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1368年、朱元璋が建国した漢民族の王朝。靖難の役で実権を握り、1402年に皇帝となった永楽帝の時代、都を南京から北京に遷し、紫禁城を造営し、全盛期となる。皇帝専制体制を作り上げ、経済も発展し、漢民族の文化が隆盛期を迎え、広大な朝貢世界を支配した。15世紀後半からモンゴル人の侵攻を受け、16世紀には北虜南倭に苦しみ、次第に衰退。17世紀には北東から清の侵攻を受け、1644年に李自成の反乱によって滅亡する。

 元末の紅巾の乱の混乱の中から台頭した朱元璋が1368年に南京(金陵)で即位(太祖洪武帝)して建国した、漢民族の王朝。征服王朝である元のモンゴル色を一掃し、漢民族による中国大陸の統一支配を回復した。また、江南に起こった勢力が中国を統一し、江南に統一中国の都がおかれたのも初めてである。1368年8月に明軍は元の大都を攻略し、元の勢力をモンゴル高原に後退させ(北元として残る)、さらに四川地方、雲南地方にも遠征軍を送り、中国本土すべてを服属させ、漢・唐を上回る広大な領土を獲得した。 → 明の時期区分  → 明の滅亡
明の皇帝専制政治 明を建国した洪武帝(太祖)は、あらゆることを皇帝が決裁する皇帝独裁体制を作り上げ、それに批判的な勢力は次々と排除した。その結果、明代の皇帝には行政・軍事・外交などあらゆる権限が集中する統治機構が確立した。明代の皇帝の絶対的立場や次のように説明されることがある。
(引用)「漢や唐の時代には、大臣たちが皇帝と政務を処理するばあい、互いに椅子に腰かけ、膝つき合わせて話し合ったが、宋代になると、大臣は腰かけることを許されず、直立した姿勢でたたねばならなかった。ところが、明代になると、立っていることすら許されず、皇帝の面前では、すべてひざまづかねばならんくなった」<愛宕松男/寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫 p.291>
 明の皇帝の圧倒的な権力の大きさは、北京郊外に残る永楽帝以降の皇帝の陵墓である明の十三陵や、同じく永楽帝以降の宮殿紫禁城の豪勢さに現れている。
皇帝専制政治を支える明の政治機構 明の皇帝専制政治を支えた機構は完成期には次のようになる。

       中央     ─ 地方

  ┌(行政)六部     ─ 布政使  …… 里甲制によって農民を統治
  │
皇帝┼(軍事)五軍都督府  ─ 都指揮使 …… 衛所制によって軍戸を指揮
 ││
 │└(監察)都察院    ─ 按察使
 │
 補佐 内閣(内閣大学士)

 ※六部:吏部(官吏の任免)、戸部(戸口・租税)、礼部(典儀・科挙・外務)、兵部(武官の任免・軍政)、刑部(司法)、工部(林野・建設) 六部それぞれが皇帝直属
  五軍都督使:中軍、左軍、右軍、前軍、後軍の五軍にわけ皇帝に直属。地方の都指揮使は各省ごとに置かれ、衛所制の衛を指揮。
  都察院:律令制度の御史台に相当する監察機関。皇帝に直属し、官吏を監視し重要刑事事件を裁判した。
  内閣:永楽帝の時からの皇帝補佐、秘書役。複数の内閣大学士が置かれ、首席内閣大学士が事実上の宰相(首相)となった。

明の時期区分

14世紀後半

洪武帝南京を都とし、基盤である江南を中心に農村の回復に努め、賦役黄冊魚鱗図冊による徴税システムと里甲制を作り上げ、六諭を示して農民支配の安定化に努めた。そして中書省を廃止して六部を皇帝直属にするなど、皇帝独裁体制を作り上げた。また、軍事体制では衛所制を設け、軍戸から一定数の兵士を徴発し、都指揮使に統率させた。外交・貿易政策では倭寇対策に力を入れ、民間人の交易や渡航を制限する海禁を厳しくした。
靖難の役 洪武帝はモンゴルに備えて北辺の守りを固め、子たちを諸王として北辺の守りに当たらせたが、その中の燕王朱棣は燕京にあって良く北方を治め、有力であったが、洪武帝の死後、第二代となったのは孫の建文帝であった。建文帝は伯父の諸王の力をそぐために努めたが、燕王朱棣は不満を募らせ、ついに1399年に靖難の役を起こし、建文帝を倒して1402年に即位して永楽帝となった。

