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ドイツ帝国

1871年、プロイセンを中心に成立したドイツの統一国家。ビスマルクの主導のもとにヨーロッパの大国となり、ヴィルヘルム2世が世界政策を展開して第一次世界大戦を引き起こし、その敗北によって消滅した。

 それまで多数の領邦国家に分かれていたドイツを、普仏戦争の勝利によって優位となったがプロイセン王国が中心となって統一した国家。ドイツ最初の近代的な統一国家となった。かつての神聖ローマ帝国を第一帝国といい、このドイツ帝国を第二帝国という言い方もある。 → ドイツ

ドイツ帝国の成立

 19世紀前半のナショナリズムの高揚期に持ち上がったドイツ統一問題は、フランクフルト国民議会で大ドイツ主義小ドイツ主義の対立があって、統一を達成できなかったが、宰相ビスマルクのもとプロイセンの主導する小ドイツ主義の路線で統一され、オーストリア(ハプスブルク家)は除外された。  普仏戦争の講和に先立ち、1871年1月18日に、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でプロイセン国王のヴィルヘルム1世ドイツ皇帝として即位式を挙行した。同年4月、ドイツ帝国憲法を制定し、プロイセン王(ホーエンツォレルン家)がドイツ皇帝の帝位を世襲し、プロイセンの首相がドイツ帝国宰相となる立憲君主政国家となった。ドイツの統一は実現したが、厳密にはプロイセン中心とした連邦制国家であった。

ドイツ帝国の特質

弱い議会の権限 立憲君主政の政体をとるが、皇帝およびそれを補佐する帝国宰相の権限は強大で、議会の権限は制限されていた。また議会政治の外見を持っていたが、議会の権限は弱かった。立法府は二院制で、上院に当たる連邦参議院は邦の代表で構成されるが議長は帝国宰相が兼ねた。下院に当たる帝国議会は成年男子普通選挙で議員を選出するが、法案の審議権のみが与えられ、決定権は無かった。
プロイセンの優位 ドイツ帝国は北ドイツ連邦を継承し、連邦制を採ったが、連邦の中でプロイセンが優位な存在であった。法律の最終決定権は連邦参議院が握ったが、その議員は国民の選挙で選ばれるのではなく、プロイセン・バイエルンなど帝国を構成する支邦政府の代表によって構成され、議員数は支邦の大きさで定員が決められ、プロイセンが総数58票のうち17票を占めていた。
強大な皇帝権力 ドイツ皇帝は軍事・外交の大権や議会の召集権・停会権、さらに宰相の任命権を持ち、帝国宰相は議会にではなく、皇帝に責任を負うものとされていた。ドイツ皇帝はドイツ語でカイザー(Kaiser)という。神聖ローマ帝国、オーストラリア皇帝も同じくカイザーと称しており、ロシア帝国のツァーリと同じく、ローマ時代のカエサルに由来する。

ビスマルク時代のドイツ帝国の発展

 帝国成立後、普仏戦争で得た賠償金やアルザス・ロートリンゲンの鉄・石炭などによって産業革命を進めて、急速に工業化を遂げると共に軍備を増強し、帝国主義時代に突入していった。またビスマルク時代末期の1884~5年にアフリカ分割に加わり、カメルーン、東アフリカ、南西アフリカなどを植民地化した。

ヴィルヘルム2世の世界政策

 1888年即位したヴィルヘルム2世は1890年にビスマルクを辞任させ、イギリス・フランスなど先行する帝国主義諸列強に戦いを挑むように領土的野心をあらわにして世界政策と称する積極外交を推進し、海軍力増強に着手してイギリスとの激しい建艦競争をくりひろげた。その過程で、アフリカ分割競争ではモロッコ事件を引き起こし、さらに3B政策をかかげてイギリスに対抗した。バルカン問題ではオーストリア=ハンガリー帝国とともにパン=ゲルマン主義を推進してスラブ系諸国及びその背後のロシアと厳しく対立した。

