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沖縄戦

1945年3月~6月、太平洋戦争において日本国内での唯一の地上戦となり約20万が犠牲になった。沖縄には戦後もアメリカ軍が駐留、その施政権は1972年まで続いた。

 太平洋戦争の末期、1945年4月1日、アメリカ軍18万の陸上部隊が沖縄島に上陸(慶良間諸島には3月26日)、迎え撃つ日本陸軍は8万、海軍1万に加え、義勇隊2万5千などとの激しい地上戦となった。義勇隊の中には沖縄中学と師範学校男子部生徒からなる鉄血勤皇隊1600人などの学徒兵も含まれていた。また高等女学校や女子師範学校の職員・生徒はひめゆり部隊や白梅部隊などを編制、看護婦として従軍した。
 日本軍は、沖縄戦によってアメリカ軍の本土上陸を遅らせ、その間本土防衛の準備にあたるという「捨て石」として時間を稼ぎ戦略をとっていた。そのため沖縄での戦闘は持久作戦を立て、住民を巻き込む戦術を採った。しかし、日本軍陣地と島民に対して、アメリカ軍は海上の艦艇から「鉄の暴風」と表現されるほどすさまじい砲撃を浴びせ、日本軍、避難民をおいつめた。海軍は戦艦大和を沖縄海域に派遣して救援にあたろうとしたが、制空権を奪われていたため撃沈され、沖縄沖海戦でも敗北した。5月末に軍司令部を首里から沖縄南部に移し、多くの避難民も南部に集中した。ついに6月23日、日本軍の牛島満司令官が摩文仁で自決、組織的抵抗は終わった。

沖縄戦の犠牲者

 この沖縄戦では約20万人以上が犠牲となった。軍人・兵士は約12万(他府県出身日本兵が約6万6千、沖縄出身兵約2万8千、アメリカ兵約1万2500人)が戦死、民間人の県民約9万人4千人の犠牲を出した(沖縄県の公表数値)。アメリカ軍の捕虜となることを恐れた民間人は、女子学徒隊のひめゆり部隊のように集団自決する人びとが相次いだ。また各地で日本軍の強制によって民間人が集団自決に追いやられる悲劇が生じた。日本国内で唯一、アメリカ軍との地上戦となった沖縄は、広島・長崎を初めとする本土空襲と共に日本の敗戦に至る大きな犠牲となった。そして、戦後はアメリカ軍の占領がそのまま続き、日本の独立回復後も施政権はアメリカが継続して持っており、ようやく1972年に沖縄返還が実現したが、アメリカ軍基地の多くはそのまま存続している。
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書籍案内

大田昌秀
『沖縄のこころ―沖縄戦と私』
1972 岩波新書

池宮城秀意
『戦争と沖縄』
1980 岩波ジュニア新書