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三月革命

1848年、フランスの二月革命が波及してドイツ(プロイセン)とオーストリアで起こった自由主義の実現を目指す革命運動。ウィーン体制を終わらせることとなった。

 ウィーン体制のもとで自由主義ナショナリズムの運動は抑圧されていたが、1830年代以降、ヨーロッパの各地で民衆が蜂起してウィーン体制の動揺が顕著になっていった。その最後の段階で1848年にフランスの二月革命が起き、ルイ=フィリップが追放されて第二共和政が成立したという知らせはたちまちに隣国ドイツ連邦の諸邦に伝わった。

フランス二月革命の波及

 パリの二月革命の報知はたちまちドイツ連邦の諸邦に広がり、バーデン大公国(マンハイム)、ヴュルテンベルク、バイエルン、ナッサウ、ザクセン、ハノーファーなどの諸邦で次々と民衆が蜂起し、出版の自由、自由主義内閣、陪審裁判制等の「三月要求」を掲げる市民集会やデモが開かれ、農村では封建的賦課の廃棄を迫って領主の城館を襲った。その結果、各国に自由主義者の指導する「三月内閣」が生まれた。さらに3月にはドイツ連邦を構成する二大国オーストリアとプロイセンのそれぞれの首都ウィーンとベルリンにも革命の火の手が上がった。

ウィーンとベルリンの革命

 ウィーンでは3月13日、市民・学生が蜂起してウィーン三月革命となり、憲法制定国会の召集とメッテルニヒ解任の要求を実現させた。ベルリンでは3月18日、暴動の拡大を恐れた国王が憲法制定などを約束、ベルリン三月革命となった。
 特にオーストリア帝国で革命が起こったことは、同時に帝国支配下にあったロンバルディア、ヴェネツィアではイタリア人の、ハンガリーではコッシュートが指導するマジャール人が蜂起(ハンガリー民族運動)し、ベーメンのチェッコ人も自治権を要求して立ち上がりスラヴ民族会議を開催するなど、ナショナリズムの運動が一気に高揚し、諸国民の春といわれる盛り上がりを見せた。イタリアでも統一運動が高揚し、ロシア支配下のポーランドでも民衆が蜂起した。

ウィーン体制崩壊とドイツ

 これら一連の動きを1848年革命といい、これによってウィーン体制といわれる専制的政治と民族抑圧の国際体制は崩壊した。しかし、革命後の情勢は政治体制において立憲君主政と共和政のいずれを採るか対立が激しく、またもう一つの課題であるドイツ民族の統一と国民国家の樹立は諸邦の対立から実現せず、またイタリア、ハンガリー、チェック人などの民族独立もすぐには達成できなかった。さらに、この年、マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を発表したことに象徴されるように、ブルジョワジーとプロレタリアの階級対立が新たな対立軸として明確になっていく。19世紀後半のドイツ民族は、プロイセンとオーストリアの二つの近代的国民国家を形成していくこととなる。

ウィーン三月革命

1848年、フランスの二月革命がオーストリアに波及して起こった革命。市民が自由の実現と憲法の制定を求めて蜂起し、メッテルニヒを失脚させた。

 オーストリアでは、3月13日、首都ウィーンで民衆が蜂起し、三月革命が起こった。宰相メッテルニヒは失脚して逃亡、ウィーン体制は崩壊した。翌4月、オーストリア皇帝フェルディナント1世は憲法制定議会の開催を約束し、収束に向かった。しかし皇帝は翌月、議会を開催せずに欽定憲法を一方的に制定したことに対し、再び民衆が憤激して5月に改めて憲法制定議会開催と普通選挙の実施を約束させられた。

メッテルニヒの逃亡

 メッテルニヒは、1814年にオーストリアの外相・宰相としてウィーン会議を主催、1821年からはオーストリアの首相としてウィーン体制を動かした。つぎつぎと起こる自由主義・民族主義の運動を弾圧、ギリシアの独立運動や中南米諸国の独立運動にも介入した。3月13日、ウィーンに三月革命が起き群衆が宮殿を取り囲む中、ついに辞職し、翌日イギリスに亡命した。官邸から逃げ延びる時、女装して脱出したという。こうして38年に及ぶメッテルニヒ政権は倒れ、同時にウィーン体制の時代は終わりを告げた。

諸国民の春

 ウィーンで民衆が蜂起しメッテルニヒ政権が倒されたことを受け、オーストリアに抑圧されてきた民族のナショナリズムが一気に高揚した。すでに3月3日にハンガリーの議会でコシュートが自治を要求して演説をしていたが、ハンガリー民族運動だけでなくチェック人のベーメン民族運動イタリア統一運動の現れとしてのミラノ蜂起などが相次ぎ、いずれもオーストリアからの独立を目指した民衆蜂起であった。これを諸国民の春と言っている。これらの運動はオーストリアやロシアの軍隊の力で抑えつけられたが、18世紀後半から20世紀初めに実現するこれらの諸国の自立の出発点となった。

革命の反動

 ウィーン三月革命では神聖ローマ皇帝は憲法の制定と自由主義の実現を約束した。しかし、6月に入りフランスで
六月暴動が鎮圧されてブルジョワ政府が反動化したことを受け、皇帝政府は反撃に転じ、10月には憲法制定議会開催を反故にし、自由主義者に対する男タウを開始、ウィーンでは2000人近い犠牲者を出して革命運動は鎮圧された。

