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民主カンプチア

1975年から79年まで、カンボジアを支配したポル=ポト政権時代の国号。

 カンボジアの親米右派政権ロン=ノル政権との間で激しい内戦を戦っていたポル=ポト派が、1975年4月に首都プノンペンに大攻勢をかけ、政権を樹立した。ポル=ポト派は赤色クメール(クメール=ルージュ)のことで、カンボジア共産党の中の急進派であるポル=ポトやイエン=サリ、キュー=サンファンらが主導しいた。思想的には、毛沢東や文化大革命の影響を受け、共産社会の建設とアメリカやソ連などの大国支配の排除を強く主張し、特にソ連と結んでいるベトナムに対しては敵愾心を強く持っていた。
 「民主カンプチア」という国号も、その民族主義が現れており、フランス植民地時代に使われた「カンボジア」を敢えて用いず、現地の発音通りの「カンプチア」とした。国家元首にはロン=ノル政権によって追放されていたシハヌークが復活したが、実権を握るポル=ポト派は事実上シアヌークを監禁状態に置いた。

ポル=ポト政権による大虐殺

 「民主カンプチア」のポル=ポト政権のもとで、農業を基本とした自給自足の国家建設の方針の下、多くの都市民が強制的に移住させられ、さらに極端な共産主義化が推し進められて貨幣制度は資本主義の悪弊であるとして廃止され、学校教育もブルジョワ的であるとして否定され、科学や医療なども西欧文化に従属するものとして排除された。旧ロン=ノル政権関係者、親米、親ベトナムの人々が強制収容所に送られただけでなく、ポル=ポト政権に批判的な知識人や、農村移住を拒否した人々も収容所に送られ、虐殺された。
 ポル=ポト政権は鎖国政策に近い外交姿勢であったため、その実態は国際社会に知られていなかった。1979年にベトナム軍がカンボジアに侵攻した際は、ベトナムの侵略行為として非難する国際世論も強く、プノンペンを追い出されて再びジャングルでゲリラ戦を展開し始めたポル=ポト派には同情的な見方もあった。しかし、ポル=ポト派支配地域が解放されるに従い、その残虐行為が明らかになっていった。1979年、ベトナムに支援されたヘン=サムリン政権が「カンボジア人民共和国」を樹立し、「民主カンプチア」は事実上崩壊した。
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ノートの参照
第16章3節 エ.ベトナム戦争とインドシナ半島
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ローランド=ジョフィ監督
『キリング・フィールド』
出演 ジュリアン・サンズ
サム・ウォーターストン