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チリ(1) 独立

南米大陸太平洋岸に南北細長く連なる。1818年、スペインから独立したラテンアメリカの国。1879~83年の太平洋戦争で領土を北に拡張。

 アンデス南部の太平洋側に南北に連なるチリも、1810年にサンチャゴで臨時政府が樹立され、スペイン人官吏を追放しペルー副王の派遣した軍に対してオイギンスを司令官とする独立解放の戦争を続けた。独立軍は、ラプラタ地域の独立運動指導者サン=マルティンの支援を受けて1817年のチャカブコの戦いでスペイン軍を破り、1818年に独立を達成した。
チリの国旗 1817年のスペインの支配からの独立戦争のときに掲げられた旗で、自由と平等の理想の国家としてアメリカ合衆国を範に採ろうと、その星条旗を手本にしたという。大きな白い星は国家の統一を象徴している。

太平洋戦争での勝利

 1879年~83年のボリビアペルー連合軍との戦争で勝利して、アタカマ地方を獲得した。この戦争を太平洋戦争といっている。アタカマ地方は硝石の産地であり、その後は「チリ硝石」といわれ、チリの重要な輸出品となった。独立を達成したラテンアメリカ諸国が抱えていた国境紛争のひとつであったが、敗れたボリビアは海岸部を失い、83年の停戦後もチリトの国交を断絶させていた。ようやく2006年、左派のバチュレ大統領が就任、ボリビアで同じ左派のモラレス大統領が登場したのを機に和解交渉が始まった。

チリの革新的風土

 チリにはもともと革新的な政治風土があり、1920年に成立したアレサンドリ政権は、8時間労働など、当時の世界で最も進歩的な労働法を制定している。1930年代には世界的にファシズムが台頭し、それに対する自由と民主主義を守る闘いの中で人民戦線内閣が生まれたが、同じ時期にチリでも人民戦線の統一候補が選挙で勝ち、9年にわたって政権を担当している。<伊藤千尋『反米大陸』2007 集英社新書 p.120>

チリ(2) アジェンデ政権とクーデター

1970年にアジェンデ社会主義政権が成立したが、アメリカの介入により73年のクーデターで倒され、ピノチェト軍事政権が成立し、90年まで続く。

 チリは1932年以来、ラテンアメリカでは珍しくクーデターのない、安定した政治が続き、民族統一戦線政府が続いた。その伝統の上に、1970年~73年のアジェンデ社会主義政権が成立した。

アジェンデ政権の社会主義政策

 アジェンデ政権は、選挙公約どおり、年金の引き上げ、医療費の国民負担の軽減、スラム街への病院や学校の建設、最低賃金の引き上げ、など社会改革を実行した。農地改革では土地をもたない農民へ安く農地を分け与え、大農場を接収して協同組合を組織した。
 改革の最大の焦点は、世界一の埋蔵量を誇る銅鉱山という資源産業を国有化することであった。ところがチリの銅鉱山はケネコッタ社とアナコンダ社のアメリカ資本だけで全生産の8割を占めていた。アジェンデ政権はアメリカ企業に正当な補償を約束したが、実際にはアメリカ企業が世界平均に比べて異常に儲けていたため、その分を差し引いたところ、結果的に無償で接収することになった。
 アメリカはチリに対して損害賠償を請求、また備蓄していた銅を市場に放出して国際価格を下げ、義理経済に打撃をあたえた。アメリカのニクソン政権のもとで、CIAは反アジェンデ勢力の軍部に資金を援助、チリのトラック輸送業者にも資金を渡してストを行わせるなどの工作を行ってアジェンデ政権を追い込んでいった。

軍事クーデター

 1973年9月11日、ピノチェト将軍の指揮する反乱部隊は首都サンチャゴの大統領官邸に攻撃を加え、アジェンデ大統領自身が武器を取って抵抗したが終に殺害され、チリ軍部クーデターが成功し、アジェンデ社会主義政権は倒された。

