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2013年度 詳説世界史 準拠ノート

Text p.132

第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展

2節 東ヨーロッパ世界の成立

用語リストへ ア.ビザンツ帝国の繁栄と衰亡
■ポイント ローマ帝国を継承しながら、独自の発展を遂げたビザンツ帝国のあゆみを理解する。
ビザンツ帝国  394年 ローマ帝国の東西分裂 → 東ローマ帝国の形成。

解説

ビザンツ帝国の始まりは、330年のコンスタンティノープルの建設、395年のローマ帝国の東西分裂による東ローマ帝国の分離、さらに西ローマ帝国が滅亡して東ローマが唯一の「ローマ帝国」となった476年などに求めることが出来るが、定説はない。いずれにせよローマ帝国を継承した国家であり、首都コンスタンティノープルは第二のローマと言われたのであるが、その地域性から次第にギリシア的性格が強くなり、西方教会(ローマ教会)と分離した結果、7世紀頃からコンスタンティノープルの古称であるビザンティウムに由来する「ビザンツ帝国」と言われるようになった。
  • ゲルマン人の侵入をあまり受けず、ローマの伝統を維持。
     → 商業とa 貨幣経済  ( ノミスマ金貨 を発行)の繁栄が続く。
  • 都b コンスタンティノープル  (旧名c ビザンティウム )の繁栄。
  • 政治体制:d ローマ帝国以来の官僚制を継承し、その頂点の皇帝は専制君主として権力を維持した。   
  • 特徴:皇帝は教会の首長を兼ねるe 皇帝教皇主義  にたち、f ギリシア正教会 を直接支配。
     →  西ローマ帝国滅亡後、地中海世界の統一の再現を目指す。
ユスティニアヌス帝  在位527~565年 ビザンツ帝国の最盛期となる。
ユスティニアヌス帝
B ユスティニアヌス帝 

Text p.133

  • ヴァンダル王国  、b 東ゴート王国 を征服。
     → 地中海の旧ローマ帝国領を回復。
  • 東方ではc ササン朝ペルシア のホスロー1世と対抗。
     → 交易ルートがメソポタミアや・紅海からアラビア半島内陸部に移る。
  •  「ローマ法大全」 を集成。トリボニアヌスらに命じ、534年完成。
  •  バギア=ソフィア聖堂 を建設。ビザンツ様式の代表的建造物。(後出)
  • 中国からf 養蚕技術 を学び、絹織物業を起こす。
6世紀 次第にギリシア化が進む。

地図 ビザンツ帝国とその周辺(6世紀)

6世紀のビザンツ帝国全盛期
・征服されたゲルマン諸国  a 東ゴート王国   b ヴァンダル王国 
・周辺諸国  c フランク王国   d 西ゴート王国   e ササン朝ペルシア 
・主要都市 1 コンスタンティノープル   2 テッサロニケ   3 ラヴェンナ   4 ローマ 
      5 ミラノ   6 コルドバ   7 カルタゴ   8 アレクサンドリア 
      9 イェルサレム   10 ダマスクス   11 アンティオキア   12 クテシフォン 
C 領土の縮小
  • イタリアの大半をa ランゴバルド王国  、b フランク王国 に奪われる。
  • 7世紀 ▲c ヘラクレイオス1世   ササン朝、アヴァール人の侵入を防ぎ中央集権体制を強化。
     → アラブ人のd イスラーム勢力 の侵入が始まる。

    解説

    ギリシアの火 674~678年にはイスラーム海軍がコンスタンティノープルを包囲し、陥落寸前までいったが、ビザンツは秘密兵器「ギリシアの火」を繰り出して撃退した。左は14世紀に描かれた、「ギリシアの火」の図。さらに717~718年にもコンスタンティノープルを包囲したが、皇帝レオン3世が指揮するビザンツ軍が防衛に成功した。この時期はイスラームの正統カリフ時代からウマイヤ朝の時期にあたるが、750年にアッバース朝に替わりイスラーム世界の中心が東方のバグダードに移されると、ビザンツもその脅威を直接受けることは少なくなる。
     → e シリア・エジプト  を失う。
  • バルカン北部にf スラヴ人  が大量に移住。
  • さらに北方にはg トルコ系  のh ブルガール人  がi ブルガリア帝国  を建設。
東西キリスト教世界の分離  8世紀 フランク王国と結んだローマ=カトリック教会と対立。
  • 726年 ビザンツ皇帝レオン3世、a 聖像禁止令  を出す。(前出)
  • 800年 フランク王国d カール大帝  、ローマ皇帝の戴冠。 → ビザンツ皇帝との対立強まる。
      → 後にビザンツ帝国でもb 聖像画(イコン) を作成するようになる。(後出)
  • 1054年、ローマ教皇がコンスタンティノープル総主教を破門、最終的に分裂。
E ▲マケドニア朝の繁栄 867年 a バシレイオス1世   世襲王朝を開く。

