印刷 | 通常画面に戻る |

マデロ

1910年にディアス独裁政権を倒したメキシコ革命を指導した。1913年に暗殺される。

 メキシコにおいて、1876年から35年間も権力を握り続けていた大統領ディアス独裁政権に対して、フランシス=マデロは1910年に「公正な選挙と再選反対」を掲げて自ら立候補し、アメリカ合衆国の大統領選挙のやり方で全国を遊説して周った。選挙の一ヶ月前、マデロは政府転覆の嫌疑で投獄され、ディアスはいつものように不正選挙を繰り広げて当選した。任期は6年に延長されていたから、満期には86歳になることとなった。

メキシコ革命の開始

   選挙後、国外追放となったマデロは11月20日、アメリカから国民に革命開始を訴えた。国内では農民に人望のあったサパタビリャが武装蜂起し、翌1911年5月、ディアス政権は倒れ、独裁者は国外追放された。こうしてメキシコ革命の第一歩は成功し、マデロは11月に大統領に就任した。

革命路線の対立と反革命

 しかしマデロ革命政権は短命に終わった。その背景には、革命政権内部の路線対立があった。マデロは独裁政権反対の口火を切ったが、その基盤は地方地主層にあり、1857年の共和国憲法を理念とする議会政治の実現という穏健な改革を目指していた。また現実政治家でもあったので前ディアス政権の官僚や軍人、軍隊をそのままにしていた。一方で武器を取って起ち上がったサパタやビリャは小作農の悲惨な状況を何とかしたいというのが原点であり、「政治」などどうてもよかった。特にサパタの主張の行き着くところは大地主制度の解体、農民の解放という社会革命であった。そのサパタが1911年末に「アヤラ綱領」を発表して農地解放を明確に主張すると、マデロはそれを認めることができず、サパタ派を排除、サパタは革命政府に対する反乱を開始することとなった。1913年、前ディアス政権の軍人で軍を抑えていたウェルタ将軍が、アメリカの武器支援を受けて反革命に動き、2月に大統領府でマデロを監禁し殺害、抵抗した市民の多数が犠牲になった。、マデロが監禁されてから殺害されるまでを“悲劇の10日間”といわれている。その後、メキシコ革命は革命派・穏健派と反動勢力が激しく交替する複雑な経過をたどりながら長期にわたり展開されることになる。

Episode 小さなダビデ

 1910年の選挙にマデロが立候補したとき、「細菌が象に戦いを挑んだようなもの」と言われた。それほど無茶な挑戦と思われており、マデロの立候補を聞いたディアスは「とうとう気が触れてしまったか」と言ったという<大垣貴志郎『物語メキシコの歴史』2008 中公新書 p.202>。マデロが細菌と言われたのは、実際小柄だったそうで、身長は158センチだった。しかし「ディアスに対するこの小男の挑戦者は、その姿勢だけからしても民衆の人気を大いに博した。多くのメキシコ人が待ち受けていた小さなダビデが現れたのである。」<メキシコ大学院大学編『メキシコの歴史』1978 新潮選書 村江四郎訳 p.176>

参考 小説『悲劇週間』

 1913年、マデロ大統領がウェルタ将軍派に捕らえられてから殺害されるまでの10日間は“悲劇の10日間”と言われている。この戦いでは、マデロ政府側の兵士や全国から集まっていた義勇兵、そして多数の市民が内戦に巻き込まれて犠牲となった。映画『革命児サパタ』でも描かれているが、日本では2005年に矢作俊彦が発表した小説『悲劇週間』(文春文庫所収)で知られるようになった。この小説では、この時に日本公使館に公使の息子として滞在していた若き日の堀口大学(フランス文学者として有名)を主人公にして、内乱に巻き込まれる話になっている。メキシコと日本はすでに外交関係が密接で、榎本外務卿時代の日本人移民の受け入れで日本人も多く住んでいた。矢作氏の小説ではマデロ大統領の父夫妻が日本公使館に避難してきて、堀口公使も盛んにアメリカ大使とやり合いながら大統領を擁護したことになっている。そして大統領の姪と堀口大学が恋におちるというロマンスも物語られる。またその父の堀口九万一は外交官駆け出しの頃、韓国の閔妃暗殺事件に関わったという過去が影を落としている。その他にも、明治維新、戊辰戦争、西南戦争という日本の出来事と、米墨戦争やアメリカのハワイ併合、フランスのメキシコ出兵、パリ=コミューンとランボーの逸話など、歴史を題材とした面白い小説となっていて、世界史の勉強にもなる。<矢作俊彦『悲劇週間』2005 文春文庫>
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第14章2節 ウ.ラテンアメリカ諸国の従属と抵抗
書籍案内

大垣貴志郎
『物語メキシコの歴史』
2008 中公新書

矢作俊彦
『悲劇週間』
2005 文春文庫