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永楽帝/成祖

15世紀初め、靖難の変で建文帝を倒し明の皇帝となり、都を北京に移し、モンゴル高原・ベトナム北部などに領土を拡大。さらに鄭和の大航海により朝貢世界をひろげ、明の全盛期を現出させた。


永楽帝(1360~1424)
 の全盛期をもたらした第三代皇帝(在位1402~1424年)。1360年、朱元璋(洪武帝)の4男として生まれ、名は朱棣(しゅてい)。燕王に封じられ北平(現在の北京)を治めていたが、第二代皇帝建文帝と対立、1399年からの靖難の役で勝利して1402年に即位した。廟号は成祖。都を北平に移して北京に移し、モンゴルやベトナムに遠征して領土を広げ、大帝国を作り上げた。また、鄭和をインド洋まで派遣するなど、積極的な海外発展を行い、明を中心とした朝貢世界を作り上げた。永楽帝は第5回目の北方遠征の帰途、1424年に内モンゴルの幕営で65歳の生涯を閉じ、北京の北西郊外に葬られた。その地は代々の明の皇帝の陵墓(明の十三陵)とされる。

燕王朱棣

 朱棣は燕王として対モンゴルの前線である北平(北京)の守備にあたっていた。そこでモンゴル軍との戦いに活躍し、軍事的才能を発揮した。太祖洪武帝は自分の子供たちの中でこの燕王が最もすぐれていることを判っており、内心は彼を皇太子にしたいと考えていたが、皇后や廷臣から長幼の序に反すると反対され、心ならず長男を皇太子としていたようである。ところが皇太子が早く死んでしまい、やむなく皇太子の子(後の建文帝)を皇太孫とした。1398年、皇帝の継嗣問題が起こることを恐れながら洪武帝は死去し、16歳の建文帝が即位した。建文帝は若いだけでなく温和な性格で、政治や軍事の過酷な指導は無理と考えられていたが、長子継承の原則を守ろうとする黃子澄や斉泰など側近や方孝孺などの儒学者がその政治と支えた。

靖難の役で帝位を奪う

 建文帝とその宮廷の側近は燕王朱棣に権力を奪われることを恐れたが、直接当たることはできなかったので、同じような諸王たちに対し、さまざまな口実を設けて取りつぶしにかかった。燕王も自ら皇帝となる機会をうかがい、北平(現在の北京)で実力を蓄え、不穏な空気がひろがった。燕王と建文帝は叔父と甥の関係にあったが、ついに決裂し、1399年に燕王の挙兵によって決戦が始まった。燕王の挙兵は皇帝に対する反乱であり大義名分に欠けるため、口実として「君側の奸を除き、帝室の難を靖んじる」つまり、皇帝の政治を誤らせるもととなっている「君側の奸」を取り除き、政治を正すことにあると主張したので、「靖難の役」と言われた。燕王は直ちに北平を固め、軍隊を南下させたが、南京の建文帝政府も北伐の軍を起こし、両者の戦いは一進一退を重ねながら3年におよんだ。燕王が軍事的に優勢でありながら、苦戦したのは挙兵に「大義名分」が無く、皇帝に対する謀反人と見られていたからであった。

Episode 方孝孺の抵抗

 苦戦の末に南京を陥落させると、それまで燕王を簒奪者として非難していた廷臣の多くはきびすを返して燕王に即位を要請する有様だった。燕王はその要望に応えるというかたちで永楽帝として即位すると、前皇帝に仕えた廷臣にそのまま新帝にも仕えることを許し、多くの廷臣はそれに応じた。しかし、燕王から「君側の奸」と名指しされていた黃子澄と斉泰などは建文帝に殉じて自死した。建文帝の宮廷に仕え、高名な儒学者であった方孝儒に対しては、永楽帝は強く帰順を勧め、即位の詔勅を書くよう要請した。方孝孺はようやく筆を執って数文字を書いたと思うとたちまち筆をなげうち「詔を書くことはできません」と大声を張り上げて泣き出してしまった。紙を拾い上げてみるとそこには「燕賊、位を簒(うば)う」と書いてあった。永楽帝は怒り心頭に発し、方孝孺の口に刀をおしこんで抉り、その一族、門人のすべて873人を殺害、最後に方孝孺を南京城の聚宝門外に引き出して死刑を執行した。こうして即位した永楽帝は、建文帝の存在を歴史上から抹殺し、自らを第二代皇帝とした。建文帝が第二代皇帝として認められ、名誉が回復されるのは、清の乾隆帝の時代、1736年のことであった。<寺田隆信『永楽帝』中公文庫 p.127-132>