解説

ビザンツ帝国では7世紀以降に皇帝の世襲が一般化したが、クーデタによる皇帝位の廃位などがたびたび起こり、王朝が交替した。その変遷をまとめると次のようになる。
 ヘラクレイオス朝(610~711)→マケドニア朝(867~1056)→コムネノス朝(1081~1185)→アンゲロス朝(1185~1204)→ラテン帝国の支配(1204~1261)→パライオロゴス朝(1261~1453)
 この間は、「中世ローマ帝国」とも言われる。ヘラクレイオス朝・マケドニア朝時代は独自の国家体制をとって繁栄したが、コムネノス朝からは衰退期に入った。それでもなお400年の命脈を保ち、1453年オスマン帝国によって滅ぼされるまで存続する。
  • 10~11世紀 一時勢力を盛り返す。b 軍管区制  、c 屯田兵制  を充実させる。(後出)
      → キエフ公国と結ぶ。キエフ公国のウラディミル1世、ギリシア正教に改宗(後出)。
  • 1018年 バシレイオス2世、d ブルガリア帝国  を破り、併合する。
ビザンツ帝国の衰退  11世紀末  貴族の大土地所有が復活。
  • 1071年 a セルジューク朝 が小アジア侵入。b マンジケルトの戦い で敗れる。
     コムネノス朝アレクシオス1世、ローマ教皇に援助要請。→ 西ヨーロッパ諸国、c 十字軍運動  の開始。
  • 1204年 ヴェネツィアなどを中心としたd 第4回十字軍 がe コンスタンティノープル を占領。
     → f ラテン帝国 を建国。
  • 解説

    ラテン帝国はフランドル伯ボードワンを皇帝としていたが、第4回十字軍の主体はヴェネツィア共和国であったので、実質はヴェネティアの植民地であった。これによってビザンツ帝国は一時コンスタンティノープルから追い出され、滅亡の危機に陥った。ビザンツ帝国の遺臣は、その周辺に亡命政権を建て、コンスタンティノープル奪回をねらった。その中では小アジア西部のニケーア帝国、東北部のトレビゾンド、西ギリシアのエピロスなどがあった。ラテン帝国は約半世紀間、コンスタンティノープルを支配し、ギリシア正教を否定してローマ教会の信仰を強要しようとした。しかし、1261年、ニケーア帝国のミハエル8世によって倒され、ビザンツ帝国が復活し、以後パライオロゴス朝が存続する。ただし、その後のビザンツ帝国はかつての栄光とはほど遠く、その支配はコンスタンティノープルの周辺とギリシアの一部にとどまっていた。
  • 1260年 ビザンツ帝国は復活したが、その支配領域は首都の周辺に限られた。
ビザンツ帝国の滅亡  14世紀、トルコ人のa オスマン帝国  が小アジアに興こる。(後出)
  • 1453 年 b コンスタンティノープルの陥落     ビザンツ帝国滅亡 。
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Text p.134


用語リストへ イ.ビザンツ帝国の社会と文化
■ポイント ビザンツ帝国の特色ある社会のしくみと、文化のありかたを理解する。
1.ビザンツ帝国の社会
軍管区制(テマ制) 
  • 初期ビザンツ帝国 ローマ帝国以来のコロヌス制による大土地所有制度が支配的であった。
  • 7世紀以降、異民族の侵攻が激しくなる。 → 軍政と行政を統合した制度が採用される。
  • A 軍管区制(テマ制)   = 帝国をいくつかの軍管区に分け、その軍司令官に軍事権と行政権を与える。
  •  屯田兵制   = 軍管区司令官が部下の兵士に土地を分与し、代わりに世襲の兵役義務を負わせる。
     → 小土地所有の自由農民が増加。 → 10世紀頃完成。
  • 解説

