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サン=マルティン

ラテンアメリカの独立運動家。アルゼンチン、チリ、ペルーの独立運動を指導し独立を実現した。

 ラテンアメリカ諸国の独立の指導者で、シモン=ボリバルが南米大陸北部の独立の英雄であるとすれば、南部の英雄がサン=マルティンである。サン=マルティン Jose de San Martin (1778~1850)はアルゼンチン(当時はラプラタ副王領)生まれのスペイン軍人で、一時は本国スペインでフランス軍などと戦った。1810年に始まったアルゼンチンの独立運動に共鳴してラプラタに戻り、独立軍に投じて活躍した。アルゼンチンは1816年に独立を宣言したが、その北部のスペイン領ペルー副王領の王党派に圧迫され、苦戦していたサン=マルティンはペルー副王領を背後から攻撃するため、チリを独立させ、そこから副王領に攻め込むという壮大な作戦を構想した。

サン=マルティンのアンデス越え

 アルゼンチンの新政府はサンマルティンの構想を採用し、指揮官に任命した。サン=マルティンは1817年、独立軍5000を率いてアンデスのアコンカグア山の南麓を21日かけて越え、ペルー副王軍を破ってサンチャゴに入った。サンチャゴにサン=マルティンに協力したオイギンスを臨時総裁とする臨時政府が成立、1818年2月、チリの独立を宣言した。

サン=マルティンのペルー攻略

 アルゼンチンではそのころ政変が起き、新政権はサン=マルティンに帰国を命じた。しかしサン=マルティンは帰国せずチリにとどまり、そこからペルー副王領攻撃を開始した。1820年8月、サン=マルティンはイギリス海軍の協力により海上を北上して、ペルーに上陸、スペイン軍を破りリマに迫った。リマのペルー副王はクスコに脱出し、1821年7月、サン=マルティンは市民の歓呼の声に迎えられ、リマに入城し、ペルーの独立を宣言、自身は護国卿として全権を握った。

ボリバルとの会見と決裂

 しかし、サン=マルティンのペルー統治はうまくいかなかった。サン=マルティン自身が持病の肺結核が悪化して鎮痛剤がわりにアヘンを常用したため引きこもりがちで、政治を腹心のラプラタ出身者に任せたため、ペルー人の反発が強まり、財政も苦しく、軍隊に給与を支払うことができなくなったため、王党派の反撃を受けリマの確保が困難になってきた。そこですでに1819年に、北方からペルー副王軍と戦っていたシモン=ボリバルの援軍を得るため、1822年7月、両者はクアヤキルで初めて会見した。しかし、サン=マルティンの部下の将軍たちの野心を疑っていたボリバルはサン=マルティンの援軍要請を拒否、 怒ったサン=マルティンは「そのまま挨拶もしないで」グアヤキルを後にした。両者の決裂の理由は、ボリバルは独立国家の形態をあくまで共和政と考えていたが、サン=マルティンは君主政を構想していたためであったとも伝えられている。

不遇な晩年

 ボリバルとの会談が物別れに終わり、サン=マルティンはリマに戻ったが護国卿を辞任し、ラプラタ(アルゼンチン)に帰った。しかし、すでに祖国を離れて久しいサン=マルティンを歓迎するものはなかった。
(引用)ラプラタに戻ってももはや占めるべき席がなく、パリに亡命して1850年に無名人として死んだ。生前は全く忘れられた存在だったが、死後四半世紀経って独立運動が歴史上の事件になると、アルゼンチンでもペルーでも建国の英雄に祭り上げられた。<高橋均/網野徹哉『ラテンアメリカ文明の興亡』世界の歴史18 1997 中央公論社>
 サン=マルティンの遺骸が南アメリカの解放者と認められてブエノスアイレスに戻るのは1880年のことだった。その命日の8月17日は、アルゼンチンの国民の祝日となっている。
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ノートの参照
第12章1節 イ.ウィーン体制の動揺
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高橋均/網野徹哉
『ラテンアメリカ文明の興亡』
世界の歴史18
1997 中央公論社