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渤海/海東の盛国

7世紀末に中国東北部を中心に建国されたツングース系民族の国。唐の冊封を受け、律令制を取り入れ「海東の盛国」と言われた。

 7世紀末、シベリア南部の日本海岸にツングース系靺鞨族の大祚栄が建国した。唐王朝が中国を統一した7世紀ごろ、その東北の満州地方には、契丹(モンゴル系)と靺鞨が台頭してきた。靺鞨はツングース系で高句麗と同系統の民族であった。契丹は唐の太宗に服属し、その高句麗遠征に協力した。一方の靺鞨は668年、高句麗が唐の攻勢を受けて滅亡した後、大祚栄が出て、高句麗を復興させるとして、696年に遼東地方に震国を建てた。さらに大祚栄は713年に唐から渤海国王に冊封され、それ以後は渤海国を国号とした。
 渤海の支配領域は、北は黒竜江に接し、シベリアおよび沿海州南部から、中国の東北地方(旧満州)の東半分、さらに鴨緑江の南の平壌を中心とした朝鮮北部に及んだ。つまり、現在のロシア・中国・北朝鮮の三国に及んでいる。

唐・日本との関係

 大祚栄は713年に国号を渤海国と改め、唐から冊封を受け、その文化と律令制度を取り入れて、その支配領域は満州から朝鮮半島北部に及び、新羅と対抗した。日本にも727年以来渤海使が来航し、交易が行われた。日本からも遣渤海使が派遣され、絹などを輸出した。渤海の都の上京竜泉府(東京城)も日本の平城京と同じく長安城を模したもので、その故地からは和同開珎などが出土する。

「海東の盛国」

 渤海は8~9世紀に朝鮮北部から中国東北部にかけての日本海岸に栄えたツングース系の国家。唐の文化を取り入れ、仏教文化が栄えており、唐では渤海を「海東の盛国」と呼んでいたという。

Episode 渤海に渡った日本の「舞女」

 渤海の第3代の王、文王大欽茂(在位737~794)は、755年頃都の上京竜泉府をつくり、在位中に唐へ29回、日本へ10回の使いを送るなど、積極外交を展開した。日本も何度も遣渤海使を派遣しているが、上京竜泉府で発掘された和同開珎は758年に出発した小野朝臣田守の贈り物の一部であろうと推定されている。『新唐書』渤海伝によれば、唐の大暦年間(766~779年)、「日本舞女」十一名が渤海から唐朝に献じられた、と伝えている。日本側の資料には無いが、あるいは采女の中から送り出されたのかもしれない。彼女たちのその後はわからないが、日本、渤海、唐をめぐる物的、人的交流が盛んだったことが偲ばれる。<藤井一二『和同開珎』中公新書 1991 p.62>

10世紀の変動と渤海の滅亡

 渤海は武王、文王と三代にわたって安定したが次第に内紛が多くなり、926年に耶律阿保機の率いる契丹に滅ぼされた。契丹はこの地に東丹国を置いたが、実質的には直接統治だった。この時期、の滅亡(907年)と五代十国の争乱をうけてアジアは激動している。朝鮮では新羅が滅亡し、936年に高麗が成立、雲南では937年に大理が成立、ベトナムでは939年に呉権が中国から自立した。また937年には契丹が遼と称している。そのような時期、日本では承平・天慶の乱(935~941年)が起こっている。

Episode 渤海滅亡と平将門の乱

 10世紀は唐の滅亡をうけて東アジア各地で大きな変動が起こった時期であった。渤海の滅亡もその動きのひとつであったが、同じころ日本においても古代末期の大反乱、平将門の乱(藤原純友の乱と併せて承平・天慶の乱という)が起こっている。その乱の当事者である将門が939年に「新皇」として即位したときに、次のように言ったと『将門記』にでている。
(引用)今の世の人は、必ず撃て勝てるを以て君と為す。たといわが朝に非ずとも、みな人の国にあり。去ぬる延長年中(923~930)の大契丹王の如きは、正月一日を以て渤海の国を討ち取りて、東丹の国に改めて領掌せり。いかんぞ力を以て虜領せざらむや。<『将門記』2 梶原正昭訳注 東洋文庫 p.154> 一部わかりやすいように文字を改めた。
 現代は力で権力を握るものなのだ、たとえ日本に例がなくとも、契丹が渤海を滅ぼし、力を以て国を奪ているではないか。といって武力で権力を奪取する正統性を契丹が渤海を滅ぼしたことをあげて主張しているのである。渤海滅亡は将門が反乱を起こした925年の9年前であるが、渤海の残党が930年に日本に使者を派遣し、救援を要請したが朝廷は拒否したことがあったので、アジアの出来事が日本でも知られていたのだ。将門の言葉は彼自身の言葉かどうか疑う説もあるが、当時の日本の権力闘争にも国際情勢が影響していたことを示す言葉として興味深い。
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第3章3節 ウ.唐と隣接諸国