    軍管区制とは、ビザンツ帝国中期(7~11世紀)の軍事的な地方制度で、帝国の各地に軍管区(テマ)を置き、指揮官にその地方の軍事権と当時に行政、司法の権限も与えその地方を掌握する方式である。軍隊の兵士には農地が与えられ、平時には農耕に従事し、租税を負担するとともに、戦時には装備を自弁して戦闘に参加する屯田兵制と組み合わされていた。ユスティニアヌス帝時代にはローマ帝国の制度を継承し、辺境には属州総督が置かれていたが、7世紀頃から北方からのスラヴ人、東方からのアラブ人の侵攻が激しくなったことに対応し、ヘラクレイオス朝で原型ができた。しばしばテマの反乱も起こったが、10世紀には軍管区制が完成し、ビザンツ帝国はこの制度を通じて中央集権的な国家体制を維持できた。しかし、11世紀になると軍管区制は崩れ、貴族による大土地所有が広がり、プロノイア制に切り替えられていく。
  • 東ヨーロッパ社会の特徴 b 軍管区制・屯田兵制のもとで、封建社会の形成は遅れた。  
プロノイア制  = 貴族に国有地を貸与して軍役を奉仕させ、土地管理を委ねる制度。
  • 11世紀以降は貴族が封建領主化し、農奴制による大土地所有制がひろがった。
2.ビザンツ文化
  • 特徴 a 古代ギリシア文化とギリシア正教を融合させた文化である。  
     → 西欧の、ラテン語とローマカトリック的文化とは明確に異なる独自の文化を発展させた。
  •  ギリシア語  を公用語とする。 → ギリシアの古典研究を受け継ぐ。
  • Text p.135

  •  ギリシア正教  のキリスト教神学が学問の中心となる。 → ローマ教会とのd 聖像崇拝論争  
  • 美術・建築 d ビザンツ様式 の成立。
    特徴は、e ドーム  とf モザイク壁画  
     g ハギア=ソフィア聖堂  (コンスタンティノープル)

    解説

    ハギア=ソフィア聖堂(聖ソフィア寺院)は6世紀の柚須ティナヌス帝の時に再建された。ビザンツ様式のドームはその時のものである。後にコンスタンティノープルがオスマン帝国軍によって陥落し、外側に4本の尖塔(ミナレット)が新たに建設されて、イスラーム教のモスクとされた。下の左は画像からミナレットを除去し、モスク以前の姿を再現してみた。右は現状。
    本来の聖ソフィア寺院 イスラーム寺院となった聖ソフィア寺院
      → コンスタンティノープルがオスマン帝国に征服されてから、モスクに改装された。
     h サン=ヴィターレ聖堂  (イタリアのラヴェンナ)
     i イコン(聖像画)  の制作 ギリシア正教の信仰の対象となる。
  • 解説

    イコン イコンはギリシア正教会の教会で用いられた聖人を描いた聖画像のことで、ギリシア語で「イメージ」の意味。イエス、マリア、聖人の画像を崇拝すること通して信仰を深める、重要なものとされ、印刷術が普及するまでは、聖書の教えは、イコンを媒介として伝えられていた。
     7世紀になってイスラーム教の攻勢が東方から激しくなると、小アジアの住民から、厳格な偶像崇拝の禁止を求める声が起こり、それを受けて726年にビザンツ皇帝レオン3世が聖像禁止令を出すとローマ教会との間に聖像崇拝論争が起こった。ビザンツ領内では聖像破壊運動が盛んになって多くのイコンが破壊された。しかし、特にスラヴ人の中にはイコンの復活を求める要求が強く、843年に禁止令は解除され、その後、ビザンツ世界=ギリシア正教では「イコン」の制作が復活、ロシアなどでは信仰の様々な場面で現在も使われている。
  • ビザンツ文化の世界史的意義
     古代ギリシアの文化遺産を継承し、後のイタリア=ルネサンスに大きな影響を与えた。  
      スラブ人をその文化圏に取り込んだ。   
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用語リストへ ウ.スラヴ人と周辺諸民族の自立
■ポイント 東ヨーロッパのスラヴ系とその他の諸民族が受容した宗教の違いを明確にする。
・aスラヴ人  インド=ヨーロッパ語族に属し、6世紀以降、東ヨーロッパに広がる。
 b 東スラヴ人  (ロシア人、ウクライナ人)
 c 南スラヴ人  (セルビア人、クロアティア人、スロヴェニア人)
 d 西スラヴ人  (ポーランド人・チェック人・スロヴァキア人)
1.東スラヴ人 ドニェプル川中流域に展開
ノヴゴロド国 
  • 862年 a ノルマン人(ルーシ)  がリューリクに率いられ建国。
     → 先住民のスラヴ人と同化。これがb ロシア国家 の起源とされる。(前出)
キエフ公国  ※a キエフ  は現在のウクライナの首都。
  • 882年 ノヴゴロドからドニェプル川中流のa キエフ  に移動。次第にスラヴ化する。
  • 10世紀初め キエフ大公イーゴリ ビザンツ帝国領などへの領土拡張を図る。
  • 10世紀末 b ウラディミル1世 の時、領土を周辺に拡大し最盛期となる。
    988年 ビザンツ帝国皇帝(バシレイオス2世)の妹と結婚しc ギリシア正教 に改宗。
     = ビザンツ風の専制君主政を模倣する。
  • 11世紀 大土地所有が進展し、封建諸侯が分立、農民の農奴化進む。
「タタールのきびき」  の時代 ※ロシアではモンゴルなどアジア系民族をa タタール  と言った。
  • 1237~1240年 モンゴルのb バトゥ の侵入。 → ロシアの大半がモンゴル人に征服される。
     → 1241年 ポーランド・ドイツ連合軍、モンゴル軍に敗れる( ワールシュタットの戦い )。(後出)
  • 1243年 c キプチャク=ハン国 のロシア支配始まる。ハンは南ロシアのサライに居住。
     → 支配が約240年続く。実態は間接統治で、ロシア諸侯が徴税し、ハンに上納する。
  • 解説

