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サラゴサ条約

1529年にスペインとポルトガルで協定したアジアにおける植民地分界線で、日本の東経133度を通っている。

1529年にスペイン(カルロス1世)とポルトガルの間で締結された、アジアにおける両国の植民地分界線の協定。この条約で、スペインはモルッカ諸島の権益を放棄し、ポルトガルに譲渡した。

前提 モルッカをめぐる両国の争い

 ポルトガルのアルブケルケが1511年にマラッカ王国を征服し、さらに翌年はモルッカ諸島に達した。その知らせを受けたスペインのカルロス1世は、至急に艦隊を派遣して対抗する必要を感じた。ようやく1519年にマゼランを西回りでモルッカ諸島に向かわせ、その船団はマゼラン死後、1521年にマラッカ諸島に到達し、その一つティドール島に51名のスペイン人を残してスペインに帰った。すでにモルッカ諸島に到達していたポルトガルは同じ21年にはティドール島の北のテルナテ島に要塞を築くことを認められていた。1494年のトルデシリャス条約は東半球に関する規定がなかったので、スペインのカルロス1世にモルッカ諸島から手を引くよう要求した。こうしてモルッカ諸島でポルトガルとスペインがその覇権を争うこととなった。

スペインのモルッカ諸島放棄

 スペインは、対抗上、後続船団を西回りでモルッカに向かわせたが、問題が生じた。それはアフリカやインドに基地を持たないスペインは、西回りでモルッカに到達した場合、そこから引き返し太平洋を東に向けて進まなければならなかったが、東風の貿易風にさからって進むことは困難で、何度も失敗した。そこでカルロス1世は、採算の合わないモルッカ諸島進出をあきらめ、スペイン議会(コルテス)の反対を押し切り、ポルトガルと取引し、35万ドゥカーデと引き替えにその権利を譲渡し、両国の植民地分界線を同諸島の東297.5レグアの子午線と定めた。これがサラゴサ条約でありが、これによって東経133度付近が境界線となり、モルッカはポルトガル支配下に入った。

スペインのフィリピン進出

 スペインはこうしてモルッカから撤退したが、すでにマゼランが到達していたフィリピンにたいしては、同じく境界線の西側なのでポルトガル支配圏に入っていたが、先取権を主張して、その経営に専念することとなる。フィリピンへはメキシコから貿易風で太平洋を横断することは用意であったが、1560年代に北よりの偏西風を利用して太平洋を西から東に横断することに成功し、メキシコ←→フィリピン間の往来(いわゆるガレオン貿易)が盛んになる。
※サラゴサ条約によれば、東経133度の線は日本列島の岡山付近を通っており、スペイン・ポルトガルで分断される形となった。1543年にポルトガル人が種子島に漂着してから交易が始まり、スペインは1584年に平戸に来航した。
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