ヒトラー=ユーゲント
ナチスの青少年組織として始まり、1936年からは国家機関となり、ドイツの青少年全体を組織し、ナチス=ドイツの体制維持に利用された。
国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の青少年組織として始まり、1936年12月1日の「ヒトラー=ユーゲント法」により14~18歳の男子の加入が義務化され国家機関となった。集団訓練を通じてナチ思想(ナチズム)の教育を受け、戦争末期には戦場にもかり出された。略称はHJ(ハーヨット)。女子はこれとは別に14~17歳が「ドイツ女子青年団」が組織された。ドイツ敗戦後、ポツダム協定によって禁止された。自らの意志で参加したのでなくとも、その団員だった過去を持つ人々は現在もナチス協力者として厳しく糾弾されることがある。<平井正『ヒトラー・ユーゲント 青年運動から戦闘組織へ』2001>
ヒトラー=ユーゲントの画一的なヒトラー礼賛に疑問を持ち、それに反発した若者たちもいた。かれらのなかには、ナチスに対する抵抗運動を密かに行ったミュンヘンの白バラグループや、ベルリンでジャズ音楽を愛好する行動で抵抗したスウィング・キッズといわれたグループなどがあった。かれらの抵抗はヒトラー=ユーゲント隊員やゲシュタポによって摘発され、消えていったが、その存在は今も若者に勇気と希望を与えてくれている。
ヒトラー=ユーゲントの画一的なヒトラー礼賛に疑問を持ち、それに反発した若者たちもいた。かれらのなかには、ナチスに対する抵抗運動を密かに行ったミュンヘンの白バラグループや、ベルリンでジャズ音楽を愛好する行動で抵抗したスウィング・キッズといわれたグループなどがあった。かれらの抵抗はヒトラー=ユーゲント隊員やゲシュタポによって摘発され、消えていったが、その存在は今も若者に勇気と希望を与えてくれている。
Episode 映画『スウィング・キッズ』
制服に身を包んだヒトラー=ユーゲント(HJ)の少年たちがユダヤ人を追いかけ回していたころ、そのような画一的な価値観の押しつけに反発した若者たちがいた。彼らはHJに入ることを拒否し、わざと長髪やおしゃれをし、ベニー=グッドマンらのスウィング・ジャズに夢中になった。1935年に始まるスウィング・ジャズの流行はドイツにも及んだが、ナチスは劣悪人種である黒人の音楽であるときめつけ、ベニー=グッドマンらもユダヤ人であったので、その音楽はドイツ精神に有害であるとして取り締まりの対象となった。若者はそれに反発し、夜な夜なクラブに集まってスウィングにあわせて踊り狂っていた。彼らは自分たちをスウィング=ユーゲントと称したが、ヒトラー=ユーゲントのメンバーからは激しくなじられたり、暴力を受けたりした。ナチス支配下のハンブルクでの若者たちを描いた映画が『スウィング・キッズ』(1993年アメリカ映画)である。スウィングを楽しんでいた若者グループが次第に追いつめられていくさまが描かれていて、ナチス時代のドイツの少年たちに同情を禁じ得ない。是非一見してほしい映画である。なお、ナチスが音楽をどのように統制し、利用しようとしたかについては、明石政紀『第三帝国と音楽』1995 水声社 がある。Episode 鎌倉のヒトラーユーゲント
昭和13(1938)年9月、ヒトラー=ユーゲントの一行30名が日本を訪問した。各地で歓迎され、一行は鎌倉にもやってきて、八幡宮に参拝、神官から「武士道と鎌倉」という講演を聴いている。当時の鎌倉は、国防色が強まる中、武士道の発祥の地、元寇という国難に際しての北条時宗・日蓮による救国の聖地、とされていたのだった。なお、同年3月にはイタリアからファシスト党(黒シャツ隊)代表も鎌倉を訪問している。<鎌倉市『鎌倉市史近代通史編』おおび、『生きてきたを伝える・戦争と鎌倉』2011 全日本年金者組合鎌倉支部>