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四分統治/四帝分治/テトラルキア

3世紀末、ローマ帝国のディオクレティアヌス帝の帝国分割統治策。帝国を東西に分けそれぞれに正帝と副帝を置いた。

 四分統治(しぶんとうち)は、四帝分治ともいい、ラテン語ではテトラルキアという。ローマ帝国ディオクレティアヌス帝の時に採られた統治体制。ディオクレティアヌスは、286年に帝国を東西に二分し、自らは東の正帝(称号はアウグストゥス)としてニコメディアを都に東部を担当、マクシミアヌスを西の正帝としてミラノを都に西部を治めさせた。さらに、293年にそれぞれに副帝(称号はカエサル)をおき、東の副帝としてガレリウス(軍人)を任命して現ユーゴのスリエムスカにおいて北半分を統治させ、西の副帝としてコンスタンティウス(コンスタンティヌス大帝の父)を任命して現ドイツのトリアー(トリール)に本営をおいてその北半分を統治させた。ローマは四帝の所在地とならず、政治的軍事的機能を失った。

四分統治の実際と意味

 四分統治と言っても四人の皇帝が同格なのではなく、東の正帝ディオクレティアヌス帝が決定権、裁決権を独占し、他の三人の皇帝はその代理として統治にあたるだけであるので、一人の皇帝に独裁的な権力を集中させる専制君主政(ドミナートゥス)とは矛盾しない。このような分治制度が採られた理由は、広大になりすぎた帝国の外敵の侵入に機敏に対応できるようにするためであるとともに、各地の軍団の動きを抑え、皇帝位の継承に正帝から副帝へと言う一定のルールを設けて軍人皇帝時代のような地方の軍団が勝手に皇帝を推戴することを防ぐという現実的な対応をしたものと考えられる。
 この四分統治はディオクレティアヌス帝が退位すると、早くも四人の皇帝の主導権争いが起こり、ローマは内戦状態となってしまいった。次のコンスタンティヌスは強力な指導力でその内戦を勝ち抜き、帝国の統一支配を回復したが、その死後はその皇子たちによる三分割が行われ、分割統治は定着していく。395年のテオドシウス帝の死後の東西分割もその帰結に過ぎない。

参考 その後の四分統治

 305年、ディオクレティアヌスは自ら皇帝位を退き、西の正帝マクシミアヌスも退位させた。そしてそれぞれの副帝を正帝に格上げした。それに伴い、東の副帝にはマクシミヌス=ダイア、西の副帝にはセウェルスというそれぞれ軍人出身者が就位した。これが四分統治の唯一の平穏な継承だった。
 新たに西の正帝となったコンスタンティウス1世の息子、コンスタンティヌス(後の大帝)はそれまで人質同然に東の正帝のもとにおかれていたが、この機会にそこから脱して父に合流した。ブリテン島に遠征した父帝に従っていたが、翌306年、父帝が急死してしまった。すると同行していた軍隊がコンスタンティヌス(30歳)を新たな皇帝と宣言してしまった。これがきっかけとなって四帝の間に激しい闘いが勃発し、その内乱に勝利したコンスタンティヌスがローマ皇帝位を統一し、分治制度は一旦終わりを告げる。<くわしくは南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』2013 岩波新書 p.61-66 を参照>