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マゼラン海峡

南米大陸最南端の海峡。1520年、マゼラン船団が通過し太平洋に出る。

 南米大陸の最南端、フェゴ島と大陸の間にある狭い水路。新大陸の向こう側の海に抜けることのできる海峡を探していたマゼラン1520年にこの水路を発見、1ヶ月をかけて通過し、太平洋に出ることに成功した。マゼランは南の陸地はまだ続いていると考え、この海峡が太平洋に出る唯一のルートだ意味を過大に評価していたが、それから58年後の1578年にイギリス人のドレークが南米大陸最南端のホーン岬と南極大陸から突き出た南極半島の間の海峡(ドレーク海峡)を発見した。ホーン岬をまわるコースは、現在でも海上の難所となっている。

Episode マゼランの「みやげ」

 マゼランたちが到達したとき、南米大陸最南端の地は無人地帯ではなく、いくつかのインディオ部族が狩猟や漁労の定住生活を送っていた。マゼラン一行は現在のブラジルからパラグアイ、アルゼンチンと続く海岸を大陸の西への出口をさがして南下していったが、1520年の冬の3ヶ月間、現在のアルゼンチンのサンフリアンで越冬した。この地にはチュニク人という身長が高く、足の大きな人たちが住んでいた。この地をパタゴニアというのは「大きな足の人」を意味するパタゴンからきている。マゼランはチュニク人の男二人を欺して捕虜にし、スペイン皇帝への「みやげ」に連れて帰ろうとした。しかし、二人とも長い航海の末、壊血病で死んでしまった。またマゼラン海峡の大陸の反対側にフエゴ島がある。夜の航行中、乗組員が島の住民の燃やすく「おびただしい烽火」を見たところから、火を意味するフエゴと名付けられた。その住民はセルクナム人といい、狩猟などをしながら暮らしていた人々だった。これらの人々は、後に入植してきたスペイン人によって追い立てられ、殺されるか、病気になるが、アルコール中毒になるかして死んでしまい、現在では純粋な現地の人は絶滅してしまった。<本多勝一『マゼランが来た』1989 朝日新聞社刊 p.33-162>
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マゼランが来た
本多勝一
『マゼランが来た』
1989 朝日文庫