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文化闘争

ドイツ帝国のビスマルクが国内のカトリック勢力を抑えようとしたこととそれに対する反発。

ドイツ帝国の中央集権化を進めるビスマルクが、カトリック教会を国家の規制に服させるために行った弾圧政策ととれに対するカトリック勢力の抵抗を文化闘争という。

ドイツのカトリック勢力

 ドイツの南部、バイエルンなどでは以前からカトリック信仰が根強く、プロイセンなど北ドイツのプロテスタントとは異なっていた。ビスマルクもプロテスタントの信仰を持っていた。それに対して、当時のローマ教皇ピウス9世は、プロテスタントの多いプロイセンが中心となり、カトリックの多いオーストリアが排除される形のドイツ統一に大きな危機感を抱いていた。1870年にはヴァチカン公会議を開催して、「教皇無謬論」を確認した。またドイツのカトリック教徒も同様の不安を抱き、1870年に中央党という政党を結成してプロテスタント主流のドイツ統一に反対し、国家に対するカトリック教会の自主権と、カトリック諸邦の独自性の尊重を掲げた。

ビスマルクの文化闘争

 そのようなカトリック勢力に対し、ビスマルクは、ローマ教皇庁に操られ、ドイツ帝国の統一を妨げるものであると闘争を挑んだ。カトリックの一部にも、信仰の自由の立場から「教皇無謬論」に反発するものもあった。ビスマルクはローマ教皇に従っているカトリック教会と中央党を、アルプスの山をお越えてローマの方だけを見ているとして「ウルトラ=モンタン(山を越えた、の意味)」と呼び、さらに「帝国の敵」とまで罵って非難した。ビスマルクはこの戦いを「文化のための闘争」の意味で「文化闘争」と言ったが、カトリック側は「文化に対する闘争」の意味で用いるようになった。
 1871~74年に一連の法律を制定して、出生や結婚、死亡の届けを教会ではなく役所にすることなどの改革を打ち出した。ビスマルクは、かつての神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ4世と、ローマ教皇グレゴリウス7世の争いである「カノッサの屈辱」になぞらえ、自分は「断じてカノッサには行かぬ」と議会で演説している。しかし、カトリック教会と中央党の抵抗は根強く、ビスマルクも次第に妥協的となり、次第にその攻撃の矛先は社会主義運動に向けられ、ドイツ社会主義労働者党に対する弾圧に転じた。
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ノートの参照
第12章2節 キ.ドイツ帝国とビスマルク外交