    モンゴル帝国のバトゥの西方遠征によって、1240年にキエフ公国が滅ぼされてから、1480年にモスクワ公国が独立するまでの約240年続いた、ロシアがモンゴル人の支配を受けていた時代を「タタールのくびき」という。「くびき(軛)」とは牛や馬を御する時にその首に付ける道具。つまりロシアがモンゴルに押さえつけられていた時代、という意味となる。タタールとはモンゴル人を指しているが、現在のヴォルガ下流に住むタタール共和国のタタール人はトルコ系なので注意を要する。また、ロシア諸侯はキプチャク=ハン国に対して貢納するという形で服属を続けたが、直接統治されたわけではなく、その支配は間接的であった。
  • ▲ノヴゴロドの アレクサンドル=ネフスキー、1240年 スウェーデン軍をネヴァ川の戦いで撃退、
    1242年 ドイツ騎士団を氷上の戦いで撃退。c キプチャク=ハン国  には臣従し、貢納する。
モスクワ大公国 
  • 15世紀 商業都市a モスクワ  を中心として発展。
  • 1480年 b イヴァン3世  、東北ロシアを統一し、モンゴルから自立。
     → c ビザンツ帝国  滅亡(1453年)後、皇帝の姪ソフィアと結婚し、その後継者を自認する。
  •  ツァーリ を初めて称す。 意味= カエサルのロシア語形。皇帝を意味した。

    解説

    ローマ帝国のカエサルに由来し、カエサル→チェーザリ→ツァーリとロシア語に転化した。なおドイツ語では皇帝を「カイザー」という。15世紀後半のモスクワ大公国のイヴァン3世が、ビザンツ帝国の滅亡を受けて自らローマ皇帝位を継承するとして使用したのに始まり、16世紀のイヴァン4世が初めて全ロシアの支配者の意味でツァーリといわれ、正式称号となった。その後も特に18世紀のピョートル大帝以降の皇帝による専制支配体制をツァーリズムという。
     → イヴァン4世の時、正式なロシア皇帝の称号となる。▲モスクワはe 第三のローマ  といわれる。
  • Text p.136