第一次世界大戦の敗北

 ヴィルヘルム2世の世界政策は、直接的に第一次世界大戦の要因となった。1914年サライェヴォ事件が勃発すると、ドイツ同盟国の中核国として、イギリスフランスロシアなどの連合国(協商国)と戦うこととなり、東西の戦線で両面作戦を強いられた。三国同盟を締結していたイタリアは連合国側に転た。大戦は総力戦となり、長期化する中、アメリカの参戦によってドイツの敗北は決定的となり、1917年11月に皇帝ヴィルヘルム2世は亡命してしドイツ帝国は崩壊した。 → 第一次世界大戦の結果と影響
 戦後のヴァイマル共和国は、連合国のヴェルサイユ条約を受け入れ、領土の縮小、軍備の制限、過重な賠償金負担などに苦しむこととなるが、それに対する不満を背景にナチス=のヒトラーが台頭、1934年に権力を握った。ナチスはこのドイツを第三帝国と称した。

ドイツ帝国の特徴

 ドイツの歴史家セバスティアン=ハフナーは『ドイツ帝国の興亡』の「はじめに」でドイツ帝国の歴史の「三つの奇妙な点」をあげている。
  • 帝国の存在は1871年から1945年までのわずか74年という、「人間の生涯ほどの期間」でしかなかったこと。
  • この短い期間に、1890年、1918年、1933年で区切られた4つの時期があり、しかもそれぞれ性格を異にしている「別のドイツ」であったこと。
  • この短い帝国の歴史は三つの戦争で始まり、二つの大きな世界大戦(しかも二回目の大戦は一回目の大戦の結果であり)「ほとんど戦争史」であること。
 このような国家は歴史上、他に例を見ないのではないか。なぜそのようになったのか、と言う問いからハフナーは議論を始めている。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡』1989 平凡社刊 p.8-9>

ビスマルク時代とヴィルヘルム時代

 1871年から第一次世界大戦開戦の1914年までの43年間、ドイツ帝国は憲法も領土も変化せず、帝国の歴史の中で最長のじきであるだけでなく、もっとも安定していた。この時期は1890年までのビスマルク時代と、それ以後のヴィルヘルム2世の時代(ヴィルヘルムの時代、またはカイザー時代)に分かれる。
(引用)おおまかにいえば、最初の時期のビルマルク時代には、内政はほとんど不成功で支離滅裂だったが、外政はきわめて思慮深く平和的だった。ヴィルヘルム時代には、まったく逆だった。この時代は、内政的にはほぼ統一の遅れを取り戻した時期だったが、外政的には冒険的な航路に舵をとり、それが結局崩壊につながることになったのである。もちろん、ヴィルヘルム時代の外政がまさに、大きな国民的同意を伴っていたことは認めなければならない。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡』1989 平凡社刊 p.48>

ドイツの国家主義

 19世紀以来、国民国家形成が遅れたドイツでは「遅れてきた国民」として立場を脱するため、知識人の中に、イギリス・フランスの文明を「堕落した文明」としてとらえ、その物質主義に対する精神主義、合理主義に対してロマン主義を掲げる風潮が強くなったきた。普仏戦争の勝利に自信を持ったドイツでは、ビスマルク時代に軍国主義の国家体制を創り上げ、そのうえにヴィルヘルム2世が親政をとることとなった。イギリス人チェンバレンの著作の影響を受けたヴィルヘルム2世はアーリア人(またはチュートン=ゲルマン人)の優秀性を信じ、ユダヤ人・黒人を劣等民族と見なし、またアジアで台頭した日本に対しても警戒し、アジア人の脅威を「黄禍」ととらえていた。国内では台頭してきた労働運動、社会主義運動に対する資本家層の不安が強まった。そのような中で20世紀にはいると、ドイツのナショナリズムが異常に高まる背景となった。
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ノートの参照
第12章2節 キ.ドイツ帝国とビスマルク外交
第14章1節 エ.ドイツ
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セバスティアン・ハフナー/山田義顕訳
『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』
1989 平凡社