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テノチティトラン

アステカ王国の都として繁栄していたが、1521年にスペインコルテスによって征服された。現在のメキシコ=シティー。

 メキシコ高原で繁栄したアステカ王国の首都。現在のメキシコ市。テスココ湖に浮かぶテノチティトランとトラテロルコの二つの島に築かれた都市は、湖面を埋め立てながら市域を広げ、1519年には面積はほぼ13平方kmであった。人口は約8万(別な資料では20~30万)と推定されるが、当時ヨーロッパで10万を超える都市はパリ、ナポリ、ヴェネツィア、ミラノしかなかった。スペイン最大の都市セビーリャでさえ4万5千に過ぎなかった。この巨大な「湖上都市」は、大神殿・宮殿・貴族の邸宅のある区画を中心として東西南北が4つの街区(バリオ)に整然と区分されていた。これも中世ヨーロッパの都市には見られなかったのでスペイン人たちが驚いた点である。町の住居は水路に面していて、どの家もカヌーを持ち、水路が利用されていた。町の周辺には洪水を防ぐ堤防が築かれ、湖にはチナンパが見られた。現在のメキシコ市はこのテノチティトランの上に建築されており、市の中心のソカロ(憲法広場)はテノチティトランの広場だったところ。現在の建物の地下にはアステカ王国時代の建物の遺構が横たわっている。<メキシコ大学院大学『メキシコの歴史』1978 新潮選書 p.56-69 /『ラテンアメリカを知る事典』1987 p.428>

コルテスの侵攻

 大航海時代スペインはコロンブスが西インド諸島に到達して以来、新大陸への入植を積極的に開始した。1519年、カルロス1世の商人のもと、キューバから大陸に上陸したコンキスタドール(征服者)の一人コルテスは、拠点としてベラクルスを建設した後、内陸のアステカ王国の都、テノチティトランに向かった。国王モクテスマ2世はその軍勢に驚いて、戦わずして服従し、その入場を許した。しかし、次の国王クアウテモクは反撃に転じ、一時はコルテス以下のスペイン人をテノチティトランから撤退させた。

テノチティトランの崩壊

 1521年、コルテスは態勢を立て直し、900名のスペイン人兵士を火砲と騎馬で武装し、テノチティトランを攻撃した。アステカ人は約3ヶ月にわたって闘ったが、ついにスペイン軍に敗れ、首都は陥落し約3万のアステカ兵が殺された。
 その敗因は、スペイン兵の鉄砲と馬に対して、弓矢ぐらいしかなかった武器の差とよく言われるが、それにもまして首都のアステカ族以外のインディオが、王の専制的支配に苦しめられていたために、コルテスに協力したことが大きい。テノチティトランのアステカ人はコルテス以外にも何万にも上るインディオの他部族と戦わなければならなかったのである。インディオたちの多くが、コルテスをむしろ解放者として歓迎したという側面がある。
 しかし、コルテスは解放者ではなく、征服者であった。彼はテノチティトランの市街を破壊し、運河を埋め、その富を奪い、部下に配分した。また征服したインディオに対しては、本国の訓令に反してエンコミエンダ制を実施して、その権利をスペイン人入植者に分与した。このテノチティトランの廃墟の上に新たに建設されたのが、現在のメキシコの首都、メキシコ=シティーである。
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ノートの参照
2章4節 イ.マヤ・アステカ文明とインカ文明