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ミルトン

イギリスのピューリタン革命で、革命派の詩人として活躍。『失楽園』を著す。

 ミルトンは「革命詩人」と言われるように、ピューリタン革命のときに革命派として活躍し、チャールズ1世処刑についてもそれを当然のことと支持し、革命政府のためにパンフレットを書いたりした。
 ミルトンは1608年ロンドンの富裕な新教徒の公証人の家に生まれ、ケンブリッジ大学に学び、卒業後古典研究と詩作をはじめる。1638年からフランス・イタリアを旅行、グロティウスやガリレオに会い、カルヴァン主義の都ジュネーブも訪ねた。しかし祖国でピューリタン弾圧が強まると帰国し、自由のためのパンフレット作家として、国教会の主教制度の廃止を訴え、聖職者と国家権力の結合を非難した。ミルトンの自由の主張は家庭生活にも及び、不幸な結婚をしながら教会の離婚禁止の規則に縛られていることを批判し、『離婚論』を著して離婚の自由を主張した。国教会と長老派の多かった議会はこの書を焚書に指定したほどである。

国王処刑を弁護

 ピューリタン革命が展開して国王チャールズ1世が処刑されと、国王処刑を非難する声も起こった。それに対してミルトンは『国王及び行政者たるものの条件』を書いて「政権を持つものが暴君の責任を追及して、正式な裁判後にこれを廃し、死刑に処すことは合法である」として国王死刑を弁護した。クロムウェルはミルトンを外国語秘書官に任命した。しかし、国王処刑に対する非難はくすぶり、チャールズの遺書という偽文書が出版さて彼を宗教上の殉教者に仕立て上げるような論調も出てきた。ミルトンはそれらに反駁する書を次々と発表し、その名声はヨーロッパ全体に広がったが、前から悪かった眼病が進み、ついに失明してしまう。
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9章3節 エ.成長する市民と文化