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ピューリタン革命

イギリスの絶対王政による国教会の強制に対するピューリタンの信仰の自由、特権的商人を保護する重商主義に対するジェントリ層の不満などが要因となって1642年に内乱が始まり、49年に王政が倒れて共和政が成立した革命。ジェントリ出身でピューリタンのクロムウェルが権力をにぎったが、次第に独裁化し、国内が混乱し、1660年に王政復古して終わった。1688年の名誉革命と併せてイギリス革命と言われる。

 1642年から49年に至る、イギリスのステュアート朝絶対王政に対して、議会の中心勢力であったジェントリが国王の専制政治を倒し、宗教的自由を求めて立ち上がった。彼らはピューリタンが多かったので、ピューリタン革命(清教徒革命)という。この革命によって国王チャールズ1世は処刑され、共和政が実現した。しかし、指導者クロムウェル自身が独裁政治を行うようになって民心が離れ、その死後は王政復古となる。次の名誉革命とともに、イギリス革命の一部を構成する。17世紀のイギリス革命は、不十分とはいえ絶対王政を倒した市民革命の最初のものとも言え、18世紀後半のアメリカ独立革命、フランス革命へと続く先駆的なものであった。同時に、現在に続くイギリス(イングランドとスコットランド、それにアイルランドを含み)という一体化した国家の成立の画期となった変革であった。
 また、革命が進行した1640年代は、ヨーロッパ全体でも三十年戦争(1618~1648年)にひきつづき、経済の不振、生産力の低下、自然災害の頻発、人口の減少などを背景にして政治的な混乱が続いており、「17世紀の危機」といわれている。なお、「ピューリタン革命」または「清教徒革命」として定着しているが、本国イギリスでは、革命とは言わずに「内乱」と言うことが多く、また最近ではイングランド・スコットランド・アイルランドの「三王国戦争」ということもある。 → イギリス(5)

スチュアート朝の専制政治

ジェームズ1世・チャールズ1世 テューダー朝エリザベス1世1603年に死去した後、スコットランドから迎えられたステュアート朝ジェームズ1世は、王権神授説に基づいて王権の強化を図り、議会との対立を深めた。またイギリス国教会の立場からピューリタンを弾圧、おりからの三十年戦争でも大陸の新教徒を応援せず、国民の不信を強めた。1625年に即位した次のチャールズ1世も財政難に苦しみ、議会の同意を得ないで課税したり、貴族に献金を強要しようとした。
権利の請願 1628年、議会はエドワード=コークの指導の下、「権利の請願」を国王に提出した。これはコモン=ロー(慣習法)に則り、議会の同意を得ない課税や上納金、不法な逮捕・投獄などを行わないことを国王に求めたものであった。その拠り所としてよみがえったのが1215年マグナ=カルタ(大憲章)であった。
チャールズ1世 「権利の請願」を無視したチャールズ1世は、議会を解散し、議会なしで専制政治を行った。国王の側近のカンタベリー大主教ロードとストラフォード伯の二人が実際の政治にあたったので、この間をロード=ストラフォード体制ともいう。そのもとで、国教会の教義が強制されてピューリタンは弾圧され、トン税・ポンド税などの関税、船舶税などが拡大され、大商人に対する特許状が乱発された。議会の多数を占めるジェントリはこのような国王の施策に強く反発、信仰の自由を守ろうとするピューリタンと、財産権を守ろうとするジェントリの間に、反絶対王政の国民戦線が成立した。
スコットランドの反乱 1637年、チャールズ1世は、スコットランドに対し国教会の制度と儀式を強要した。スコットランドにはピューリタンと同じくカルヴァン派から派生した長老派が多く、1639年に反発した彼らはエディンバラで暴動を起こした。このスコットランドの反乱を鎮圧するために、チャールズ1世は自ら軍隊を率いて乗り込もうとしたが戦費が不足し、やむなく1640年4月、11年ぶりに議会を招集した。しかし議会は国王の要求に応じなかったため、三週間で解散した。これが短期議会である。さらにスコットランド軍がイングランドに侵入してきたので、チャールズ1世はやむなく多額の賠償金を約して和を結んだため、また議会を招集しなければならなくなった。
長期議会 1640年11月、選挙を経て召集された長期議会では、まず独占(エリザベス女王時代・チャールズ1世が特権的商人に独占権を乱発していた)を禁止し、三年に一度は議会を開催しなければならないこと、議会の解散には議会の同意が必要であることを国王も認め、さらに議会の同意のないトン税・ポンド税は廃止、船舶税は不法とされ、反王権を取り締まる上で暴威をふるっていた星室庁裁判所が廃止された。議会はさらに国王の悪政を箇条書きにした大抗議書を採択したが、これはわずか11票の差で成立した。議会内でも国王大権に対してあくまで抵抗しようとする議員と、妥協を図ろうとする議員の分裂が始まっていた。

