印刷 |  通常画面に戻る |

第12章 欧米における近代国民国家の発展

2 ヨーロッパの再編

Text p.240

ア.東方問題とクリミア戦争
・19世紀後半のヨーロッパ
 a 1848年革命  → 経済の好況期となり、西ヨーロッパでの自由主義の発展。
  → イタリアとドイツで、それぞれ統一をめざすb ナショナリズム が高揚。
 1853年 c クリミア戦争 勃発 = ナポレオン戦争後、約40年の平和が途絶え、
       ナショナリズム問題の軍事的解決への端緒となる。

Text p.241

 東方問題 
 オスマン帝国  の支配下にある中近東のスラブ系民族などなどの独立運動強まる。
  → それに干渉するヨーロッパの強国の対立問題をA 東方問題  いう。
・さらに、b ロシア がd 南下政策 をとり、e 不凍港 の獲得を目指す。
  → イギリス、フランス、オーストリアと対立が始まる。
 エジプト=トルコ戦争   エジプト 総督▲a ムハンマド=アリー による自治政権。
第1次  1831年 エジプトがオスマン帝国に対し領土を要求し、開戦。(後出)
   b フランス がエジプトを、c ロシア がオスマン帝国を支援。イギリスが介入。
 1833年  ウンキャル=スケレッシ条約  
   ロシアはトルコからダーダネルス=ボスフォラス海峡の航行を認めさせる。
第2次  1839年 英・普・墺・仏の圧力を受けたトルコがその約束を破棄、再び交戦。
  → 1841年 5国海峡協定 ウンキャル=スケレッシ条約を破棄。(後出)
 クリミア戦争   ▲a 聖地管理権 ※をめぐるb ロシア とc フランス のが対立
※オスマン帝国(トルコ)内の聖地イェルサレムの管理権は16世紀以来、フランスが持っていたが、
  1851年にギリシア正教会に移った。フランスなどのカトリック教徒が反発。
  → フランスのd ナポレオン3世 がその回復を要求。オスマン帝国、仏の要求を認める。
・1853年 ロシアのe ニコライ1世 、ギリシア正教徒の保護を口実にオスマン帝国領に侵入。
  → c フランス は国内のカトリック教徒の要求、f イギリス は東方政策の維持のため、
   オスマン帝国を支援し出兵。g サルデーニャ がイタリア統一で英仏の支持を得るために参戦。
  → 主としてh クリミア半島 が戦場となる。ロシアのセヴァストポリ要塞をめぐり激戦。
  → ロシア孤立し、55年9月、連合軍に敗れる。
  (i ナイティンゲール が負傷兵の看護に当たったことを機にj 国際赤十字社 創設される。)
・1856年 k パリ条約 :オスマン帝国の領土保全、および
       l ダーダネスル・ボスフォラス両海峡 の閉鎖確認、m 黒海の中立化 約束など。
  → ロシアの南下政策の挫折。フランスが、ナポレオン戦争後、再び強国として登場。
イ.ロシアの改革
 アレクサンドル2世の改革   a クリミア戦争 の敗北で改革を迫られる。
・1861年 b 農奴解放令 :農奴(人口の約3の1)の身分的自由、土地所有権を認める。
  → 土地は農村共同体(c ミール )に引き渡されることが多く、改革は不徹底であった。

