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刀伊

1019年、対馬・壱岐などに来襲した女真のこと。

 11世紀に入り、は北辺を契丹(遼)、西夏に脅かされ、しかも内政型の方針を採って周辺諸国との国交も最小限にとどめ消極的であった。そのため、当時日本は藤原氏による摂関政治が確立していたが、かれら平安貴族の国際意識はは、かつての奈良時代の律令貴族と比べて著しく低下した。藤原頼道が摂政になってまもない1019(寛仁3)年4月、中国東北部(満州東部)に住んでいた女真が50余隻で対馬・壱岐に襲来し、島民を殺害、連行するという事件が起こった。この女真を、高麗では、“蛮族”の意味で「刀伊」と言っていた<実教出版『必携世界史用語』>。

「刀伊の入寇」

 刀伊は筑前の国にも上陸し、北九州沿岸一帯を荒らした。太宰権帥であった藤原隆家(藤原氏の有力一門であったが、道長との争いに敗れて太宰府に左遷されていた)は、地方豪族を率いて撃退した。刀伊の船は帰路高麗の水軍によって壊滅させられ、連行された日本人捕虜200余名が救出された。
(引用)当時の日本では、刀伊が旧渤海の故地に住むツングース系の女真人であることを、だれも知らなかった。政府は、襲来が高麗と無関係であるのを知ったが、高麗への警戒をゆるめなかった。また高麗が、捕虜にされた日本人を送還してくれても、なんら報いることをしなかった。公卿たちは、事件の認識と処理において、まことに鈍感で冷淡であった。<大江一道『地域からの世界史18・日本』朝日新聞社 p.83>
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ノートの参照
第6章2節 ア.東アジアの勢力交代