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コロンビア

1810年にボリバルの指導によりスペインから独立を宣言、1819年に大コロンビア共和国となる。その死後、1830年にベネズエラ、エクアドルが分裂しコロンビアとなる。独立後も混乱が続いた。

コロンビア GoogleMap

 スペインのヌエバ=グラナダ副王領から、シモン=ボリバルの指導により、1819年大コロンビア共和国として独立した。地域対立により、1830年ベネズエラエクアドルが分離した後、コロンビア共和国となった。
 コロンビアは北米大陸の最も北に位置し、パナマ地峡で北米大陸とつながっており、パナマに接している。つまりカリブ海と太平洋の両方に面している。東にはベネズエラ、西にはエクアドルと接するが、この三国は独立当初は「大コロンビア共和国」として一つの国家だった。現在のコロンビアは、国土は日本の約3倍であるが、人口は約5千万、日本の半分以下となっている。産業は長くコーヒーなどの農業国で、特にコーヒーは輸出品の最大を占めていたが、最近は石油を始めとする地下資源が豊富であることから、石油輸出国となり、大きく産業構造を転換しており、国際関係でも重要な位置を占めるようになった。

大コロンビアとして独立

 コロンビアの名は、アメリカ大陸を「発見」したコロンブスに由来している。スペイン人が来る前には独自のインディオ文化を有していたが、1536年にスペイン人のケサーダによって征服され、スペイン人の入植が始まった。1717年にペルーから分離してヌエバ・グラナダ副王領となる。
シモン=ボリバルによる独立 1811年、本国スペインがナポレオンによって占領されたことを機に、ベネズエラでシモン=ボリバルが独立戦争を開始し、1819年、北アメリカ大陸の広範な地域を含む「大コロンビア共和国」の独立を宣言した。これは現在のコロンビアだけでなく、ベネズエラ・エクアドルを含む、旧スペイン領ヌエバ・グラナダ副王の統治範囲すべてを含んでいた。
大コロンビアの分裂 その独立運動を進めたのは現地生まれの白人であるクリオーリョであったが、彼らは地域的な利害を抱えていたので、この広範な国土を統一して維持するのは困難であった。ボリバルはラテン・アメリカの反植民地運動の団結を目指して1829年にパナマ会議を開催したが、協力を得られず失敗した。翌1830年ベネズエラエクアドルが分離、コロンビア(パナマを含む)は単独の共和国となった。ボリバルはその年末に失望のうちに亡くなった。
 国号は当初からコロンビアにだったわけではなく、1830年に大コロンビア(グラン・コロンビア)共和国が解体した後はヌエバ・グラナダ共和国であり、57年にグラナダ連邦共和国、63年にコロンビア合州国、1886年の憲法で現行のコロンビア共和国へと変遷している。<『ラテンアメリカを知る事典』平凡社 p.179 による>

コロンビアの苦難

 国内ではクリオーリョの地主層が権力を維持しようとしてカトリック教会と結び保守派を形成した。それに対して産業の成長と共に企業家や商人層も次第に成長し、彼らは自由な経済活動を求めて自由主義派を形成した。両派は保守党と自由党の政治的な対立となってその後のコロンビアの不安定な情況が作り出され、時に内戦状態になるほどの紛争が20世紀後半まで持ち越された。
パナマの分離独立 コロンビア領に含まれていたパナマ地峡地帯では、19世紀末にフランス人レセップスによる運河建設の構想が持ち上がった。レセップスのパナマ運河建設は資金難などのために頓挫したが、ラテンアメリカへの進出を狙っていたアメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトは、コロンビアの政治が不安定なことにつけ込んで介入し、パナマの分離独立を支援した。その結果、1903年にパナマは独立した。アメリカは1913年にパナマ運河を完成させ、パナマに対する実質的な植民地支配を続けた。
世界恐慌の影響 1929年の世界恐慌はコーヒーの輸出のみに依存していたコロンビア経済に打撃を与え、インフレの高進、物価の高騰は労働組合運動など左派に有利に働き、1934年には自由党政権が生まれた。40年代に入って右派の巻き返しが始まり、46年に大統領選挙で右派が勝利すると、そのころから両派の対立はエスカレートした。

