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典礼問題

清朝の康煕帝の時、イエズス会が中国の儒教儀礼を認めて布教していることに対し、他の修道会が批判したことから起こった問題。ローマ教皇がイエズス会の布教方法を否定したため、康煕帝はイエズス会以外の布教を禁止した。

 17~18世紀の中国ので、キリスト教(ローマ・カトリック教会)の布教にあたったイエズス会の宣教師は、その布教を進めるうえで、中国の習慣や習俗をある程度認め、信徒に対しても孔子の礼拝や祖先の祭祀(つまり典礼)を行っていてもよい、としていた。その方法が功を奏し、イエズス会は中国における伝道を一手に独占していたが、後から中国布教を目指したフランチェスコ会、ドミニコ会などの修道会は、イエズス会のそのような布教方法は神を冒涜することで間違っているとローマ教皇に訴えた。この問題が「典礼問題」であり、教皇庁内でも論争となり、1704年、ローマ教皇クレメンス11世はイエズス会の布教方法を否定するという結論を出した。これに対し清の康煕帝は典礼を認めるイエズス会でなければ中国での布教を認めない、として典礼を拒否する宣教師の入国を禁止した。次いで雍正帝は全面的なキリスト教の布教禁止に至る(1724年)。
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ノートの参照
7章2節 エ.清代の社会と文化