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ミルトン

イギリスのピューリタン革命で、革命派の詩人として活躍。国王死刑を支持し、クロムウェルの秘書官も務める。王政復古後は不遇となる中で、長編叙事詩『失楽園』を著し、ピューリタン文学の傑作とされている。

 ミルトン John Milton 1608-74 は「革命詩人」と言われるように、ピューリタン革命のときに革命派として活躍し、チャールズ1世処刑についてもそれを当然のことと支持し、革命政府のためにパンフレットを書いたりした。青年時代から詩作に励み、名声を得るようになったが、同時に熱心なピューリタンとしてイングランドの国王による国教会強要に強く反発した。1642年、ピューリタン革命が起きると独立派に加わり、チャールズ1世の処刑を支持、クロムウェルの秘書役を務め、国王処刑の正当性を訴えるパンフレットの作成に筆をふるった。しかし、クロムウェル没後、王政復古となると逮捕されるという苦難を味わい、その間に失明してしまう。処刑を免れて隠棲する間に、『失楽園』を口述筆記、1667年に刊行した。それはピューリタン文学の最高傑作と言われている。

ピューリタン信仰

 ミルトンは1608年、ロンドンの富裕な新教徒の公証人の家に生まれ、ケンブリッジ大学に学び、卒業後古典研究と詩作をはじめる。1638年からフランス・イタリアを旅行、グロティウスやガリレオに会い、カルヴァン主義の都ジュネーヴも訪ね知識を拡げたが、その根幹には強いピューリタンとしての信仰があった。祖国でピューリタン弾圧が強まると帰国し、自由のためのパンフレット作家として、国教会の主教制度の廃止を訴え、聖職者と国家権力の結合を非難した。ミルトンの自由の主張は家庭生活にも及び、女性が不幸な結婚をしながら教会の離婚禁止の規則に縛られていることを批判し、『離婚論』を著して離婚の自由を主張した。国教会と長老派の多かった議会はこの書を焚書に指定したほどである。

国王処刑を弁護

 ピューリタン革命が展開して国王チャールズ1世が処刑されと、国王処刑を非難する声も起こった。それに対してミルトンは『国王及び行政者たるものの条件』を書いて「政権を持つものが暴君の責任を追及して、正式な裁判後にこれを廃し、死刑に処すことは合法である」として国王死刑を弁護した。クロムウェルはミルトンを外国語秘書官に任命した。しかし、国王処刑に対する非難はくすぶり、チャールズの遺書という偽文書が出版さて彼を宗教上の殉教者に仕立て上げるような論調も出てきた。ミルトンはそれらに反駁する書を次々と発表し、その名声はヨーロッパ全体に広がったが、前から悪かった眼病が進み、ついに失明してしまう。

失楽園

ミルトンが著した長編叙事詩。『旧約聖書』のアダムとイヴの楽園追放を題材に、神の恩寵と摂理を説いた。

 『失楽園』Paradise Lost は、ピューリタン文学の最高峰とされる、17世紀イギリスのミルトンの作品。ミルトンは、イギリス革命の渦中にあり、ピューリタン信仰を強く持っていたことから、チャールズ1世の国教会強要に強く反発して革命の側に立ち、クロムウェルの秘書官などを務めて戦った。特に、国王チャールズ1世の処刑に対しては強く支持し、反対派を論難した。しかし、権力をにぎったクロムウェルが次第に独裁的になると、ミルトンはクロムウェルに対しても批判的になった。王政復古後は「国王殺し」の一人として捕らえられ、処刑は免れたものの獄中生活を送る。それらの打ち続く心労のためか、40代で失明した。失明しながらもミルトンは、神への恐れと敬愛から、長編叙事詩『失楽園』を口述筆記して、1667年に完成させた。
 『失楽園』とはアダムとイヴが悪魔(サタン)の誘惑に負けて禁断の木の実を食べてしまし、楽園を追放されるという『旧約聖書』に題材をとった長編叙事詩で、荒野にさまよう二人がやがて神の恩寵により、救いを見出すという壮大な構成になっている。このように『失楽園』はキリスト教の根本にある原罪をテーマとしているが、その行間に人間の現実社会や政治に対する幻滅や悲観、そして軽蔑の念が盛り込まれ、警告の書ともなっている。
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