内乱の勃発

 1642年1月、議会が分裂しているとみたチャールズ1世は、自ら兵を率いて議場に赴き、ジョン=ピムら議会の指導者5人の引き渡しを要求した。それが拒否されるとチャールズは北部のヨークに向かい、戦闘準備に取りかかった。1642年8月、ついに戦闘が始まり、内乱・内戦状態となった。ここから一気にチャールズ1世の処刑に向かっていくが、その過程をまとめると次のようになる。
議会派と国王派 ピューリタン革命の内戦では議会派(円頂党ともいう)と王党派(騎士党とも言う)の二派が闘ったが、その二派の違いは必ずしも明確ではない。議会派にはピューリタンが多く、地理的にはイングランドの東部・南部、国王派には国教徒が多く、地理的には西部・北部ということはそのとおりであるが、ジェントリ層はほぼまっぷたつに分裂していたので、単純に階級対立とは言えない。また中間派も多かった。
 戦闘開始後ほぼ2年間は国王軍に有利であった。それは国王軍は軍事的経験と訓練のある貴族を指揮官とし、騎兵主体に編成されていたのに対し、議会軍は軍事的には素人のジェントリが率いる地方の民兵隊を主力としていたためと考えられる。
クロムウェルの登場 クロムウェルは熱心なピューリタンを集めて騎兵隊を組織、それは鉄騎隊と言われ、国王とその一派を侵攻の敵と考え、神の意志に従った軍隊として訓練され、議会軍の劣勢を跳ね返していった。それによってクロムウェルは革命の中心人物に躍り出ることとなった。
長老派と独立派の対立 議会派の中心は当初は長老派であったが、クロムウェルの登場以降、独立派が台頭してきた。前者はスコットランドと手を結び、国教会に対して長老主義の教会組織を全国に広げることを主張し、国王とは妥協を図ろうとした。それに対してピューリタン信仰にもえ、教会は聖職者のものでなく独立した平信徒によって運営されるべきであると主張したのが独立派である。独立派は国王軍との徹底した闘いを続けることを要求し、両者の溝は次第に深くなっていった。
クロムウェルの勝利 1644年7月、マーストン=ムーアの闘いでの議会軍の勝利に貢献したクロムウェルは、その勝利を背景にして、長老派を議会軍から追放し、議会軍全体を新型軍(ニューモデルアーミー)に改組することに成功した。こうして独立派が主導権を握った議会軍は有利な闘いを進めることになり、1645年6月のネースビーの戦いで決定的な勝利をおさめた。翌年春、チャールズ1世はスコットランド軍に投降し第1次の内乱が終わった。
水平派の登場 長老派は議会軍から追放されたが、長期議会の中では依然として多数を占めていた。長老派が革命の終結を狙って軍隊を解散させようとすると、議会軍の一般兵士の利益を守ろうとする中から水平派(平等派)といわれる勢力が台頭した。その指導者はジョン=リルバーンで、ロンドンの手工業者・職人層を中心に組織されていた。彼らは1647年秋、人民主権・財産の平等化などをかかげた共和国構想をもと「人民協定」という憲法草案を軍幹部に提出した。それに対して、ジェントリつまり地主出身のクロムウェルは否定的で、両者の間で激しい論争が行われた。
第2次の内乱 議会派が分裂したことに乗じて国王軍の残存勢力が反乱を起こし、第2次内乱となったが、この危機に議会派は独立派と水平派が和解して反革命軍にあたり、1648年にはほぼ鎮圧した。その上でクロムウェルは議会内の長老派を追放し、議会は独立派だけで構成する「残部(ランプ)議会」となった。このころからクロムウェルの課題は国王チャールズ1世をどう処遇するかであった。

