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ウズベキスタンの旅

6.ヒヴァ ヒヴァ=ハン国へのタイムスリップ

2009年4月17日 
イチャン・カラ

ウズベキスタンの旅の二日目、タシケントから国内線の空路で西にウルゲンチまで飛び、そこからバスでヒヴァに向かった。
ヒヴァは古代のホラズム地方の重要都市の一つで、古くから交易で栄え、17世紀からは政治的な中心地となった。ヒヴァの中心にはほぼ方形の内城イチャン・カラがある。イチャン・カラは「青空の博物館」といわれるとおり、モスク、ミナレット、マドラサ、聖人の廟などが肩を寄せ合い、そして今も人々が暮らしている。
ホラズム時代の文化、ヒヴァ=ハン国の栄華、ロシアの保護国となってからの悲劇などの跡が至るところに見ることが出来る。中心部は土産物売りでうるさいが、路地にはいると別世界の感じがする。城門を一歩出れば、観光客のいないむきだしの中央アジアの生活がそこにあった。


ヒヴァのイチャン・カラをとりまく城壁 小さな出っ張りは墓だという

西門の脇の巨大なアル=フワーリズミー像
右が西門(オタ・ダルヴァザ)

西門を入るとすぐに眼に飛び込んできた逆光のカルタ・ミナル

おみやげで売られているホラズム特有の帽子
左は西門脇の城内案内図
カルタ・ミナルとは「低いミナレット」の意味。基盤は直径14.2mあり、完成すれば最も高いミナレットになるはずであったが、26mで終わった。これはヒヴァ=ハン国のムハンマド=アミン=ハンが建造しようとしたものだが、伝説によると隣国ブハラ=ハン国のハンが、塔を設計した建築家にもっと高い塔を作ることを持ちかけ、建築家はそれに同意した。それを知ったムハンマド=アミン=ハンは怒って建築家を殺そうとした。察知した建築家が逃亡したため、建設が途中で出来なくなった、という。実際は1855年にハンがトルクメン人との戦いの後に死んだため、工事が中断されたらしい。表面全体を有色のガラス張りにしたミナレットは他に例が無い。
タシュ・ハウリ宮殿 ハーレムの跡

左が入口。右が内部の全景。

狭い出入り口で外界と遮断されたハーレム。内側から外を見たところ。
タシュ・ハウリとは「石の庭」の意味で、ヒヴァ=ハン国のアラクリ=ハーン(1825~1842)時代に建設された宮殿。その一角に、ハンの私生活の場であるハーレムがあった。ハーレムは上の写真のように外部と狭い出入り口で結ばれており、内部には井戸のある中庭に面して、左側に手前からハンの居室と正妻の4人の部屋のアイヴァンが並び、反対側は2階建てになっていて妾女や使用人の部屋だったという。全体の壁面も美しい青と白のマジョリカタイルで飾られているが、特にハンと正妻たちのアイヴァンのマジョリカは美しく優美で、また天井には極彩色の幾何学模様が描かれている。ハーレムで女性たちは囚われの生活を送ったのであろうが、19世紀前半といえば、日本も徳川幕府の大奥があったわけだから、同じようなものかもしれない。
正妻用アイヴァンの天井 左奥一段高いところがハンの居所
 
ジュマ・モスク

ジュマ・モスクはイチャン・カラの中央にあり、最も古風な様式を伝えている大きなモスク。ジュマとは金曜日のことで、ここで現在でも礼拝が行われる。
10~13世紀に建造されたもので、下の写真の柱は最も古い柱の一本。何度も取り換えられたらしく、真新しい柱も見受けられる。
ミフラフは左手にあり、光は天井の明かり取りからはいるだけで神秘的である。
柱の最下部は細くなっており、礎石の
上に羊毛の織物を敷いていたという。
 
キョフナ・アルク城 ヒヴァ=ハン国のハンの居城
キョフナ・アルクの見張り塔から見たイチャン・カラの中心部。三本のミナレットは、
左からジュマ・モスク、イスラム・ホッジャ・メドレセ、カルタ・ミナル