Text p.242

・  同  年 d ポーランドの反乱 後、再び専制政治を強化。
 ナロードニキ運動   改革不徹底、産業未発達のため、市民階級の成長不十分。
・1870年代 都市の知識人(a インテリゲンツィア )が改革の担い手になる。
  = 社会主義の影響を受け農民への働きかけを必要と考え、b  ”ヴ=ナロード”(人民の中へ) 
    を標語に農村に入り込んだが、保守的な農民を動かすことが出来ず、行き詰まる。
  → 絶望した一部はc テロリズム 、またはd  ニヒリズム に走る。
    一方でe アナーキズム が起こる(バクーニン、クロポトキンら)。
 露土戦争 (後出) バルカン半島のスラブ系民族のa パン=スラブ主義 を利用。
・1877年 ギリシア正教徒の反乱を支援してトルコと開戦し、勝利。
  → 戦後b サン=ステファノ条約 でバルカン諸国を独立させ、ロシアの勢力伸びる。
  → 英、墺の反発を受けドイツのビスマルクの調停でc ベルリン会議 開催。
  → ロシアのバルカン進出挫折する。(後出)
1881年 d アレクサンドル2世 、ナロードニキ(「人民の意思」派)により暗殺される。
ウ.イギリスのヴィクトリア時代
 ヴィクトリア時代    19世紀 a ヴィクトリア女王  (在1837~1901)の時代
・大英帝国の繁栄  産業革命の進展 → 40年代の恐慌が、50年代に好況に転じる。
 1851年 b ロンドン万国博覧会 開催。イギリスの繁栄の象徴的できごととなる。
  → c ヴィクトリア朝 、イギリス第二帝国とも言われる。
▲人口の増加・都市への集中(イングランド・ウェールズの計。都市は人口5万以上)
   年  代   1750年  1801年  1851年
   人  口   約600万   900万  1800万
   都市人口     16%    20%    50%
 → ロンドン、バーミンガム、マンチェスター、リヴァプールなどでの都市生活の向上。
 二大政党制  19世紀なかば以降、つぎの二党が交互に政権を担当するようになる。 
・トーリー党→a 保守党  基盤は地主階級、主張は保護貿易主義に近い。
  代表的政治家 b ディズレーリ  
・ホイッグ党→c 自由党   基盤は産業ブルジョアジー、主張は自由貿易主義に近い。
  代表的政治家 d グラッドストン  
→ 議会制政党政治の典型となる。
 選挙法の改正   1832年 第1回選挙法改正 → 二大政党の形成
・1867年a 第2回選挙法改正 :b 都市労働者 に拡大(有権者、135万→247万)
・1884年c 第3回選挙法改正 :d 農業労働者 に拡大(同、440万に増える)
   → 男子普通選挙に近づく(グラッドストン内閣)
・その他 1870年 e 教育法 → 初等教育の整備。国民教育の進展。
     1871年 f 労働組合法 → 労働組合のストライキ権を認める。
 アイルランド問題  ケルト系民族の地域。クロムウェルの征服以来、イングランドの支配受ける。
・1801年 イギリスのa アイルランド併合 。カトリック教徒への差別強まる。
  →  「グレート=ブリテンおよびアイルランド連合王国」 となる。国旗 ユニオンジャック の使用。
・1829年 カトリック教徒解放法(前出) アイルランド人も議会に進出、差別撤廃を訴える。
  → カトリックの信仰は認められたが自治は認められず。
・1845~48年 b ジャガイモ飢饉 起こる。多数のアイルランド人がc アメリカ移民 となる。
  さらに1846年の穀物法廃止で安価な海外農作物が流入したため、農民の困窮が進む。
・▲独立運動の激化  1848年  青年アイルランド党 の蜂起 → 鎮圧される。
  → 残党が秘密結社 フィニアン を結成。1867年に蜂起するも、失敗。
  他に、 アイルランド国民党 は、土地の獲得と1870年代に議会で自治権獲得を目ざす。
 1870年 ▲d アイルランド土地法 (グラッドストン内閣) 小作権の安定をはかる。
 1880年代 グラッドストン内閣のe アイルランド自治法案 は議会で否決される。
同時に植民地の拡大を進める。アヘン戦争、アロー戦争、インド植民地化など=後述