チャールズ1世の処刑

 ピューリタン革命が進行するなか、1649年1月4日下院のみの決議で国王チャールズ1世処刑のための最高裁判所が設置され、20日から裁判が開始された。裁判委員は135名が任命されたが拒否する者が多く、実際には60名ぐらいで構成。27日国王に対する死刑の判決文が作成され、57名の委員が署名し(彼らは後に「国王殺し」とよばれた)、30日ホワイトホールで死刑が執行された。判決文には国王が「議会とそれに代表される国民に反逆し不正な戦いをしかけた」罪を追求し、「専制君主、反逆者、殺人者であり、国家に対する公敵」であるとしている。しかし、多くの国民には国王はむしろ「殉教者」として讃えられ、その遺著として売り出された書物は政府の禁止ににもかかわらず、50版を越える売れ行きだった。<浜林正夫『イギリス市民革命史』1971 未来社 P.191>
 このような国王処刑を非難する出版に対抗して、革命による国王処刑の正当性を弁護する論陣を張ったのが詩人ミルトンであった。
外国が干渉できなかった事情 イギリス国王チャールズ1世が処刑されたことは、他のヨーロッパの各国の王にとって衝撃であった。当然、各国の国王政権はチャールズ1世に援軍を送り、王政を維持するために干渉することが考えられる。後のフランス革命やロシア革命の場合でも、革命阻止のために外国の干渉軍が派遣されている。しかし、ピューリタン革命の時はそうはならなかった。それは、当時まさにヨーロッパは17世紀の危機にあり、三十年戦争オランダ独立戦争が並行して展開されており、フランスではフロンドの乱(1648~53年)が起こっていた。フランス・スペイン・オランダ・ドイツ諸侯・北欧諸国いずれも自国及び大陸内のことで手一杯だったことが挙げられる。それらの戦争の講和条約であるウェストファリア条約が成立したのが、チャールズ処刑の前年の1648年であった。

共和制の宣言

 1649年1月30日、チャールズ1世はロンドンのホワイトホール宮殿外の処刑台で衆人環視のもと、断首刑に処せられた。議会は次いで王政そのものを継続するかどうか審議に入り、3月に「王という職は不必要であり、負担の多いものであり、人民の自由、安全および公けの利益に有害である」として君主制のを廃止した。君主制と密接に結びついき、君主制の不可分の要素となっていた貴族院(上院)についても「人民に無用有害」である賭して廃止された。その上で、5月19日、次のような共和政宣言を発した。
(引用)「イギリスの人民はここに共和国、自由国家となる。今後、共和国、自由国家は、この国の最高権威すなわち議会における人民の代表、ならびに人民の幸福のため議会の任命する官吏によって、王や貴族院なしに統治される。」<大野真弓責任編集『世界の歴史8』1961 p.159>
 具体的には、国政は一院制の議会(残部議会の議員によって構成された)と、41名からなる国務会議(大半が議員を兼ねた)が統治することになった。これによってイギリスは、国王の存在しない共和制国家、当寺イギリスでは共和政(コモンウェルス)と言われる国家となった。イギリスの歴史上、1660年に王政復古するまでのこの約10年間は、唯一の共和政の時期となった。

