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テネシー川流域開発公社/TVA

アメリカのF=ローズヴェルト大統領の世界恐慌の克服を目指したニューディール政策の一環。公共事業による雇用の増大をめざした。

 TVA Tennessee Valley Authority フランクリン=ローズヴェルトニューディールの重要な施策の一つとして、1933年5月に議会で承認された。政府が成立した公社によって、テネシー川流域のダム建設、治水事業、植林、など総合的開発を行い、地域産業を興し、雇用を増大させることを意図した。TVAによって20のダムが造られ、電力供給は安定し、流域の農業生産性は向上し、成功を収めた。
テネシー川流域は、テネシー、アラバマ、ジョージア、ミシシッピ、ノース・カロライナ、ケンタッキー、ヴァージニアの諸州にまたがり、全長1000km。公社は3名から成る理事会が運営、ローズヴェルトは理事長に55歳の洪水制御の専門技師A=モーガンを、残る二人はテネシー大学学長で農業科学者のH=モーガン、法律家の弱冠34歳D=リリエンソールを任命した。三人の理事は意見の違いもあり、困難を極めたが、それでも発電、森林の再生、土壌回復、農業の改善、学校の建設、レクリエーションなど広範な事業を展開した。高さ140mのフォンタナ・ダムをはじめとする40基の発電ダムと10基の非発電ダムは現在も稼働している。<林敏彦『大恐慌のアメリカ』1988 岩波新書 p.147-150>

南部にとってのテネシー川開発事業

 1933年に成立した「テネシー川流域開発公社」(TVA)法は、壮大な公共事業計画で、連邦予算を使って多くのダムをテネシー川流域に建設しようというものだった。テネシー川に流れこむ下水施設を利用する7つの州(上記)を網羅するTVA事業は以下の五つの懸案を一気に解決する総合的施策であった。
 ①電力の供給 ②洪水対策 ③航路のさらなる開拓 ④化学肥料の製造 ⑤地域の雇用の創出
 その社会的影響は絶大であった。1933年の南部の状況と言えば、失業者が巷にあふれ、物々交換がはびこり、電力不足は97%もの世帯に及び、人々は栄養失調やマラリアに脅かされ、土地は浸食の被害を受けていた。12年間に16個のダムを建設するというTVAの壮大な計画により、人々はたちまち新しい職を得、また新しい技能を身につけていった。地主は、土地の植林を促され、それによって浸食が食い止められたばかりか、木材の増産につながった。
 電力の面についても、1935年の「農村電化局」設置により、地方の住民にも低価格で電力が供給されるようになった。また、地方の図書館や学校設備にも格段の進歩が見られるようになった。ダム建設により水質が向上し、マラリアのような病気がなくなった。安価なリン酸肥料の普及により農地が拡大し、浸食が防がれた。第二次世界大戦が勃発すると、TVAからの電力は、戦闘機用のアルミニウム製造に使われるようになった。ちなみにテネシー州オークリッジでは、原子爆弾の材料となるウラン235が製造されていた。<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2003 東京書籍 p.150-152>

ニューディールの南部農業への影響

 しかし、ニューディール政策のすべてが南部人すべてに恩恵をもたらしたわけではなかった。ニューディールの農業振興策はやり方が急激で、個人・法人のいずれでも大地主の立場を強くするものであったので、富者と貧者の格差が拡大した。大型の農業機械の導入によって多くの小規模農家も「農業ビジネス」に組み込まれ、綿花栽培施設での機械化が進んだ。この機械設備の発達は、シェアクロッパー一人とラバ匹という小規模農家に壊滅的打撃を与え、彼らは消えていった。第二次世界大戦後も続いたその傾向によって、かつて630万を数えたアメリカの農業従事者は、1950年には540万、1970年には300万へと急激に減少した。<ジェームス・バーダマン『同上書』p.153>
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