Text p.243

エ.フランス第二帝政と第三共和政
 第二帝政  a ナポレオン3世 (在位1852~70) 立憲君主政だが事実上の皇帝独裁。
・支持基盤 キリスト教b カトリック教会 の勢力
      労働者・社会主義の進出を恐れるc 資本家 階級
      フランスの栄光の再現を期待するd 農民・小市民 
・e パリ万国博覧会  1855年(第2回)と1867年(日本も参加)の2回開催。
・首都f パリ の大改造 1853~70年 セーヌ県知事オスマンに指示。
 クリミア戦争   1853年~56年 前出
・イギリス・サルデーニャと共にオスマン帝国を支援し、a ロシア と戦う。
 理由:国内のb カトリック教会 の勢力に配慮
  → ロシア軍の装備の古さなどに乗じて勝利。
・1856年 パリ条約(前出) オスマン帝国の領土を保全し、a ロシア の南下政策を阻止。
  → a ナポレオン3世 の名声上がる。
C 積極的外征
・国民の人気を維持するため、フランスの勢力拡大をめざす。
・1856~60年 a アロー戦争 → イギリスと共に中国と交戦し、侵略(後出)。
・1858~67年 b インドシナ出兵 → フランス領インドシナの成立(後出)。
・1859~60年 c イタリア統一戦争 に介入:サルデーニャの独立戦争支援(後出)。
・1861~67年 d メキシコ出兵 :内乱に干渉してイギリス・スペインを誘い出兵。
  → ハプスブルク家の▲e マクシミリアン をメキシコ皇帝に据える。
  → アメリカの南北戦争に乗じて中米に進出をもくろむも、失敗(14章2節参照)。
  → これを機に人気急落する。
 この間、f レセップス によるg スエズ運河 建設を進める。 1869年開通(後出)。
 普仏戦争(ドイツ=フランス戦争)  スペイン王位継承問題で対立(1868年) 
・1870年 a ビスマルク の挑発(エムス電報事件)によって開戦したが劣勢に陥る。
  → b セダンの戦い で捕虜になる。
  同  年9月 パリ市民が蜂起。皇帝退位してc 第二帝政 終わる。
・1871年1月 パリ開城。d ヴェルサイユ宮殿 でドイツ皇帝即位式を挙行。
  → 2月に講和。ボルドーで国民議会成立。共和派のe ティエール が組閣。
  → f 臨時政府 成立。対独講和を進め、パリ国民軍の武装解除を命令。
・1871年5月 フランクフルト平和条約 g アルザス・ロレーヌ をドイツに割譲。
 パリ=コミューン   1871年3月 パリ市民が臨時政府の対独講和を拒否し、蜂起。
→ 労働者・市民がパリを掌握。政府はベルサイユに逃れる。
・3月26日、コミューン議員を選出。28日、a 自治政府 を樹立。
  = 社会主義穏健派、急進派(ブランキ派)、急進的共和主義者、アナキストなどを含む。
 施策:ブルジョワ的三権分立の否定、全役職の直接選挙と徹底したリコール制、諸会議の公開、
    汚職は死刑、教育の徹底した世俗化、常備軍の廃止などを実施。
・リヨン、マルセイユなどの諸都市でもコミューン運動が起こるが、相互の連絡とれず。
  → ドイツ軍の協力を得た臨時政府軍による攻撃始まる。
・5月21日~28日の“b 血の週間 ”によって崩壊。2万人が殺害され、4万人が逮捕される。
 意義:c 世界史上最初の労働者の自治政権として成立した。 
  → 後のレーニン、毛沢東などが社会主義革命の最初の試みとして評価する。
・崩壊の影響 パリ=コミューンを支持したd 第1インターナショナル は、コミューン崩壊後の
       反動期に次第に力を失い、76年に消滅。(後出)
 第三共和政   1870(実質は1875)年から~1940年6月まで
・パリ=コミューン鎮圧後、王党派と共和派が争い、次第に共和派が勢力を伸ばす。
 1871年8月 a ティエール を初代大統領に選出。
・1875年 b 第三共和政憲法 成立:三権分立 普通選挙 大統領制を規定。
   大統領は両院で選出し任期7年、名目的元首。内閣が行政権を握る。議会は二院制。
1880年 c 7月14日 を国民祝祭日とし、フランス革命の理念によって国民統合を進める。  