永楽帝の統治

 実力によって皇帝位を奪取した永楽帝が行った統治のありかたは次のようにまとめることができる。
  1. 皇帝専制政治の強化とその実態靖難の役で権力を握って1402年に皇帝となると、父の洪武帝の皇帝専制政治をさらに推し進め、皇帝の政治を補佐するものとして初めて内閣大学士をおいた。しかし、実際の政治は宦官に任せることが多く、明の宦官政治が始まることとなった。
  2. 北京への遷都:1421年に北方統治を重視し、都を南京から北京に移した。皇帝の絶対的な権威を明らかにするものとして、遷都した北京に巨大な皇城である紫禁城を建設した。
  3. 積極的な領土拡張:東アジアに中華帝国の覇権を確立することを目指した永楽帝は、5度にわたるモンゴルへの親征にとどまらず、遼東(後の満州、女真族の居住地)に宦官イシハを派遣し、黒竜江を下ってその河口に達してヌルカン都司を設置させ、チベット、西域にも宦官を派遣して統治にあたった。また1406年にはベトナムにも出兵し、直轄領(安南)とした。
  4. 朝貢貿易の拡大と統制:太祖洪武帝の統治に続き、自国民の海外渡航は禁止(海禁政策)しながら、外国からの朝貢は積極的に受け入れる朝貢貿易を行い、東アジアに明を中心とした朝貢世界を出現させた。日本との間では室町幕府との間に1404年から勘合貿易の形で日明貿易を開始した。永楽帝の外交政策の頂点にある鄭和の南海派遣は、このような明の国威発揚と朝貢貿易の拡大を目指すものであった。
  5. 文化事業:朱子学に基づく統治理念を徹底するため、『永楽大典』『四書大全』『五経大全』など大編纂事業を行った。

ティムールと永楽帝

 朱元璋が元を倒して明を建国(1368年)したのと同じころ、西アジアでは西トルキスタンに起こったティムール(1336-1405)がイラン、小アジアなどに勢力を伸ばし、1370年にティムール朝(帝国)を建国した。そして永楽帝の即位した1402年にはアンカラの戦いオスマン帝国バヤジット1世を破り、モンゴル帝国の権威を継承しながらイスラーム世界の統一をめざした。ティムールはチンギス=ハンの後裔を自称していたのでモンゴル人の元を北方に追いやった明に対する復讐心を燃やしていたので、靖難の役が起こったことを知ると、その混乱に乗じて永楽帝を討ち、報復をとげるべく遠征に出発したが、1405年、途中のオトラルで病死し、両者のの対決は実現しなかった。

15世紀初頭の世界

 15世紀初頭に永楽帝が作り上げた明の皇帝専制国家体制は、次の清に受け継がれ、19世紀までアジアを規定するすることとなる。そのころヨーロッパでは百年戦争の最中であり、またカトリック教会は教会大分裂(大シスマ)に直面して、 フス(1370頃~1415)の教会批判が始まった時期であった。一方ではイタリアではルネサンスが展開していた。永楽帝が専制国家体制を作り上げた約1世紀後の16世紀初頭、ヨーロッパでは宗教改革が始まり、大航海時代の展開の中でその勢力をアジアに及ぼしていくことになる。
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ノートの参照
第7章1節 イ.明初の政治
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寺田隆信
『永楽帝』
1997 中公文庫
初版 1966 人物往来社