クロムウェルの独裁政治

水平派の弾圧  ピューリタン革命派この国王処刑をとともに反動の段階に入った。革命の主導権を握った独立派は、革命の成果の独占を図り、水平派との同盟を解消し、さらに徹底した社会改革を求める水平派に対する弾圧に転じた。給料の未払いを理由に従軍を拒否した水平派の反乱はただちに鎮圧された。指導者リルバーンらは逮捕された。リルバーンは後に政治から離れ、クウェーカー教徒として信仰の道に入る。
ディガーズ 水平派に替わって、農民の中に私有財産制を否定し、土地を共有として共同で耕作にあたろうというさらに社会改革の徹底をもとめる一派が現れた。ウィンスタンリーに指導されたこの人々は真正水平派とよばれ、土地を勝手に掘る人たちという意味で「ディガーズ」とも呼ばれた。この社会主義的な変革要求は保守化したジェントリたちに危険思想と拒絶され、クロムウェル政権によって弾圧された。
アイルランド征服  アイルランドではカトリック信徒が多く、革命の最中にプロテスタントが殺害されたことが伝えられると、1649年夏、クロムウェルはアイルランド征服を実行した。このとき遠征軍は宗教的な使命感から、カトリック教徒に対する残虐行為を重ね、「緑の島を荒れ地に変えた」といわれうほどの略奪を行った。「自由を求めて立ち上がった革命が、他民族の自由を容赦なく抑圧した。現代にいたるアイルランド問題の起源はここにある。」<今井宏『明治日本とイギリス革命』1974初版 ちくま学芸文庫 1994 再刊 p.19>
スコットランド征服 1650年、スコットランドはチャールズ1世の子のチャールズ2世を擁して南下の勢いを示したが、クロムウェルはスコットランド征服を行い、1651年9月のウースターの闘いでそれを破り、チャールズ2世はフランスに亡命、スコットランドはイングランドに吸収され、1654年4月には合邦が宣言された。こうしてクロムウェルの共和国政府は反革命の脅威から脱し、一応安定した権力を樹立した。それより前の1651年、クロムウェルの共和国政府は航海法を制定し、オランダと対抗するイギリス海上帝国建設の第一歩となった。
議会の解散 共和制の下でも「残部議会」は存続していたが、軍隊にとっては無用な存在と捉えられるようになり、1653年4月、その要求をいれたクロムウェルは軍隊を率いて議会に乗り込み、解散させた。こうして13年続いた長期議会は終わりを告げた。その後、教会から推薦を受けたものを議員とする「指名議会」が開かれたが、保守派の策謀によりその存在は有名無実と成り、共和政といいながら議会は形骸化し、つまり有名無実の共和政国家となってしまった。
クロムウェルの護国卿就任 1653年秋、軍隊幹部は成文憲法「統治章典」を作成、それに則ってクロムウェルは終身の護国卿の地位についた。護国卿政権は、議会は否定されていないとはいえ、軍隊の士官とピューリタンたちの独裁に他ならず、その基盤は著しく狭かった。全国を12の軍管区に分けて統治し王としたが、民衆は反発を強めていった。議会は混乱を怖れ、王政に復帰することを意図してクロムウェルに王位の提供を申し出たが、軍隊は強く反対したため、クロムウェルも断念せざるを得なかった。
王政復古 護国卿政権の前途には不安が増す一方、1658年9月、クロムウェルは死去、護国卿は息子のリチャードが継いだが、「無能な田舎紳士」にすぎず、議会と軍隊の対立を収拾することが出来ないまま無政府状態が続き、王政復古の声が強まる中、1660年5月、処刑されたチャールズ1世の息子チャールズ2世が帰国し、王政復古となった。オランダから帰国したチャールズ2世が5月25日にドーヴァに上陸すると、民衆は熱狂的な歓呼で国王を迎えた。 王政復古後、クロムウェルらの墓はあばかれ、30名の革命首謀者は死刑となった。<以上、浜林正夫『イギリス市民革命史』1971 未来社、今井宏『明治日本とイギリス革命』1974 ちくま学芸文庫 などから要約>
ホッブズ『リヴァイアサン』 ピューリタン革命は内乱、国王の処刑と突き進み、クロムウェルの独裁を迎えた。このような革命の激動の中で、国家のあり方への思索を深めたのがホッブズであった。ホッブズは王権神授説を否定し、国家権力の根源を人びとの社会契約にあり、契約によって統治権が国王に委任されているち考えた。1651年に出されたその著作『リヴァイアサン』は革命の混乱を克服する動きとしての王政復古を理論づける書となった。