15世紀前半

:靖難の役をへて実権を握った永楽帝の時、明の国力は全盛期を迎えた。永楽帝は北京に遷都して中華帝国の建設を進め、北方のモンゴルへの遠征、南方のベトナムの支配を行って領土を拡張するとともに、鄭和をインド洋方面派遣したのはじめ、明中心の朝貢貿易の世界を出現させた。日本との間でも勘合貿易を開始し、東アジア秩序の中に組み入れた。その結果、倭寇の活動は下火となった。
永楽帝の時代 また永楽帝は北京の宮殿紫禁城の建造に着手し、皇帝の補佐役として内閣大学士を置いた。しかし、皇帝の独裁政治は依然として強く、そのために皇帝の側近に仕える宦官の発言力が次第に強まった。永楽帝は文化統制にも努め、『永楽大典』、『四書大全』、『五経大全』を編纂させた。

15世紀後半

:永楽帝の死後、北方のモンゴル人の活動が活発になり、その中のオイラトエセン=ハンはたびたび北方を侵すと共に明との交易を求めてきた。しかし明の正統帝は交易の要求を拒否し、1449年に軍事制圧を策して出兵したが敗北し、皇帝自らが捕虜となるという土木の変がおこった。その前年には、重税に苦しむ農民が立ち上がった鄧茂七の乱が起き、明の支配体制は大きく揺るぐこととなった。土木の変の後、モンゴルの侵攻は下火となったが、次の憲宗(成化帝)は1474年に長城の改修に着手し、現在の「万里の長城」が出現した。
銀の流通の増大 この頃、政治は宦官の介入が激しく、不安定な状況が続いていたが、中国社会は大きく変動しようとしていた。特に江南地方では綿織物業・絹織物業・塩業・陶磁器業などの手工業の発達が著しく、新しい商業都市である鎮や市が出現し、商取り引きにはが用いられるようになった。そのため日本銀が盛んに輸入されるようになった。長江下流域の江浙地方はそれまで穀物生産の中心であったが、手工業の発達を背景に農民は水田での稲作を止め、畑にして綿花や鍬の生産を行うようになった。そのため、穀物生産は長江中流域に移り、このころから「湖広熟すれば天下足る」と言われるようになった。

16世紀前半

:銀の流通に対応して、明朝政府は税制の改正に乗りだし、唐中期以来の両税法を改め、銀納を認める一条鞭法に転換した(1540年頃から)。商業はますます発展し、山西商人新安商人(徽州商人)といわれる商人たちが広く活動し、都市に会館・公所を設けていった。しかし一方で農村への銀の流入は、貧富の差を拡大し、農村の矛盾が深刻となり、抗租運動が激しく起こるようになった。またこの時期には科挙に合格した官僚で、地方に戻り、知識人・地主として地方政治や文化を担った人びとを郷紳といった。またこのような社会の変化は、思想界に大きな変化をもたらし、従来の中国を支配していた朱子学に対する批判の動きが起こり、陽明学が生まれた。
北虜南倭 この時期の明を最も悩ましたことが北虜南倭であった。北虜とはモンゴル人の北方からの侵攻であり、南倭とは後期倭寇の活動であった。このうち15世紀後半から再び活発になったものを後期倭寇と言っている。モンゴル人の侵攻は嘉靖帝の1550年のアルタンの北京を包囲以降、16世紀後半まで何度か繰り返される。これらの外敵の除去のために明朝政府は多大な財政出費を強いられ、国力を次第に消耗していった。

16世紀後半

北虜南倭に悩まされながら、宮廷では宦官政治が横行し、政治は停滞した。それに加え、この頃、大航海時代に突入したヨーロッパ人が盛んに中国にも渡来するようになり、まず1557年にはポルトガルのマカオ居住を認めた。また、それに伴ってキリスト教宣教師の来訪が相次ぐようになり、特にマテオ=リッチらによって西欧の技術がもたらされることになった。
張居正の改革 穆宗隆慶帝のもとで1568年に内閣大学士となった張居正は、一条鞭法を効率よく施行するため前提となる土地調査などを実施し、財政収入を回復させることに成功し、また海禁政策を停止して交易を認めたため倭寇の活動の意味が無くなり、またアルタン=ハンとの和議を結んでモンゴルとの交易も開始した。次の万暦帝のもとでも実権を握った張居正の改革によって、北虜南倭の危機は回避することができた。
 16世紀の末、豊臣秀吉の朝鮮侵略が起こると、明は宗主国として朝鮮への援軍を派遣、それは明にとっても重い負担となった。