見張り台から西側城壁の北方向を見る

見張り台から西側城壁の南方向を見る
キョフナ・アルクは西門のすぐ北にある、イチャン・カラ内部の宮殿で、「古い宮殿」の意味。アラクリ=ハーンの時にタシュ・ハウリが造られてから、こう呼ばれるようになった。それまでのヒヴァ=ハン国の政治の中枢であったところで、ハンの執務室、ハン用のモスク、裁判所、兵器庫や造幣局、さらに牢獄があった。中央には見張り用の高台アクシェイフ・ババが造られている。下はハンの公式謁見室クリヌッシュ・ハナ。中央の円台はレセプションの時にユルタ(テント)が建てられ、ハンの座所となる。左手のアイヴァンでは裁判が行われ、出入り口が3つあって、判決の際に裁判官が右から出れば無罪、真ん中から出れば軽い刑、左から出れば死刑と決まっていたという。すばらしい青と白のマジョリカタイルで装飾されている。

上は牢獄(ズィンダン)資料館
右は城内資料館の造幣所の様子
パフラヴァン・マフマド廟
パフラヴァン・マフマド(1247~1326)は、詩人・哲学者そしてレスラーであり、毛皮加工業者だったという。ヒヴァだけでなくイランやインドでも聖者として知られ、今でも信者がたくさんお参りにやってくる。ここはその墓地だったところが共同墓地とされたところ。一種の宗教センターのような所という。我々が見学したときも、次から次へと参詣の人たちが続き、結婚式も行われていた。まったく神社と同じ機能を果たしているわけだ。

堂の前の井戸。この水を飲むと男は強く、
女は美しくなれるという。

お堂の右手にある、昔生け贄の動物を
殺したという場所。今は使われていない。

靴を脱いで室内にはいると、さらに左手に小さな部屋があり、そこに祠のようなものがあって、そこ祈りを捧げてからこの部屋に戻って、導師から祈ってもらう。正面の黒い帽子の人が導師。祷りは簡単で2,3分で済む。終わると皆がお賽銭のようなものを差し出す。次から次にお祈りの人たちが続く。
 
イチャン・カラ ところどころ
城内の路地。
轍の跡がくっきりついている(左)。

通りではナンを焼いていた(下)。


城内の絨緞工房

絨緞の毛をそろえる作業

トルクメニスタンからヒヴァに遊びに来た若夫婦。
昔は、トルクメン人は奴隷貿易を盛んに行っていたというが・・・

アラクリ=ハーン=メドレセに付設
されたキャラバンサライの跡。
現在はバザールとなっている。
周囲に見える小部屋が旅人たちの
宿泊する部屋だったという。
左はメドレセの入口。

アラクリ=ハーン=メドレセ
の内庭で、民族音楽のショー。
小さな子どもも演じる。
 
ヒヴァ 城外の風景と子どもたち

イチャン・カラの
周囲にも町が広がっている。
わずかではあったが、
庶民の生活に触れることが
できた。
左は朝見かけた、ロバに
薪を積んで休憩していた
おじさん。
ロバはまだまだたくさん
使われているようだ。
左下は煉瓦を積んで家を
造っているところ。右下は
電線が走る町中の風景。

昔、奴隷市場あったという、東門を出たところ。

道に迷ったら、思いがけず池があった

町角でナンを焼く女の人たち


ヒヴァの城外であった子どもたち。
 
城 壁

東側城壁

南側城壁

下左は南東角
下右は南門
 
タシケント・ウルゲンチ間の飛行機から見たアムダリア川
2009年4月16日午後、タシケントからウルゲンチまで、ウズベキスタン航空の国内線で飛んだ。ずっと曇っていて、下界を見ることが出来なかったが、ウルゲンチの近く高度を下げたところで、大きな川が見えてきた。これがあのアムダリア川に違いない。想像以上に広い川幅であった。これでも上流を灌漑用水で取水され、水量はずいぶんと少なくなっているのだろう。しかしこの砂漠を流れる川が、かつてマー=ワラー=アンナフルの境であったことをうなずかせるような雄大な流れであった。わずかな時間であったが、アム川を上空からながめられただけでもこの旅は意味があったように思える。
 

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ウズベキスタンの旅 目次
タシケント
サマルカンド1
サマルカンド2
シャフリサーブス
ブハラ
ヒヴァ