参考 ピューリタン「革命」を巡る議論

 「ピューリタン革命」は、「チャールズ1世の専制政治に反抗した議会が武力で旧体制を変革、果てはクロムウェルを独裁者とする護民官制まで到達したが、その死後王政復古によって解体した。この動きを推し進めた中心勢力は中小の新興商工業者とその利害に結びつく貴族・ジェントリーや商人・金融業者だった」<大塚久雄『歴史と現代』1979 朝日選書 p.14>とされ、続く名誉革命を含めて「絶対主義」体制を倒した「市民革命」であり、イギリスを近代への移行させたと捉えられていた。これは戦前から経済史家として活躍した大塚久雄氏の影響下にある「大塚史学」(あるいは「講座派」)で定式化されたもので、一世を風靡し、現在も常識として定着していると言って良いだろう。しかし現代の歴史学会ではこの「大塚史学」と言われる近代化論はどうやら過去のものとされているようだ。それは教科書の記述に微妙に反映している。
教科書扱いの変化 山川出版社の教科書『詳説世界史』における「ピューリタン革命」の扱いには微妙な変化が見られる。村川健太郎・江上波夫・林健太郎らが名を連ねていた1990年代までは、「ピューリタン革命」という見出しをつけ、「……独立派の首領クロムウェルは武力で長老派を議会から追放し、王を裁判のすえ死刑に処して共和政を打ち立てた(1649年)。これがピューリタン革命である。」とすこぶる断定的であった。2001年から使用された版では同じ著者たちであるが、「これをピューリタン革命という。」とトーンダウンし、わざわざ注を設けて「絶対王政を倒し、資本主義経済の自由な発展を妨げてきた特権商人の独占権などを廃止した点で、ピューリタン革命は市民革命としての性格を持っていた。」と説明している。
 代表著作者が佐藤次高・木村靖二・岸本奈緒らに替わった2003年版から見出しは「イギリス革命」に変化し、「……国王は40年春に議会を招集した。これがイギリス革命(ピューリタン革命)の発端となった。」となり、名誉革命も含めたイギリス革命の注として「このような変革を「市民革命」といい、アメリカ独立革命やフランス革命とも共通する面を持っている。」としている。同じ著者の現行版(2013年版)では( )がはずれ、「この革命は、ピューリタンが大きな役割を果たしたことから、ピューリタン革命とも呼ばれる。」とされている。このように、1640~49年内乱から国王処刑、共和政、クロムウェルの独裁に至る出来事を、単純に「ピューリタン革命」と言うことが躊躇されるようになっている。
「革命」の否定説 それは肝心のイギリス本国で、「ピューリタン革命」と言っているのはごく一部の学者に過ぎず、一般的には通用していない、中学生でさえ「革命」とは教えられておらず、単に「内乱に過ぎない」と受け取られている、といったことが伝えられたことがきっかけで、日本の研究者の中にも「革命」としては不徹底であったという評価が強まったためであろう。1997年に出版された中央公論社の新版『世界の歴史17』では、
(引用)「ピューリタン革命」として知られるこの事件を、「革命」とよぶイギリス人は、じつは一部の歴史家だけである。この事件は、正しく言えば、スコットランドにはじまり、アイルランドに波及し、さらにイングランド自体で火を噴いた、国王に対する同時多発的な複合反乱と呼ぶべきものである。……もしこの複合反乱に「革命」とよべる要素があるとすれば、それは「イギリス」の存立を確実にし、イングランドの優位を不動のものにしたことである。<大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』1997 p.181>
と書かれている。さらに、名誉革命も含めた「イギリス革命」そのものも、「市民革命」からは程遠い内容であり、アメリカ独立革命・フランス革命とは同列に論じられないというのが、現在ではほぼ定説になっている。たしかにイギリスでは絶対王政は倒されたが共和政になったわけではなく、強固な立憲君主政を出現させたものであり、議会政治と言っても参政権は社会上層に限られていたし、この時期にブルジョワジーの自由な経済活動が確立したわけでもない。また結果としてピューリタンは信仰の自由を獲得したといっても社会的には審査法によって国教会体制が確立したに過ぎなかった。このようにイギリスの変革は「市民革命」とはいえず、先駆的であったがゆえに不完全なものであったというのがほぼ現在の評価と思われる。