Text p.244

オ.イタリアの統一
 19世紀中頃のイタリア 
 ※1848年の革命 →  イタリアの統一 運動(▲a リソルジメント )活発になる。
 青年イタリア  の運動 
・1831年に結成 a マッツィーニ が指導して組織する。
・1848年 ウィーン三月革命を受け▲b ミラノ で暴動起きる。サルデーニャ王国が支援。
  → サルデーニャ王国の カルロ=アルベルト 王、オーストリアと戦うが敗れる。
・1849年 a マッツィーニ が帰国し、c ローマ共和国 を宣言。
  → ローマ教皇支援のために派遣されたフランス軍によって弾圧され失敗。(前出)
 サルデーニャ王国   イタリア北西部のピエモンテとサルデーニャ島を領有。
・国王a ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世 
・1852年 b カヴール を首相に任命。c クリミア戦争 に参加、国際的地位高める。
  → フランスのc ナポレオン3世 との同盟(▲d プロンビエール密約 )成立。
 イタリア統一戦争  
・1859年 フランスの支援でa オーストリア と戦う。
  → サルデーニャが有利に進めるが、ナポレオン3世が単独講和( ヴィラフランカ条約
  → サルデーニャはb ロンバルディア 獲得にとどまる。
 1860年 c サヴォイア ・d ニース をフランスに割譲、e 中部イタリア併合 
  同  年 青年イタリアのf ガリバルディ 、赤シャツ隊を率いてg シチリア占領 
  → さらにh ナポリ王国 を征服し、両シチリア王国をサルデーニャ王に献上。
 イタリア王国   首都は初め、ピエモンテ地方の トリノ
・1861年成立 a ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世 を国王として統一王国成立する。

Text p.245

・1866年 b ヴェネツィア併合  普墺戦争でプロイセンを支援、勝利によって獲得。
 1870年 普仏戦争の際、c ローマ教皇領を占領 。教皇「ヴァチカンの囚人」となる。
・d 1871 年 e ローマ を首都とし、イタリアの統一完成。 → 南北の格差残る。
残された問題・f トリエステ 、g 南チロル などの「h 未回収のイタリア 」の存在
      ・イタリア王国とi ヴァチカン のローマ教皇庁との対立
カ.ドイツの統一
 ※ウィーン体制下、ドイツ連邦のもとで、政治的分裂続く。
 ドイツ関税同盟   の発足 a プロイセン を中心に、結成される。 
・1834年 b オーストリア を除く諸邦で発足。
  ▲経済学者c リスト の保護貿易主義の理論による。
  → 商工業者が望むドイツの経済的統一をほぼ実現。 → 政治的統一に進む。
・工業化の推進
 ▲d クルップ社 の発展 エッセンに設立された軍需工場。「大砲王」といわれる。
 フランクフルト国民議会   1848年 三月革命に際し、自由主義者が開催。
・統一路線をめぐり対立
  a 大ドイツ主義 :オーストリアのドイツ人居住地域を含む統一を主張。
  b 小ドイツ主義 :オーストリアを含まず、プロイセンを中心とした統一を主張。
  → 統一失敗。 自由主義運動は後退しc ユンカー 階級による上からの統一運動に替わる。
 ビスマルク  の登場 
・1861年 プロイセン王a ヴィルヘルム1世 が首相に任命
  =b 鉄血政策 :c “言論や多数決でなく、鉄と血によってのみ解決される” と演説。
 1864年 d
 デンマーク戦争 :e シュレスヴィヒ・ホルシュタイン 公国のドイツ系住民の
   デンマークからの自治を口実に、オーストリアを誘い、デンマークと戦う。
  → 圧勝し、シュレスヴィヒをプロイセン、ホルスタインをオーストリア行政下に置く。
 1866年 f プロイセン=オーストリア戦争  7週間で圧勝、ドイツ連邦を解体。
  = e の帰属問題から開戦した。プロイセン、ドイツ統一の主導権握る。

