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ウズベキスタンの旅

2.サマルカンド その1 ブルーの映えるモスク

2009年4月20日/21日 
レギスタン広場と3つのメドレセ
サマルカンドの中心部に位置するレギスタン広場とそれに面する3つのメドレセ
左から、ウルグ=ベク・メドレセ、ティラカリ・メドレセ、シェルドル・メドレセ

1420年にウルグ=ベクによって建造されたメドレセで、右側のミナレットが傾いているのは、天の重みを支えているからだと言われている。天文学者でもあったウルグベクらしく入口上部には星形のモチーフが飾られている。

ウルグ=ベク・メドレセ入口の装飾

ティラカリ・メドレセの天蓋内部

シェルドル・メドレセ(右)入口上部
白鹿は学問、虎(実はライオン)はそれを追う学生、人間の顔をした太陽は王を表すという。偶像が禁止されているイスラーム建築では珍しい例である。
レギスタン広場の物乞い
子どもを抱えて観光客に物乞いする女たち。
ガイド氏の話によると、彼女たちはモルタニといって、インド系のいわゆるジプシーらしい。パスポートを持たず、インド、パキスタンから中央アジア各地を渡り歩くという。男たちは働かず、女が物乞いをして生活する。抱いているのは本当の子どもではなく、いわば商売用。子どもたちも、熱心に仕事(物乞い)をしている。うるさくつきまとったり、盗みをしたりすることはない、といっていたが、世界遺産の観光地となった反面、このような”仕事”も増えてしまったのだろうか。
 
ビビハニム・モスク
ビビハニム・モスクは、1399年にインド遠征から帰ったティムールが建設した巨大なモスク。ビビハニムとは彼の正妻の名という。1404年に完成したモスクは、イスラーム世界最大規模を誇ったが、度重なる地震などで崩壊し、現在はその一部が修復されているだけである。正面入口の上半分が白っぽくなっているのが、現在修復された部分である。内部は修復が終わっておらず、煉瓦がむき出しだった。右下はコーランを置く台(ラウヒ=書見台)で、孫のウルグ=ベクが寄進したもの。
 
イマーム=アル=ブハーリー廟
アル=ブハーリー(810~870)は、ブハラ出身のイスラーム法学者。目が見えなかったが5歳の時、母がアッラーに祷り、見えるようになったという。55年間メッカでムハンマドを知っている世代から話を聞き、事実を確かめて言行録をまとめた。それが「ハディース」で、現在でも裁判の基準にされている。ブハーリーはブハラに戻ったが王の子どもを教えよといわれて拒否し、サマルカンドに亡命して死んだ。ここがそのお墓で、荒廃していたが1998年に整備された。

今も信仰を集めるアル=ブハーリーの墓

ブハーリー廟前でのウズベク人の土産物売り
 
シャーヒズインダ廟群
シャーヒズインダ廟群は旧サマルカンドのアフラシャブの丘の南側にある、イスラームの聖人やティムール一族の墓所群。シャーヒズインダとは「生ける王」の意味。伝承に拠れば、ムハンマドの従兄クサム=イブン=アッバースが初めてサマルカンドでイスラーム教を布教したとき、ここで礼拝し、異教徒に襲われて首を切られたが、動じることなく礼拝を終え、自分の首を抱えて井戸に隠れたという。イスラームに危機があるときに現れて信者を救うと信じられている。入口の門はウルグベクが建造したもので、中には11~15世紀に建てられた、様々な美しい装飾を持った廟が建ち並んでいる。

左はフッジャ・アフマド廟(1350)、右は無名廟(1361)

無名廟のテラコッタ

モザイクとタイル

シリンベク・アカ廟の内部

クサム=イブン=アッバース廟の内部
シャーヒズィンダ廟群では、すばらしいイスラーム建築のタイル、モザイク、テラコッタ、マジョルカなどによる装飾が見られた。いささか食傷してしまうかも知れないが、偶像崇拝を否定するイスラーム教徒が、彫刻や絵画ではなく、このような装飾的な意匠にこだわったことがよくわかる。

ジャーヒズィンダ廟から見た、サマルカンド市内・ビビハニム・モスクの遠景
手前はアフラシャブの丘に続くムスリムの墓地
 

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ウズベキスタンの旅 目次
タシケント
サマルカンド1
サマルカンド2
シャフリサーブス
ブハラ
ヒヴァ