第二次世界大戦後

ビオレンシアの時代 1946年から60年代初頭までのコロンビアはビオレンシア(暴力)の時代といわれる。保守党と自由党の二大政党が激しく対立し、時に流血の惨事が繰り返された。1948年には保守党政権のもとで大衆に人気のあった自由党のガイタンが暗殺されたことから首都ボゴタで両派が衝突するというボゴタ騒動(ボゴタソと言われた)が起こった。自由党支持の民衆は大統領府、官庁を襲撃、軍と警察が動員されてその鎮圧に当たり、数千人の死者が出た。ビオレンシアの時代を通じて、約20万人が犠牲になったという。このような政党同士の争いを抑えることを口実に軍が政治に介入するようになり、1953年にクーデタによる軍事政権が成立した。
コロンビア式二大政党制 軍事政権の登場は、保守党・自由党にとって政党政治・文民政治の危機であったので、両者は抗争を続けながらも次第に秩序の回復を目指すようになり、妥協を成立させた。それが1958年に成立した国民協定といわれる政党間協定であり、そこで保守・自由の両党は4年ごとに政権を交代する(交互に大統領を選出する)、立法議会議員は選挙の結果にかかわらず両党で均等に配分する、閣僚と主要官僚のポストも両党で折半する、というものであった。この間は第三の政党は実質的に活動ができない状態となった。このようなコロンビアの二大政党制は特異なものであったが、政情の安定には一定を役割をはたし、ビオレンシアと言われた暴力的な対立と軍の介入は無くなり、この状態は1974年まで続いた。国民協定解消後は国政選挙でも全国人民同盟や共産党などが参加するようになったが、保守・自由の二大政党体制は大きく揺らぐことは無かった。

コロンビア内戦と社会不安

ゲリラの出現 1958年から74年までは保守党と自由党が交互に政権を担当する協定に基づく二大政党政治が続いた。その間、ラテンアメリカ全域で、キューバ革命の影響を受けた社会主義革命を目指す運動が活発になってゆき、コロンビアの二大政党制も揺るがすこととなった。ゲリラ闘争をしかける左翼ゲリラは国境を越えて各地に拠点を造り、体制に対する挑戦を行い、コロンビアにもコロンビア革命軍(FARC)などが出現した。左翼ゲリラの活動に対して、政府軍が強化され、さらに保守派の自衛的な民兵組織が造られるなど、内戦状態となった。この混乱の中で、麻薬の製造と販売を行う闇の組織(メデシン・カルテルといわれた)が、アメリカ向けの麻薬密輸出で巨富を得て大きな問題になっていった。
内戦の激化 コロンビアの左派ゲリラ・コロンビア革命軍(FARC)はキューバ革命の影響を受けて1964年に結成、急進的な社会主義革命を目指すとともにコロンビアの二大政党による閉塞情況を打破することを掲げて、最盛期の2000年頃には1万8千人に急増し、南米最大のゲリラ組織となった。1980年代には麻薬(主としてコカを原料としたコカイン)組織と手を結ぶようになり、さらに資金源として外国人を誘拐して身代金を取るという犯罪行為を繰り返した(日本人も犠牲となっている)。この間、政府側の腐敗も度々明らかになると、人気取りのためにゲリラに対する強硬策をとり、さらにゲリラが報復として要人を殺害するということが繰り返され混迷が続いた。
和平の実現 和平交渉の開始 2014年サントス大統領は、コロンビア革命軍(FARC)との和平交渉になり出すことを表明、和平交渉が始まった。2016年9月26日、カルタヘナで和平協定が調印されたが、翌月実施された国民投票では否決されてしまった。改めて修正協議が行われ、11月に新たな合意が成立し国会で承認された。合意に基づきFARCの武装解除が進み2017年9月に終了した。50年にわたったコロンビア内戦を終結させたことで、2016年秋にはサントス大統領にノーベル平和賞が授与された。このコロンビア内戦終結に対して、一部のゲリラ組織は従う姿勢をとっていないが、その後は武力衝突は無くなっており、大筋では和平に向かっていると思われる。

NewS コロンビア内戦で和平成立

 コロンビア当局の推計によると、26万人が命を落とし、4万5000人が行方不明になり、690万人が家を追われた内戦が、この和平協定で正式に終結した。 → AFPbb news 2016/9/30