  • 農奴制を強化し、専制君主制の基礎を固める。首都 モスクワ の繁栄。
  • 16世紀 f イヴァン4世  (雷帝) 中央集権体制を固め、東ヨーロッパの大勢力となる。(後出)
2.南スラヴ人
セルビア人 
  • 6世紀 a バルカン半島 南西部に移動、ビザンツ帝国に服属し、b ギリシア正教 に改宗。
      12世紀に独立、14世紀前半に、a バルカン半島  北部を支配し、強大となる。
  • 1389年 オスマン帝国の侵入 ▲c コソヴォの戦い で敗れ、バルカンのイスラーム化始まる。
クロアティア人  フランク王国に服属し、a ローマ=カトリック を受容。
  • 10世紀に独立、最盛期となる。 → 11世紀末、b ハンガリー王国  の支配下に入る。
      14世紀以降、イスラーム教国のc オスマン帝国 の侵攻を受け、16世紀にその支配下に入る。
スロヴェニア人  フランク王国に服属し、a ローマ=カトリック を受容。
  • 10世紀 b 神聖ローマ帝国  に組み込まれる。 → イタリアに隣接し、その影響を強く受ける。
3.西スラヴ人
ポーランド人  a ローマ=カトリック  を受容。
  • 10世紀にb ポーランド王国  (下の地図の①)を建国(ピアスト朝)。
     12世紀末から、ドイツ人のc 東方植民 が進み、バルト海沿岸を奪われる。
  • モンゴルの侵入 1241年 d ワールシュタットの戦い   ドイツと連合してあたるも敗北。(後出)
  • 14世紀前半 e カジミェシュ3世  (大王)のもとで繁栄。法典整備や通貨の発行。
     → 1364年 都クラクフに大学を設立。
リトアニア=ポーランド王国  a リトアニア人 はインド=ヨーロッパ語族系のバルト語族。
  • 13世紀 b ドイツ騎士団  の進出(東方植民)に抵抗しながらc リトアニア大公国  (地図②)を建国。
  • 1386年 リトアニア大公がポーランド王国女王と結婚、B リトアニア=ポーランド王国  (同君連合)成立。
     = d ヤゲウォ(ヤゲロー)朝  の成立。 理由:e ドイツ騎士団の進出に対抗するため。  
  • 15世紀 最も強大となり、現在のウクライナなどをふくむ広大な領土を支配した。16世紀に正式に合体。 
チェック人  現在のチェコの西部をベーメン(ボヘミア)、東部をモラヴィアという。
  • 7世紀 ▲a モラヴィア王国  建設 → 9世紀、マジャール人(ハンガリー)に征服される。
  • 10世紀 b ベーメン(ボヘミア)王国  を建設。いずれもc ローマ=カトリック  を受容。
     → 隣接するドイツ人の移住も多く、プラハを中心に、キリスト教文化が栄える。
  • 11世紀、d 神聖ローマ帝国  に編入される(地図③)。 14世紀 プラハ大学創設(後出)
スロヴァキア人  11世紀以来、ハンガリーの支配下に入る。a ローマ=カトリック  を受容。
4.東ヨーロッパの非スラヴ系民族
ブルガール人  a トルコ系  民族。バルカン半島に移動。
  • 7世紀 b 第1次ブルガリア帝国   建設、スラヴ人と同化し、c ギリシア正教  に改宗。
  • 9世紀 ▲聖職者キュリロスによってd キリル文字  が作られる。 → 後にロシアに広がる。
  • 解説

    キリル文字は、9世紀にスラヴ人のへのギリシア正教会の布教に活躍したギリシア人宣教師キュリロスが考案した文字。キュリロスは兄のメトディオスとともに文字をもたないスラヴ人への布教を進めるため、ギリシア文字をもとにしてスラヴ語をあらわす文字を考案した。これをキリル文字といい、現在のロシアで使われているロシア文字の原型となった。ただし、最近の研究ではキュリロスの作ったのはグラゴール文字といい、キリル文字はそれを改良したもとされている。ロシア人だけでなく、ブルガリアやセルビアなどスラヴ系諸民族でも用いられている。
  • 1018年 e ビザンツ帝国  に併合される。
  • 12世紀 f 第2次ブルガリア帝国   を建設。 → 14世紀 オスマン帝国に併合される。
マジャール人  ウラル語族の遊牧民であった。先に西進したアヴァール人などを同化。
  • 9世紀末、a パンノニア  に移動後、定住。
  • 955年 東フランクb オットー1世  に敗れる。
  • 10世紀 c ハンガリー王国  (地図④)を建国。 → d ローマ=カトリック  を受容。
     → クロアティアなどを支配し、15世紀に繁栄。
  • 16世紀 e オスマン帝国  の侵入はじまる。 → 領土の大半を征服され支配下にはいる。
ルーマニア人  ドナウ川北岸がローマ帝国の属州a ダキア  となり、ラテン系が移住。
  • スラヴ人・ゲルマン人・マジャール人が侵入。
  • 13~14世紀 C ルーマニア人 として自立。
  • ドナウ川北岸にはb ワラキア公国  、カルパチア山脈東部にc モルダヴィア公国  が成立。
    (14世紀末 ポーランド王国の宗主権を認める)
  • 15世紀 ともにd オスマン帝国  に征服される。

地図 1400年頃の東ヨーロッパ世界

6世紀のビザンツ帝国全盛期
 ① ポーランド王国 
 ② リトアニア大公国 
 ③ ベーメン 
 ④ ハンガリー王国 
・赤点線枠内が
  リトアニア=ポーランド王国 
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