印刷 | 通常画面に戻る |

三長制

北魏の孝文帝が486年に施行した村落制度。農民を戸籍に組み込み、均田制・租庸調制を実施する前提となった。

 北魏孝文帝は、486年、前年の均田制に続いて三長制を施行した。三長制とは、村落の五家を一つの「隣」とし、五隣を一つの「里」、五里を一つの「党」にまとめ、それぞれに隣長・里長・党長を置き、それらにはまじめな人物を任命し、徭役を免除した。そのかわりに管下の農民がきちんと税を納め、徭役の人夫を出すように責任を持たせた。

三長制のねらい

 三長制のねらいは、戸籍をはっきりさせることにあった。当時は戸籍が乱れ、農民は「宗主」とよばれる豪族に保護下に入り、国家には納税義務を負わず、宗主に高額の小作料を納めていた。北魏はそのような状態を改め、国家が農家を直接支配し、租税を徴収して財政の基盤を固めようとした。戸籍を明確にして農家を村落組織に組み込み、隣長―里長―党長の三長を通じて掌握し用とした制度であった。これに対して従来村落を支配していた豪族の抵抗はあったが、豪族を三長の役職に就けて国家機構の末端に位置づけることになった。この三長制のもとで、農民の所有地は新しくつくられた戸籍に登録され、それを基礎にして均田制が前提されることになった。<川勝義雄『魏晋南北朝』2003 講談社学術文庫 p.363-364>
印 刷
印刷画面へ