印刷 | 通常画面に戻る |

ルノワール

19~20世紀初めのフランス、印象派の画家。『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』などのほか、裸婦や肖像画を描いた。晩年には『睡蓮』連作がある。

ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』
ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』1876
 ルノワール Auguste Renoir 1841~1919 は、モネとともに印象派を創出した画家の一人。フランス中部のリモージュの生まれ。13歳でパリに出て陶磁器の絵付け職人となった。陶器工場が機械による大量生産商品の出現によって潰れ、21歳で画家になると決意し、パリ国立美術学校に入学。そこでモネと知り合う。この時の仲間が印象派運動の中心となった。1870年代に印象派を代表する画家として清潔な明るい色彩で数多くの名品を残した。81年から82年にかけてアルジェリアやイタリアを旅行し、ルネサンス期の古典作品に触れて、印象派に疑問を持つようになり、後半生は印象派の技法を用いながら、独自の豊麗な様式に移っていく。晩年は南フランスのカーニュに住み、最後まで制作を続けた。<高階秀爾『続名画を見る眼』 岩波新書 p.25-26>
作品:前半は明るい外光のもとでの風景を多く描いた。代表作は『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1876)は木漏れ日の中、庶民的な舞踏場でダンスに興じる群衆を見事に捉え、印象派絵画の名作とされる。人物画には『桟敷席』1874がある。1883年以降は印象派の技法を用いながら、対象を人体中心に移し、『浴女』などの裸婦を独特のフォルムで描いた。他に『ピアノの前の少女たち』(1892) など多数。

印象派の袋小路

ルノワール『浴後』
ルノワール『浴後』1888
 晩年になってルノワールが画商のヴォラールに語った思い出の中に、次のような有名な一節がある。
(引用)1883年ごろ、私の作品の中に一つの断絶が訪れた。印象主義をとことんまで追いつめていった結果、自分はもう絵を描くこともデッサンをすることもできないのではないかという結論に達した。つまり一口に言えば、私は袋小路に入ってしまったのだ・・・。<高階秀爾『フランス絵画史』1990 講談社学術文庫 p.309>
 彼自身が語っているように、この頃までのルノワールは、ほとんど完全な「印象派」であった。その表現方法は、光の反映を色彩によって表現しようとする印象派の仲間たちのそれと同じ原理に基づいている。しかしながら、人物そのものよりも、その上に落ちかかる光の輝きが主要な関心の対象と言うことになれば、人体のフォルムというものは、二次的なものとならざるを得ない。ルノワールが、印象主義を徹底させた結果入り込んでしまった袋小路というものは、まさにこのようなものであった。
 すべての形態を光と空気の中に溶け込ませてしまう印象派の美学は、暖かい血の通う若々しい肉体を水や空と同じような光の斑点に変えてしまう。本質的に人物画家であったルノワールにとって、それはいわは自己の芸術の死活に関する問題であったろう。彼にはどうしても形態が必要であった。・・・それ以後ルノワールは、印象派から得た明るい色彩表現を保ち続けながら、数々の美しい裸婦や肖像を生みだしていくことになるのである。<高階秀爾 同上書 p.309、312>
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第12章4節 ア.ロマン主義と自然主義
書籍案内

高階秀爾
『フランス絵画史』
1997 講談社学術文庫