「革命」とみる説 もっとも最近出版された、近藤和彦『イギリス史10講』2013(岩波新書)では、こういう意見もある。
(引用)ところで、1640~60年の政治過程の複合性/礫岩性に引きずられて、これを「革命」とよばない研究者もいるが、それは枝葉末節にとらわれた誤謬(ファラン)である。フランス革命が18世紀的に複合的だったように、イギリスの革命は17世紀的に複合的だった。三王国戦争(引用者注、イングランド・スコットランド・アイルランド間の戦争)のなかで王の家産国家は解体し、ピューリタン有産者の共和主義革命が実現し、それが60年に自滅したのである。<近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p.135>
 たしかに「不十分だった」とか「不完全であった」というのは、後のアメリカやフランスの革命に比較してのことであり、またアメリカやフランスの革命も「不十分で不完全」だったとも言えるのであって、17世紀という時期の条件のもとにおいては「革命」と捉えるのが正しいであろう。
フランス革命との違い なお、近藤氏は同書において、ピューリタン革命とフランス革命を比較し、次の三点の違いを指摘している。
  1. 国王裁判と処刑 イギリスでは1649年、国王裁判、処刑のあと、三月に王政・貴族院の廃止、五月に共和制が宣言された。フランスでは1792年夏に王権停止と共和制が宣言され、その翌年に元国王の裁判・処刑が続いた。英仏とも討論を重ね、しっかりと記録を残した点は共通だが、イギリスでは人的責任追及が先行し国政原理の転換が後を追った。
  2. 時代の違い 17世紀のピューリタン革命はいまだ宗教戦争の時代であり、18世紀の啓蒙の時代をはさんで、「第二のグローバル化」のなかでおきたフランス革命とは歴史的条件がまるで異なる。イギリス革命に人権宣言や社団の否定、山岳派のような革命指導集団の出現がなかったと言って不完全性をあげつらうのは時代錯誤である。
  3. 外国の干渉戦争の有無 フランス革命には列強の干渉戦争があり、それに対する祖国防衛があったからこそ革命政権とサンキュロットは急進化した。イギリス革命の場合はクロムウェルは共和制イギリスに対する国際干渉を心配していたが、ヨーロッパ諸国は三十年戦争直後でその余裕がなく、フランスはフロンドの乱の最中であったためブルボン朝そのものが危うかった。フランスとスペインは共にクロムウェル護国卿政権を承認している。
<近藤和彦『同上』 p.134-135
「大塚史学」とピューリタン革命論 いわゆる「大塚史学」については、戦前からの主著『欧州経済史』(岩波現代文庫)、『近代欧州経済史入門』(講談社学術文庫)を文庫本で読むことができるが、最もわかりやすいのは戦後の1979年に一般向けとして朝日新聞に連載した『歴史と現代』であろう。大塚史学のピューリタン革命観では、長期議会で「反独占」の施策がとられ自由主義経済への移行が実現したことが評価されている。独占とは、16世紀後半からイギリスの国王(エリザベス1世が代表的)が乱発した「独占特許」のことで、絶対王政の経済政策として採られ、その財源をもたらしていた。それに対して興隆し始めた中小産業資本家層が下院に拠って激しく反発し、ジェームズ1世の時の1623~24年には「独占大条令」が議会で成立して独占は原則禁止された。しかし様々な抜け道があってピューリタン革命期まで存続していたので、革命の過程で1641年の長期議会で独占に関わっている議員の追放と独占の禁止が議決された。この「反独占」の動きは王政復古で後退するが、「名誉革命」で再び実施され「営業の自由」「取引の自由」が他国に先駆けて確立した、とされている。<大塚久雄『歴史と現代』1979 朝日選書 p.14
 「大塚史学」が現在の歴史学会でどのように捉えられているかについては近藤和彦『文明の表象 英国』(1998 山川出版社)が触れている。<近藤和彦『文明の表象 英国』1998 山川出版社 p.55-57>