ベルリン三月革命

1848年、フランスの二月革命が波及してプロイセンの首都で起こった革命。市民が蜂起して国王に憲法制定を約束させ、フランクフルト国民議会が開催されることとなった。

 ドイツ連邦の最有力領邦であるプロイセンの首都のベルリンでも3月当初から不穏な動きがあり、プロイセン以外の領邦においても自由と国民国家建設を求める市民が立ち上がり、あらたな政府の樹立が相次いでいた。プメッテルニヒ失脚のニュースが伝わった15日、ロイセン国王フリードリヒ=ウィルヘルム4世は譲歩を決意し、3月18日、出版の自由を認めるとともに、憲法制定を約束、ドイツを国民議会をもつ連邦国家に改編することを提案する旨の勅書を発した。その日、国王に感謝するために王宮前に集まった民衆に対し、王宮守備の軍隊から二発の銃声が響く、激高した民衆はバリケードを築き、市街戦に突入した(ベルリン暴動)。翌19日、国王は完全に屈服し、ブルジョア自由主義者(カンプハウゼン)を首相とする「三月内閣」発足させた。

フランクフルト国民議会の開催

 ベルリン三月革命での国王の勅書をうけ、5月にフランクフルトでドイツの統一国家樹立とその憲法の制定のため、普通選挙による国民議会が召集された。しかし、議会はドイツ統一をめぐって大ドイツ主義と小ドイツ主義が対立するなど審議がまとまらず、長期化してしまった。この間、6月のフランスで六月暴動が鎮圧されたことを受けて国王政府は反動化し、憲法制定に否定的になった。議会はようやく小ドイツ主義(オーストリアを含まないドイツの統一)でまとまり、12月に「国民の基本法」、翌49年3月にドイツ国憲法を決議した。それはプロイセン国王をドイツ国王として戴く立憲君主政のもとで議会政治と国民の権利の一定の保障を含むものであったが、国王はその受諾を拒否し、憲法は宙に浮いてしまった。

革命の反動

 プロイセン国王は憲法の制定を拒否し、さらに1849年6月、軍隊を派遣してフランクフルト国民議会を解散させ、これによってベルリン三月革命は終わりを告げた。ドイツ連邦の領邦でも次々と反動政府が生まれ、議会の解散、検閲の復活、人権の制限などの措置が出されたため、ザクセン王国のドレスデンなど各地で激しい民衆蜂起が起こった。しかしこれらの民衆蜂起は、各国が出動を要請したプロイセン軍によって弾圧され、革命運動は一気に退潮した。

Episode 闘うワーグナーとバクーニン

 1849年5月3日、ドイツ連邦の領邦の一つザクセン王国の首都ドレスデンで、国王がプロイセン軍の支援を受けて議会を解散させ、革命派の弾圧を行ったことに対して民衆が蜂起し、市街戦になった。そのとき、革命軍の先頭に立ち、さらに市内で最も高い十字架教会の屋根に登って指揮しながら一夜をすごしたのが、ワーグナーだった。ワーグナー(1813~83)は36歳、すでに作曲家として知られドレスデン宮廷指揮者の地位にあったが、革命派に加わり、その時ドレスデンに潜行していたバクーニンとも知り合いになった。ワーグナーは熱心な共和派ではなかったが、すでに歌劇『ローエングリン』や『タンホイザー』を発表して、新しい音楽を産み出しつつあった。しかし当時はまだ楽壇に受けいれられず、そのような不満が彼を革命派に近づけたのかもしれない。
 ワーグナーは市街戦が始まると十字架教会の鐘を乱打して兵器庫を襲撃中の民衆を鼓舞し、翌日はプロイセン軍との戦闘を呼びかけるビラを作って配り歩いた。5月5日、政府軍が砲撃を開始すると寄せ集めの革命軍はおされ気味になったので、ワーグナーは十字架教会の屋根に登り、全体の状況を見わたして革命軍に指示を出し、そのまま一晩を屋根の上で過ごした。しかし翌日、プロイセン軍がドレスデンに入り、由緒ある旧歌劇場も焼け落ち、革命軍は敗北した。このときバクーニンは革命軍本部に加わって協力し、実際よく活動したが、敵兵のたてこもる家屋を一軒残らず焼き払えというような冷酷な戦術を主張したりもしたため、同胞相撃つ悩みをもつドイツ民衆からは強い反感を受けたという。
 ワーグナーは7日夜、妻と愛犬をつれてドレスデンを脱出、それ以後、13年にわたる亡命生活をチューリヒで送ることになる。亡命時代に反ユダヤ思想やショウーペンハウエルの厭世哲学などの影響を受け、壮大な『ニーベルングの指輪』四部作(ラインの黄金、ヴァルキューレ、ジークフリート、神々の黄昏)を構想し、ロマン主義音楽の枠を越えた総合芸術を生みだしていく。<高木卓『ヴァーグナー』1966 音楽之友社>
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第12章1節 オ.1848年革命



























































































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高木卓
『ヴァーグナー』
1966 音楽之友社