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保留地/インディアン居留地

アメリカ=インディアンが強制的に移住させられた居留地。アメリカ南西部の荒野に設けられている。

 アメリカ合衆国におけるインディアンの居住地として指定された地区で、ミシシッピ以西のオクラホマなどに約22万平方キロ。インディアン=リザヴェイション Indian Resarvation といわれる居留地は現在286あり、アリゾナやニューメキシコを除くと、あとは細かくひっそりとしている。そのほとんどは耕作不能な荒れ地である。保有地のインディアンに市民権が与えられるのは1924年のことであり、投票権に至っては第二次世界大戦後の1948年を待たなければならなかった。現在は連邦政府の内務省インディアン総務局の管理課にあるが、それぞれ一定の議会、自治政府の構成など、一定の自治が与えられている。
 なお、インディアン保留地はカナダにもあり、インディアン=リザーブと言われている。1968年にはエドモントンの南にあるインディアン保留地から、スモール・ボーイと呼ばれる老酋長が、白人のやってくる前のインディアンの生活に戻るべきだとして、約140人ほどを引き連れてクーテネーの山林に入ってしまうと言うニュースがあった。「飲む、盗む、喧嘩する、殺す、の白人文明はもうたくさんだ。子共達をあんな大人には育てたくない」とスモール・ボーイは言ったという。<藤永茂『アメリカ・インディアン秘史』1974 朝日選書 p.242>

アメリカ政府のインディアン政策

 1830年のインディアン強制移住法でミシシッピ以東のインディアンを、ミシシッピ以西に強制的に移住させることを決定し、さらに1834年には居留地を設けてそこに移住させる政策をとった。インディアンの抵抗が続いたが、最後に残ったチェロキーも1838~39年、オクラホマの居留地に集団移住、その移動は涙の旅路といわれた。
 1849年にはインディアン事務局が陸軍省から国土省に移され、表面的には討伐を主とする政策から保護政策へと転換した。しかし実際には、連邦政府は保留地を通過する鉄道を許可したり、白人の放牧や木材の伐採を許すという矛盾したことをおこなっている。また、保留地内で金や銀の鉱脈が発見されると、白人がその中に無断で入り込んでいった。
 1860年代に白人とインディアンの武力闘争が頂点に達すると、連邦政府はインディアン対策の抜本的転換を迫られた。そこで武力制圧と並行して、土地私有の概念を持たないインディアンに対して自営地を与え、狩猟生活から農耕生活に転換させ、自営農化するため、1887年に対インディアン土地附与法を制定した。これによってインディアンの各家族の長に対しては160エーカー、18歳以上の独身者には80エーカーの土地を与え、その土地の譲渡を禁止した。同時に、将来の合衆国市民権の賦与も約束された。
 インディアンに対する義務教育も1891年(ウーンデットニーの虐殺の翌年)に実施され、約束された市民権は1924年に賦与された。1934年にはインディアン再組織法が制定されて、一般のアメリカ人の自治町村と同じ自治権が認められ、経済的発展のために政府貸与金が支給された。<中屋健一『世界の歴史』11 中央公論社旧版 p.322-325>

ナバホに見るインディアン居留地

 現代のナバホ族居留地のナバホ族立大学に留学してナバホ語を学んだ猪熊博行氏の『風の民 ―ナバホ・インディアンの世界』には、ナバホの居留地での人々の生活とさまざまな問題が体験的に描かれている。インディアン居留地の代表例として、ナバホ・ネーションの事例を同書からいくつか紹介しよう。<猪熊博行『風の民―ナバホ・インディアンの世界』2003 社会評論社>
ナバホ族立大学 1960~70年代の黒人の公民権運動は、インディアンにも強い影響を与え、AIM(アメリカン・インディアン・ムーブメント)による活発な運動が展開された。その成果として、インディアン自身の中に自分たちの言語や芸術などの文化伝統を学ぶ、高等教育機関の必要が自覚されるようになり、インディアン公民権法が成立した1968年の翌年、ナバホ・コミュニティー・カレッジが設立された。近年、アリゾナ州立大学のバックアップをうけて一部が四年制大学となり、名称もディッネ(Diné)・カレッジとなった。ディッネとはナバホ語で Our Peaple の意味。現在、約2千人の生徒が、ナバホ語や歴史、文化、社会などを学んでいる。現在他の部族にも族立大学は広がり、全米で33校になっている。<p.19>
ナバホ・ネーション インディアン居留地で最大であるナバホ居留地は、アリゾナ州・ニューメキシコ州・コロラド州にまたがる8万平方km(北海道よりやや狭い)に約20万人のナバホ人が居住している。居留地の部族は政府をもち、警察も裁判も行う(重要犯罪は連邦裁判所)。居留地はインディアンが自由に使えるのが建前であるが、経済的に自立できない居留地では連邦政府からの資金援助を受けており、その分、自治権も制約される。 現在はインディアンは居留地以外のどこに住んでも良く、ナバホも約10万は居留地以外で暮らしている。土地は部族の公有地であり住民税は無い。ここには正当な理由が無ければ白人は住むことができない。先述のナバホ族立大学も居留地自治政府が運営している。<p.20-23>
居留地への移動 南北戦争の時にまだ州でなかったニューメキシコに入った北軍のカールトンは、反抗的なインディアンを徹底的に懲らしめようとインディアンに詳しいキット=カーソンという男を呼んだ。キット=カースンは軍隊を与えられ、アパッチやナバホを次々と攻撃して追い詰め、1863年にサムナー砦に強制的に移動させた。数百キロの道のりを移動して、約1万1千のナバホなどが砦に収容されたが、この移動とそこでの生活は悲惨なもので、4年間におよそ三千人が死亡した。 <p.49-52>
フーヴァーダムとナバホ居留地 1928年、商務長官フーヴァーは、氾濫防止とロスアンゼルスへの電力供給をねらい、アリゾナとネバダ州境を流れるコロラド川に巨大ダムを計画、29年に大統領になり、31年に着工、その名を冠してフーヴァーダムといわれた。F=ローズヴェルト大統領のニューディール政策にも受けつがれた。ところがある問題が生じた。それは上流から流れてくる土砂がせっかくのダムを埋めてしまうことが予測されたことだ。技術者たちは、コロラド川上流のナバホ居留地で、羊の放牧が増加したため、荒れ地となって土砂が侵食され、下流に流されてくると考えた。下流のネバダやカリフォルニアの住民はナバホ居留地の羊の飼育をやめさせるよう政府に圧力をかけ、その結果、アメリカ政府の命令でナバホの羊や山羊は殺されることとなった。ナバホの羊と山羊は保障もなく約57%が殺戮され、仕事を失ったナバホは深い怨みをもちながら、失業保険で暮らさざるを得なくなった。ナバホの苦しみをよそに、ラスベガスの不夜城を輝かせる電力はフーヴァーダムによって供給されつづけているが、まだダムが土砂でいっぱいになったという話は聞かない。<p.53-56>
ナバホ語 ナバホ語は他のインディアン部族語と同じく、忘れられようとしていたが、現在では積極的にその使用が奨励され、言語としての維持が図られている。1990年には先住米語法が成立し、先住民の言語を積極的に残そうと試みられ、族立大学でもナバホ語教育が行われている。しかし、日常語としては消滅の危機が続いている。
 以上の他、ナバホの人々の豊かな文化や伝統、そして現在どのような問題を抱えているかについては、ぜひ『風の民』をごらん下さい。
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ノートの参照
第12章3節 ア.領土の拡大
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猪熊博行
『風の民―ナバホ・インディアンの世界』
2003 社会評論社