴァプールは18世紀に、三角貿易における黒人奴隷貿易の拠点港として繁栄していたが、フランス革命などの人権思想の影響もあって、イギリス国内にその非人道性が非難されるようになり、ウィルバーフォースらの努力によって、1807年、イギリス議会は本国とアフリカ・西インド諸島間で行われていた奴隷貿易を禁止する法案を可決した。リヴァプールの奴隷商人は反対したが、時代の大勢を覆すことはできなかった。奴隷貿易を禁止されたことによって、リヴァプールは新たな活路を見出す必要に迫られていた。

産業革命 18世紀後半

 代わってリヴァプールを支えたのは、18世紀の後半に進行した産業革命によって、リヴァプールの後背地であるランカシャー地方のマンチェスターを中心に綿工業が勃興、その原料としてアメリカ大陸や植民地インドなどから輸入される綿花を運ぶ、という新たな需要だった。しかし当時はその輸送の多くは運河を利用していたが、時間がかかることと、運河会社(途中の土地の地主が経営していた)が運賃を引き上げたことによって、新たな輸送方式を模索するようになった。
マンチェスター=リヴァプール鉄道 一方、マンチェスターの産業資本家もその機械製綿布の輸出港としてリヴァプールと繋がることが必要であったので、両市を鉄道で結ぼうという動きが高まり、スティーヴンソンが実用化した蒸気機関車を利用して、1830年リヴァプール・マンチェスター鉄道を開設した。この鉄道は貨物だけでなく、乗客を輸送する本格的な営業鉄道として、最初の成功を収めることとなった。

移民 19世紀~現代

 19世紀には並行してアメリカへの移民の出発地として利用された。その後もイギリスの主要な貿易港として続いたが、第二次世界大戦後はイギリス経済全体の落ち込みと共に貿易も不振となり、リヴァプールもかつての繁栄は見られなくなった。しかし、文化面では早くから新しいものを生み出す活力を持っていたのか、特にポピュラー音楽において「リヴァプール・サウンド」が若者の支持を受け、その中から1960年代に彗星のごとく出現したのがビートルズだった。なお、リヴァプールは2004年にその市街地が近代港湾都市の遺構として世界遺産に登録された。

News リヴァプール「危機遺産」に登録

 ビートルズゆかりの地、リヴァプール(リバプール)は18~19世紀の産業革命を機に、ヨーロッパからアメリカに渡る移民や奴隷、物資を中継する「海商都市」として栄えた。世界初の耐火倉庫やドック、船会社のビルなど大英帝国を支えた施設の残る街の一部が2001年に世界遺産に登録され、倉庫やビルの一部はホテルやオフィスになっている。しかし、大戦前に80万を超えた人口は現在、46万ほど。仕事の無い人のいる世帯の割合は40%を越え、イギリスの中で最も高い。市の再生が大きな課題となり、遺跡周囲の緩衝地帯に大規模な商業施設計画が持ち上がった。その計画に対し、ユネスコは2012年、緩衝地帯に高層ビルなどを建設すると歴史的景観が損なわれるとして、リヴァプールを「危機遺産」に登録した。世界遺産としての価値が失われればリストから外す可能性が出てきたのだ。他に内戦状態にあるリビアのパルミラ遺跡など8件が新たに危機遺産に登録された。リヴァプール市関係者は「再生」と「世界遺産」を両立させる計画を練り直すと言っているが、見通しは立っていない。<『朝日新聞』2016年8月5日付け>
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書籍案内

E.ウィリアムズ
中山毅訳
『資本主義と奴隷制』
初刊 1944
ちくま学芸文庫 2020

エリック=ウィリアムズ
/川北稔訳
『コロンブスからカストロまで(Ⅰ)』カリブ海域史1942-1969 初刊 1970
岩波現代文庫 2014