第11章3節・フランス革命とナポレオン
【問】つぎの文章を読んで、下記の設問に答えよ。
芸術はときに権力と深い関わりをもつが、そのひとつの例を、フランスの画家ジャック=ルイ=ダヴィドに見ることができよう。フランス革命前のフランス美術界を支配していたのは、国王政府から特権を与えられた王立絵画彫刻アカデミーであった。美術の新たな潮流である新古典主義様式の中心人物であったタヴィドは、アカデミーと対立していたこともあり、革命が勃発すると古い体制を壊す革命派の陣営に属した。
1789年5月にヴェルサイユで開かれた( a )では、特権身分代表と第三身分代表が対立し、第三身分代表は国民議会の成立を宣言し、宮殿の( b )において、( c )が制定されるまでは解散しないことを誓いあったが、91年に描かれたダヴィドの代表作のひとつ「( b )の誓い」は、この歴史的事件を絵画として記録しようとした国民議会の後援を得たものであった。
やがてダヴィドは、直接に政治の世界に足を踏み入れる。(A)1792年9月、議会の議員に選出されたのである。議会では、93年1月に行われた国王( d )の裁判において、これを有罪とする投票を行った。また、ロベスピェールとも親しい間柄となり、公教育委員会の有力メンバーとして、(B)93年、94年に行われたさまざまな革命の祭典の準備に携わった。この間、ダントン、ロベスピエールとともにジャコバン派の指導者であった( e )が93年7月に暗殺されると、ダヴィドはその葬儀の責任者となり、同時に自ら「( e )の死」を描いた。
( f )の反動によってロベスピェールが失脚すると、ダヴィドは、処刑は免れたものの1年あまりの獄中生活を余儀なくされた。その後、革命軍の将校であった(C)ナポレオンが軍隊を基盤にして権力を掌握すると、王党派から命を狙われていたダヴィドは、ナポレオンに接近し、かれを称える絵画を制作し始めた。1804年、ナポレオンが皇帝に即位すると、その主席画家の称号を与えられ、「ナポレオンの戴冠式」を描く。しかし15年、( g )の戦いに敗れた(D)ナポレオンが最終的に失脚し、復古王政の時代になると、ダヴィドはブリュッセルに亡命、この地に没した。
- 問1
- 文中の空欄a~gを埋めるのに最も適切な語句を記せ(同一記号は同一語句)。
- 問2
- 下線部(A)について、この議会は何と呼ばれるか。
- 問3
- 下線部(B)について、これらの祭典のうち、ダヴィドが総監督をつとめた1793年8月10日に行われた「8月10日の祭典」は、1年前に生じた事件を記念するものてあった。
- (1)
- 1792年8月10日の事件は.パリ民衆と義勇軍が国王一家かいたパリ市内の宮殿を襲撃したものであった。この宮殿の名称を記せ。
- (2)
- 義勇軍は、この後1792年9日にオーストリア・プロイセン連合軍と戦い勝利するが、この戦いは何と呼ばれるか。
- 問4
- 下線部(C)について、ナポレオンに関して述べた文章として、適切でないものを下記から1つ選び、記号で記せ。
- (イ)
- ナポレオンは、イタリア遠征軍司令官としてオーストリアを破った。
- (ロ)
- ナポレオンは、統領政府を倒した軍事クーデタにより皇帝となった。
- (ハ)
- ナポレオンが制定した民法典では、私有財産の不可侵が規定されている。
- (ニ)
- ナポレオンの有力な支持基盤は、中土地所有農民である。
- 問5
- 下線部(D)について、ナポレオンが失脚した後の国際秩序は、ウィーン体制と呼ばれる。ウィーン体制について、90字以内で説明せよ。ただし、句読点は1字とせよ。
解 答 解答欄ごとにクリック。全解答を表示するには右上の「全解答表示」をクリック。クリアは左上のメニューで選択。
問1 | 1 | 2 | 3 | 4 | |
三部会 | テニスコート(球戯場) | 憲 法 | ルイ16世 | ||
5 | 6 | 7 | |||
マラー | テルミドール(9日) | ワーテルロー |
問2 | 国民公会 |
問3 | 1 | 2 | |
チュイルリー宮 | ヴァルミーの戦い |
問4 | ロ |
問5 | オーストリアのメッテルニヒが主催したウィーン会議で成立した、フランス革命前の状態に戻すという正統主義の理念によって組み立てられた、19世紀前半のヨーロッパの保守反動的な国際秩序。 |