ピノチェト軍事政権

 ピノチェトは軍事独裁を開始、それが1990年まで続いた。この間ピノチェト独裁政権はアメリカの援助のもと、「新自由主義」経済政策を導入し、一定の経済成長を実現したが、人権抑圧に対する不満が強まり、軍事政権は1984年には戒厳令を施行した。
 ピノチェト軍事政権の下で、反政府活動家、労働組合活動家、学生などが次々と逮捕され、拷問にかけられて、死に至った。その数はピノチェト政権崩壊後の調査では、死体が確認されたのが2095人、行方不明が1102人、合計3197人に上ったが、これは明るみに出た人数であり、実際には3万人が殺害されたと人権団体では主張している。<伊藤千尋『反米大陸』2007 集英社新書 p.118>

Episode 『戒厳令下チリ潜入記』

 1984年の戒厳令施行直後に、亡命中のチリの映画監督ミゲル=リツィンは、変装してチリに潜入し、ドキュメンタリー映画を作成し、軍事独裁を告発した。その潜入記を、ノーベル文学賞(『百年の孤独』などの作品で有名)作家のG.ガルシア=マルケスが書いた。それが『戒厳令下チリ潜入記』である。国家警備隊員の目を盗みながら撮影を進めるリツィンのスリリングな活動と、軍事独裁下のチリの人々の生活が描かれている。<G.ガルシア=マルケス、後藤政子訳『戒厳令下チリ潜入記』1986 岩波新書>

チリの民政移管

 ピノチェト軍事独裁政権の人権抑圧は国際的な批判もあり、ついに1990年の選挙結果を受けて、民政移管が実現した。ピノチェト将軍はなおも軍総司令官として権力を維持していたが、民政に移管したことによって、軍事政権のピノチェトの強権的な反対派弾圧や腐敗した政権運営が次第に明るみに出てきて、裁判にかけられることになった。国外に逃れたピノチェトは捕らえられて裁判が開始されたが、2006年に死去、裁判は中断された。反政府活動を行ったとして処刑された人は、約3000人に上ると言われている。
 その後、民主化を進め、経済を回復させたチリは、アメリカ・メキシコの自由貿易協定との経済協力をめざしており、ブラジル・アルゼンチン・パラグアイ・ウルグアイで結成した地域経済協力機構である南米南部共同市場(メルコスル)の準加盟国となった。

左派バチュレ政権の誕生

 ラテンアメリカ諸国で一斉に左派政権が登場した2006年、チリにおいても大統領選挙で社会党のミッチェル=バチュレ Michelle Bachelet が与党統一候補として当選した。彼女は、1973年に軍部がクーデターを起こしたときに逮捕されて拷問を受け、国外に逃亡した経験がある。チリ史上最初の女性大統領であり、公約に従って閣僚の半分を女性にした。彼女の父親はクーデター当時の空軍司令官であったが、クーデターに反対したため逮捕され、獄死している。
 バチュレ政権は、ピノチェト軍部独裁時代の残滓の一掃に努め、2006年にピノチェトが亡くなったときも国葬を拒否した。選挙制度・教育制度の公正化を進め、また新自由主義のひずみを是正するために非正規雇用の制限や貧困そう救済などを実行した。2010年の任期切れ大統領選挙では、バチュレ政権の貧困層保護に反発した中間層の推す候補所が当選し、一次会各派交替したが、2013年の台帳選挙ではバチュレが再出馬し当選した。
落盤事故の奇跡的救出 2010年8月5日、チリのコピアポ鉱山で落盤事故が起き、33名の生き埋めになった作業員は絶望視されていた。ところが17日後に全員生存していることが確認され、必死の救出作業が行われた結果、10月13日に全員が生還した。この奇跡の救出劇は全世界に中継され、感動を与えたことは記憶に新しい。
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書籍案内

ガルシア=マルケス
『戒厳令下チリ潜入記
―ある映画監督の冒険』
1986 岩波新書

伊藤千尋
『反米大陸』
2007 集英社新書