軍人皇帝
3世紀中ごろに相次いだ軍人出身のローマ皇帝。235~285年、軍人皇帝時代となり、帝国は君主制から専制君主政に移行した。
ローマ帝国の3世紀の中頃、235年から約50年間、ローマ皇帝の地位は軍人出身者によって占められ、頻繁に交替した。このような皇帝を軍人皇帝といった。彼らは軍隊の力によって擁立されたが、軍隊の意に反することがあれば容易に退位させられた。軍隊によって皇帝の地位が左右されたこの時期を軍人皇帝時代とも言う。またローマの「3世紀の危機」とも言われている。この時期を経てローマ帝国は共和政の原理の上に立っていた元首政の時期が終わり、後半の専制君主政の時期に移行する。 → ローマ帝国の軍隊
そのため、新皇帝に服する気配はなく、238年には北アフリカで起こったマクシミヌス帝に対する反乱をきっかけに、ローマ元老院も反抗を開始、ついにこの皇帝を打倒するに至る。しかし、軍隊の力を抑えることはできず、その後も下層出身の軍人が次々と軍隊によって推戴されて皇帝となった。<南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』2013 岩波新書 p.55>
260年にササン朝軍と戦って捕虜となったウァレリアヌスや、272年にシリアのパルミラを征服したアウレリアヌスらが典型的な軍人皇帝であった。彼らのうち、暗殺された者が16名という皇帝の権威が動揺した不安定な時期となった。
その背景にはササン朝ペルシアとの抗争、北方のゲルマン人との戦いが激しくなり軍隊の発言力が強まっていたことがあげられる。辺境を収める属州総督や軍団の司令官は、元老院議員身分を持つ権威あるものが務めていたが、2世紀後半ごろから元老院身分ではない、しかも属州出身の家系のものが、元老院身分に次ぐ、幅広い階層である騎士身分として就任するようになった。また、ローマ帝国の軍事力の実態はゲルマン人傭兵に依存する度合いが強くなっていた。それを乗り切ったのがディオクレティアヌス帝であったが、それ以降は共和政の性格は全くなくなり、専制国家として存続することとなる。
軍人皇帝マクシミヌス
235年、皇帝セウェルス=アレクサンデルがライン川付近のゲルマン人討伐作戦中、その兵士によって暗殺され、軍人から推挙されたマクシミヌス帝が即位した。マクシミヌス(正しくはマクシミヌス=トラクス)は、ローマ社会では下層の農民でドナウ川下流のトラキアから下部モエシアあたりの出身で、軍隊勤務が長く、騎士身分にまでなった。マクシミヌスが皇帝に推挙されたことを知ったローマの元老院議員で、彼を知っている者は誰もおらず、この軍人の即位に大きな衝撃を受けた。そのため、新皇帝に服する気配はなく、238年には北アフリカで起こったマクシミヌス帝に対する反乱をきっかけに、ローマ元老院も反抗を開始、ついにこの皇帝を打倒するに至る。しかし、軍隊の力を抑えることはできず、その後も下層出身の軍人が次々と軍隊によって推戴されて皇帝となった。<南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』2013 岩波新書 p.55>
軍人皇帝時代
235年、マクシミヌス帝が即位してから、285年にディオクレティアヌス帝が即位するまでの50年間、ローマ皇帝位は軍隊によって動かされ、18人も入れ替わった。この50年間をローマ帝国の歴史上、軍人皇帝時代と言っている。260年にササン朝軍と戦って捕虜となったウァレリアヌスや、272年にシリアのパルミラを征服したアウレリアヌスらが典型的な軍人皇帝であった。彼らのうち、暗殺された者が16名という皇帝の権威が動揺した不安定な時期となった。
その背景にはササン朝ペルシアとの抗争、北方のゲルマン人との戦いが激しくなり軍隊の発言力が強まっていたことがあげられる。辺境を収める属州総督や軍団の司令官は、元老院議員身分を持つ権威あるものが務めていたが、2世紀後半ごろから元老院身分ではない、しかも属州出身の家系のものが、元老院身分に次ぐ、幅広い階層である騎士身分として就任するようになった。また、ローマ帝国の軍事力の実態はゲルマン人傭兵に依存する度合いが強くなっていた。それを乗り切ったのがディオクレティアヌス帝であったが、それ以降は共和政の性格は全くなくなり、専制国家として存続することとなる。