17世紀前半

:万暦帝の治世の後半、張居正が死去した後は、宦官が魏忠賢という宦官が政治の実権を握り、それに反対する科挙官僚の集団である東林派との間で激しい党争が繰り広げられるようになった。明がこのような民衆不在の政争に明け暮れている間に、両党地方(後の満州、現在の東北地方)では女真を統一したヌルハチが、1616年に後金(アイシン)を建国し、明からの独立を宣言、さらに中国本土をうかがう勢いを示し始めた。さらに1636年にはホンタイジが国号を中国風のに改め、たびたび北京を脅かした。
李自成の反乱 明は清の侵攻に備える軍備を整えるために重税を課したが、それは民衆の反発を強め、各地に反明の農民蜂起が起こるようになった。その中から、最も有力になった李自成の乱が、ついに1644年、首都の北京を占領し、最後の皇帝崇禎帝が同年に自殺して、明朝は崩壊した。
 その時、明から清に降った武将呉三桂が清軍を先導して山海関を越え、順治帝が北京に入城、清の全中国支配が開始された。それに対して明の遺臣の抵抗が散発的に続いたが、台湾を根拠とした鄭成功が1683年に康煕帝によって平定され、明の遺臣の戦いも完全に終わった。

明の滅亡

1644年、李自成の乱で反乱軍が北京を占領、最後の皇帝崇禎帝が自殺して明は滅亡した。明の遺臣がしばらく抵抗を続けたが、1683年に鄭氏台湾が清に降り、抵抗は終わった。

女真の台頭

 16世紀末から17世紀初めの万暦帝時代は、表面は明の繁栄は続いていたが、内には東林派と非東林派の党争、抗租運動などが起こり、外に日本の豊臣秀吉の朝鮮侵略があって動揺は隠せなくなってきた。17世紀にはいると東北方面の女真族がにわかに勢力を増し、1616年にはヌルハチが後金を建国して明を脅かし、さらに次のホンタイジは1636年、国号を清と改めた。

李自成の反乱で明滅亡

 明は山海関の守りを固めて防戦し、宣教師から学んだ大砲の利用などもあって防戦していたが、その戦費調達のための増税は農民を苦しめ、1627年の大飢饉をきっかけに各地で反乱が勃発した。その中の最大の勢力が李自成の乱であり、李自成は1644年首都の北京を包囲、明朝の最後の皇帝崇禎帝(毅宗)は自殺して滅亡した。明朝成立以来、277年目のことであった。李自成は一時は皇帝を称したが統制を取ることが出来ず、山海関を超えて侵攻したに鎮圧され、清の中国支配が成立した。

Episode 明朝最後の皇帝毅宗の自殺

 1644年、李自成軍に北京をかこまれた毅宗の最後はつぎのようなものであった。「最後の時をむかえた毅宗は、皇子を城外へ退去させたのち、皇后と別れの杯をくみかわした。皇后はほどなくみずから首をくくって世を去り、毅宗は十五歳になったばかりの皇女をよんで、自分の手で彼女を斬った。「そちはなんの因果で皇帝の家などに生まれたのであるか」これが最愛の娘に刃を向けたさいの毅宗の言葉であったと伝えられる。十九日未明、毅宗は、みずから非常鐘をうちならして召集をかけたが、かけつけるもはひとりもいなかった。やむなく、毅宗は紫禁城の北、景山に登り、寿皇亭で縊死して果てた。帝に従ったものは太監の王承恩ただひとりだけであった。」<愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫 p.479>

明の遺臣の抵抗

 1644年に崇禎帝が自殺した後も、華南ではなおも明王朝の一族を担いだ地方政権が、清朝に抵抗した。それらを総称して、南明という。特に南京には、福王が弘光帝を称し、その部将の史可法が揚州を拠点に清軍と戦っていた。史可法の戦いを舞台とした史劇が清代につくられた『桃花扇伝奇』である。他にも鄭芝竜・鄭成功親子に擁立された福州の唐王(隆武帝)、紹興の魯王、広州の紹武帝、肇慶の永暦帝などがあった。そのうち史可法は1645年に清軍にとらえられて殺され、最も永らえた永暦帝もビルマまで逃げたが1661年に捕らえられて、南明の抵抗は終わった。

鄭氏台湾の抵抗

 鄭成功はその後も抵抗を続け、1661年に台湾を攻略して、独自政権を樹立した。それに対して清朝は遷界令を出して大陸沿岸の住民を内陸に移住させて台湾との交易を禁止して圧力を加えた。この鄭氏台湾はその後、三代にわたって続いたが内紛から衰え、1683年、康煕帝によって征服された。三藩の乱と鄭氏台湾の制圧をもって清朝の中国全土統一は完成した。
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ノートの参照
第7章1節 ア.14世紀の東アジア
第7章1節 カ.16~17世紀の東アジアの状況
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愛宕松男・寺田隆信
『モンゴルと大明帝国』
講談社学術文庫