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建文帝

明の第2代皇帝。叔父の燕王の起こした「靖難の役」で敗れ、1402年に南京で死去した。燕王は永楽帝として即位した。

 洪武帝の皇太子朱標の子、つまり洪武帝の孫。父の皇太子が早く死んだため、皇太孫とされていた。1389年、洪武帝が死去したため、わずか16歳で皇帝となった。建文帝は温和な性格で、学問を好んだが、生前の洪武帝は軍事的才能のある燕王朱棣を皇帝にしたいと密かに考えていたとも言われ、宮廷内にも燕王を支持するものも多かった。建文帝は黃子澄や斉泰などの側近や、あくまで長子相続を正統とする儒学者方孝儒など学者に助けられて、皇帝権力の強化に努めようとした。

燕王の反乱 靖難の役

 南京の建文帝の宮廷は各地に封じられて力を持っていた叔父の諸王の領土を削減しようとした。それに強く反発した叔父の諸王の中で最も力を持っていた、現在の北京を治めていた燕王は、1399年に「君側の奸を除く」という名目で挙兵した。これが靖難の役であった。南京の建文帝の朝廷は、反乱軍平定のための北伐軍を送り、一時は燕王軍に勝利したが、軍事力に優位を保った燕王によって敗れ、1402年に南京城を総攻撃され、自殺した。建文帝を倒した燕王は、同年に即位して永楽帝となった。

建文帝の抹殺と復活

 位を簒奪した永楽帝は、歴史上から建文帝を抹殺することを図った。建文帝の即位はなかったこととされ、歴史から「革除」された。建文帝の年号が復活するのは、その死後二百年近くも立った1595年(万暦23年)9月のことであり、その名誉が回復されるのは明帝国の後を受けた清帝国の時代、1736年(乾隆元年)年であった。<寺田隆信『永楽帝』中公文庫 p.133>

Episode 建文帝は生きていた?

 建文帝は靖難の役で南京が陥落したときに宮殿で焼死したが、正史の『明史』で、「その死体は確認されておらず、南京を脱出したという人もいる」とあるため、“建文出亡伝説”(建文帝は南京を脱出して逃亡し、生存し続けたとする説)が生まれた。それによると、建文帝は僧侶に変装して脱出し、中国南部の異民族地域に逃れ、そこで老人になるまで生きていた。晩年に明の役人に見つかってみずから名乗ったが、もはや帝位を望むことはないと明言して、南京で余生を過ごした、とされている。また、永楽帝は建文帝が脱出したことを知っており、鄭和を南海に派遣したのはその探索が目的だったとも言う。一方で建文出亡説を否定する歴史学者も多かった。日本では幸田露伴が大正のはじめに『運命』を発表し、建文の脱出を事実として題材とし、それは傑作として評判となった。ところが露伴は後に、それは間違いだったと表明した。最近発表された高島俊男氏の著作によると、中国と日本の古典に通暁しているとされる露伴が、実はたいして資料にあたらず、『運命』も漢文をそのまま読み下しにしたにすぎないものであると論じている。もっとも氏によれば建文出亡伝説も完全に否定することは出来ず、現在の中国でもまじめに論じられているという。<高島俊男『しくじった皇帝』2008 ちくま文庫 p.111~ 露伴『運命』と建文出亡伝説>
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高島俊男
『しくじった皇帝』
2008 ちくま文庫