Text p.246

・1867年 プロイセンを盟主とするg 北ドイツ連邦 を結成。
  → 南ドイツ諸邦も同調しドイツ統一完成に近づく。h オーストリア ※は排除される。
  → フランスを仮想敵国として軍備拡充を進める。
※f 普墺戦争 での敗北 → 1867年 ハンガリーとの妥協(i アウスグライヒ )成立。
  → j オーストリア=ハンガリー帝国 (二重帝国)となる。
    皇帝k フランツ=ヨーゼフ1世 (在位1848~1914)
 普仏戦争 
・1870年7月 a ナポレオン3世 を挑発して開戦。(前出)
  → 9月 b セダンの戦い でa ナポレオン3世 を捕虜とする。さらにパリを包囲。 
  → フランス軍に勝利し、c アルザス・ロレーヌ の両州と賠償金を獲得。
キ.ドイツ帝国の成立とビスマルク外交
 ドイツ帝国 成立 
・a 1871 年1月 b ヴィルヘルム1世 、フランスのc ヴェルサイユ宮殿 で即位式を挙行。
・d ドイツ帝国憲法 の制定。その内容。
  プロイセン王がe ドイツ皇帝(カイザー) を兼ねる立憲君主制。
  22の君主国と3自由市からなるf 連邦制 をとる。
  宰相(首相)は皇帝が任命し、皇帝に対してのみ責任を負う。(議院内閣制ではない)
  議会は▲g 連邦参議院 ※とh 帝国議会 ※※の二院制。
    ※連邦を構成する君主国と市の代表で構成。法律批准権など強い権限を持つ。
    ※※25最上の男子普通選挙。予算審議権は認められるが招集権は皇帝が持つ。
・ドイツ帝国の特徴 形式は立憲君主制だが、皇帝の権限が強大であり、議会は極めて弱体だった。
・帝国の基盤 i ユンカー 階級が官僚・軍隊の要職を占め、帝国を支えた。
 ビスマルク時代  1871~90 宰相として20年、独裁的な権力をふるう。
・a 文化闘争  中央集権強化に反対する南西ドイツのb カトリック勢力 を弾圧。
・c 社会主義運動 の活発化 工業発展とともに労働者階級が増大。専制政治への批判強める。
 1860年代 d ラサール らが社会主義、e ベーベル らがマルクス主義を組織。
 1875年 ゴータ大会で合同、f ドイツ社会主義労働者党 ※を結成。
    ※後の1890年にg ドイツ社会民主党 に改称。

Text p.247

・ビスマルクのh 社会政策  = i アメとムチ と言われる。
 1878年 j 社会主義者鎮圧法 を制定。社会主義政党を非合法として弾圧。
  一方で、k 社会保険制度 を充実させる:災害保険・疾病保険・養老保険などを実施。
・1879年 l 保護関税法 :ユンカーの農場経営とドイツ重工業を保護するため制定。
  → m 「鉄(産業資本家)と穀物(ユンカー)の同盟」 と言われた。
 ビスマルク外交   フランスの再起を恐れ、その孤立化を維持する。
・1873年 a 三帝同盟 を結成:ビスマルクの主唱による、フランスを抑えるための軍事同盟。
  =b ドイツ (ヴィルヘルム1世)・c オーストリア (フランツ=ヨーゼフ1世)
   ・d ロシア (アレクサンドル2世)の三皇帝が署名。
  ・ロシアはe パン=スラブ主義 をとり、バルカンでオーストリアとの対立が深刻となる。
・1877年 f ロシア=トルコ戦争(露土戦争)  ロシアの圧倒的勝利となる。
  → g サン=ステファノ条約 ブルガリアを保護下におくなど、ロシアに有利であった。
  → h イギリス ・c オーストリア が反発。ビスマルク、調停に乗りだす。
 ベルリン会議   1878年 a バルカン問題 をめぐる墺(英)と露の対立を調整。
・b 「公正なる仲介人」 を自称する。
・c ベルリン条約 締結 → d サン=ステファノ条約 は廃棄。
 e ルーマニア 、f セルビア 、g モンテネグロ の独立の承認。
 h ブルガリア はオスマン帝国内の自治国とする。
 イギリスはオスマン帝国からi キプロス を獲得。 →中東進出を狙う。
 オーストリアはj ボスニア・ヘルツェゴヴィナ の統治権を認められる。
 フランスのチュニス(オスマン帝国領)進出を認められる。
 → ロシアのバルカンでのc 南下政策 が抑えられ、中央アジア・東アジア方面に向かう。
 → 三帝同盟の崩壊。
・1879年 k 独墺同盟 の結成。三帝同盟にかわるビスマルク外交戦略。

