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ハンガリー民族運動

19世紀前半、オーストリア帝国の支配下にあったハンガリーのマジャール人による独立運動。

 オーストリア帝国に支配されていたハンガリーはウラル語族に属する遊牧民マジャール人が多数を占め、その他に南スラヴ人のクロアティア人セルビア人、西スラヴ人のスロヴァキア人、ラテン系とスラヴ人の融合したルーマニアなどの諸民族を含む、複雑な民族構成をもつ地域であった(現在のハンガリー帝国よりも広い地域を含んでいた)。  17世紀までオスマン帝国の支配を受け、1699年のカルロヴィッツ条約でオーストリア領となり、それ以来のドイツ人国家であるオーストリアの支配を受けていた。その間、オーストリアの支配から脱して独立を求める運動もあったが、多くは地主階級を中心として、オーストリア支配を受け容れ、それに協力していた。現地の支配者層であるマジャール人には一定の自治が認められ、議会も開催していたが、それ以外のスラヴ系住民などには権利が認められていないなど、重層的な差別構造が続いていた。

コシュートの革命運動

 1848年、フランスの二月革命が起こると、急進派の議員コシュートらが指導する民族独立を掲げる運動が始まり、三月革命で窮地に陥っていたオーストリア皇帝は、4月、ハンガリーに対しに対して立憲君主政の憲法制定、責任内閣制、言論・出版の自由、教育の民主化、賦役その他の封建的諸権利の廃止などを認め、新内閣が発足した。コシュートは蔵相に就任、革命は成就したかにみえた。

ハンガリー内の民族対立

 しかし、ハンガリー議会と政府で実権を持つのはマジャール人のみで、その他のクロアティア人、ルーマニア人などの諸権利は認められず、彼らの新政府に対する反発が強まった。つまり、オーストリアに抑圧されていたハンガリー人は、ハンガリー内ではクロアチア人などを抑圧しているという二重構造があった。また、フランスで六月暴動が鎮圧されて6月以降は革命に不利な情勢に転換、ベーメンではプラハがオーストリア軍に鎮圧され、北イタリアではラデツキー将軍の率いるオーストリア軍がサルデーニャ国王に支援されたロンバルディアの独立運動を粉砕した。自信を回復したオーストリア政府は、革命・民族独立運動に対する反撃に転じた。
 クロアティア人はハンガリー独立がマジャール人主導であることに反発し、オーストリア帝国の支持に回った。クロアティア人はハンガリーからの分離と南スラヴ人国家の建設をオーストリア皇帝に訴え、皇帝はそれを受けてクロアティア人のイエラチッチを総督に任命、クロアティア人・スロヴェニア人など反マジャール勢力を武装し、9月にハンガリーに向けて進撃を開始した。ハンガリーではコシュートを議長とする国防委員会を組織して抵抗し、イエラチッチ軍の前進を阻止した。

ロシア軍の介入で弾圧される

オーストリア皇帝は10月、ハンガリーに対して宣戦布告し、ハンガリー総攻撃のための軍隊動員令を出した。それに反対してウィーンで大規模なデモが発生すると、オーストリア当局はその鎮圧のために、クロアティア人兵士を使った。その結果、ウィーンの暴動は鎮圧された。
 1849年1月、オーストリア軍はハンガリーの中心都市ブダペストを占領、しかしハンガリー議会は東部のデブレツェンに引っ込み、自国の完全独立とハプスブルク家の失権を宣言し、コシュートを主席とする臨時革命政府を樹立して反撃に転じ、5月にはブダペストを奪還した。
 オーストリア皇帝はここでロシアの救援を求め、ロシア軍によってハンガリーの全土は反革命の手に落ちた。コシュートはハンガリー降服の直前にオスマン帝国に逃れ、その後欧米各地を祖国の独立のために奔走したがついに目的を達することができなかった。
 ハンガリーは憲法は廃止されて、独立国家としての諸権利と自由はすべて奪われ、クロアティア、セルビア、トランスシルヴァニアなどとともに州の一つとしてオーストリア帝国の派遣するドイツ人総督の支配を受けることとなった。革命中に廃止された農奴制は復活しなかったが、公用語にはドイツ語が採用されるなど、民族的自由は完全に奪われることとなった。  
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