総合・テーマ史
【問】次の文章を読み,それぞれ(1)~(10)の設問について〔 〕内の語句または数字から最も適切と思われるものを選び、その記号をマークしなさい。
孔子の学説を継承発展させてきた儒学は,長らく中国の正統的な教えとして尊重されてきたが,諸子百家の時代には、孔子を祖とする儒家の他にも、様々な有力な学派が存在した。例えば、無差別の愛や戦争否定を説き、『韓非子』「顕学」篇に、儒家とならぶ著名な学派として挙げられる(1)〔①道家 ②法家 ③墨家 ④陰陽家〕などは,その代表的なものの一つである。
漢代には,五経博士が置かれるなど、儒学を国家の正統教学とする動きが進むとともに、経典の注釈を中心とする(2)〔①文選 ⑧古文辞 ③朱子 ④訓読〕学が発達した。特に、後漢の鄭玄は、中国史上、最大の注釈学者の一人である。
魏晋南北朝時代には、儒学の権威は相対化され,老荘思想を碁盤とした道教や仏教が盛んになった。仏教の勢力が拡大したのは4世紀後半以降で、この時代には、中国から仏教の原典を求めてインドに向かう者が現れるとともに、西域から(3)〔①法顕 ②鳩摩羅什 ③弥勒 ④竜樹〕のような優れた僧侶が中国に迎えられた。
唐代に入ると、中国仏教はその最盛期を迎えるが、儒学の側では、国家公認の経典解釈を示す『五経正義』が作られ、思想統制に役立てられたが、思想としての儒学の活力は失われていった。また、唐代には、イスラーム教や,キリスト教の(4)〔①アリウス ②ネストリウス ③アタナシウス ④グノーシス〕派などの外来宗教も伝えられ、一部で流行した。
唐末五代の社会的大変動で、旧来の支配層だった貴族は没落し、末代には士大夫と呼ばれる儒学的教養を持った新興地主層が、科挙を通じて官僚として登用され、社会的指導者となった。科挙は、隋に始まった官吏登用試験で、宋代にその制度の大枠が完成した。これ以後、明・清を通じて科挙制度は一層精緻化され、(5)〔①1894 ②1905 ③1911 ④1925〕年に廃止されるまで,科挙に合格することこそが,中国社会のエリートたることの証明であった。
宋代の士大夫は、文化面でも指導的役割を果たし、経典の字句の解釈にとらわれずに儒学の本質的精神をつかみ取ろうとする宋学が、士大夫を担い手として発達した。また、当時の代表的な文学ジャンルとして、欧陽脩や蘇軾などの名文家を輩出した散文や,楽曲に合わせて歌う韻文である(6)〔①詞 ②詩 ③賦 ④北曲〕などがあるが,欧陽脩や蘇軾は、文人であると同時に著名な政治家でもあった。
明代には、『四書大全』『五経大全』が編纂され、国家による儒学の経典解釈の固定化が進められる一方、王守仁は、主観と実践を重視する(7)〔①朱子 ②考証 ③公羊 ④陽明〕学をおこした。
明末清初には多数のイエズス会宣教師が中国を訪れ、ヨーロッパの天文・暦法・数学・砲術なとを紹介し、元代に作成された(8)〔①貞享暦 ②授時暦 ③崇禎暦書 ④時憲暦〕を踏襲した明代の暦の改訂などにも協力したが、キリスト教が儒学の地位を脅かすことはなかった。
清代には、異民族による支配の影響もあり、儒学は、経典の文献学的研究が中心となり、その学問的水準は飛躍的に高まったが、実践の学としての性格は失われた。こうした状況への不満から、清代中期以降、経世実用を重視する(9)〔①朱子 ②考証 ③公羊 ④陽明〕学がおこった。清未の戊戌の変法を主導した康有為は、この学派の代表的人物である。
中華民国に入ると,西洋近代思想に基づく儒学批判が、雑誌『新青年』を中心として本格化した。著名な儒学批判者としては、「儒家の階級制度を主張する害」などを書いた呉虞や、後に中国共産党の指導者として初代総書記となった(10)〔①魯迅 ②胡適 ③毛沢東 ④陳独秀〕らが挙げられる。
解 答 解答欄ごとにクリック。全解答を表示するには右上の「全解答表示」をクリック。クリアは左上のメニューで選択。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
3 | 4 | 2 | 2 | 2 | 1 | 4 | 2 | 3 | 4 |