Text p.248

E.ビスマルク外交の展開
・1881年 三帝同盟を再建(新三帝同盟)。
 → フランスのチュニジア進出を警戒するa イタリア を抱き込みフランス包囲網を形成。
・1882年 b 三国同盟 の締結:b ドイツ ・c オーストリア ・a イタリア 
  → 秘密軍事同盟。第1次世界大戦に至る二大陣営を形成する(後にイタリアは離脱)。
 1887年 バルカンでのc オーストリア とd ロシア の対立激化 →三帝同盟解体。
  同  年 b ドイツ ・d ロシア がe 再保障条約 を締結。これも秘密同盟であった。
  意味:f ドイツは三国同盟でオーストリアと同盟しながらそれと対立しているロシアとも同盟した。 
・フランスの孤立とドイツの安全のための列強と同盟関係をg ビスマルク体制 という。
1890年 ドイツ皇帝f ヴィルヘルム2世  ビスマルクを罷免。ビスマルク時代終わる。
ク.北ヨーロッパ諸国
・a スウェーデン  
 18世紀初めの北方戦争でロシアに敗れ、バルト海の制海権をなくす。
  北ドイツの領土はプロイセンに、
  1809年 b フィンランド ※はロシアに奪われる。
 19世紀初め、憲法を制定、責任内閣制をしく。
  ※ロシア皇帝が大公を兼ねる自治国となる。
・c ノルウェー 
 もとデンマーク領。ウィーン会議でスウェーデン領となる。
 独立運動を続け、憲法を制定、1905年 国民投票で平和的に独立を達成。
・d デンマーク 
 1864年 プロイセンにe シュレスヴィヒ・ホルスタイン を奪われる。
   酪農を主とする国づくりを行う。
→ 北欧三国はいずれも立憲君主制を採り、議会政治が発達し、小国として安定する。
ケ.国際的諸運動の進展
・社会主義運動
 1864年 a 第1インターナショナル  ロンドンで結成された労働者の最初の国際的組織
   b マルクス が設立宣言と規約を起草。 →  国際労働運動 の始まり。
  → 内部でアナーキズムのプルードン派、c バクーニン らと対立。
  → 1871年 d パリ=コミューン を支援、各国官憲から弾圧強まる。
  → パリ=コミューン崩壊後、1876年に解散。
▲1886年5月1日 アメリカで メーデー が始まる。1日8時間労働を要求。
 1889年 e 第2インターナショナル  パリで結成 (第14章1節へ)
  → 5月1日を8時間労働実現の国際的示威行動の日と提唱、以後世界的に定着する。
・f 国際赤十字社 の創設
 g クリミア戦争 での ナイティンゲール (イギリスの看護婦)の活躍。
 1864年 h デュナン が発案してジュネーヴで 赤十字条約 を締結。
・近代オリンピックの創始
 1896年 第1回 i 国際オリンピック大会  アテネで開催。
   フランスの▲j クーベルタン の提唱。


ノート表示メニュー
通常モード
解答表示モード
解答非表示モード
解説表示メニュー
解説の表示
解説の非表示
印刷メニュー
ノート印刷解答なし
ノート印刷解答あり
選択事項解説の印刷

上の文の空欄をクリックするとここにその事項の解説が表示されます。
メニューの「解説の非表示」をクリックすると解説は表示されません。「解説の表示」で表示に戻ります。

▲ページの先頭へ