印刷 | 通常画面に戻る |

インディアン強制移住法

1830年、アメリカのジャクソン大統領の時に制定された、ミシシッピ東岸のインディアンを中西部に強制移住させる法律。

 1830年、ジャクソン大統領の時に制定された法律で、アメリカ大陸の先住民であるインディアンを、ミシシッピー川以西の辺境地帯の保留地に移住させることを定めたもの。これによってインディアンのオクラホマ州を中心とした保留地への移住が強制的、合法的にすすめられた。<以下、藤永茂『アメリカ・インディアン秘史』1974 朝日選書などによる>

ジャクソン大統領の登場

 ミシシッピ以東の地(現在のジョージア州北西部、テネシー州、アラバマ州北部)は肥沃で、東海岸の白人がアパラチア山脈を越えて入植を進めていた。合衆国政府はたびたびインディアンと条約を結び、インディアンの居住権を保証したが、現実には守られなかった。また、インディアンに「つけ」で生活物資を買わせ、費用を払えないとその代わりに土地を取り上げるという形で実質的にインディアンを追い立てていった。しかし、インディアンの抵抗も根強く、またチェロキーのように文字を造ったり、自立の動きが出てきはじめ、政治的にも自治や独立国家の樹立さえ要求するようになってきた。
 次第にアメリカ合衆国政府内にミシシッピ以東のインディアンを強制的に西部に移住させて問題を解決しようという考えが台頭し、ついに1812年の米英戦争(1812年戦争)でイギリス軍を破った英雄で、またクリーク=インディアンの掃討戦でも戦果を挙げていたジャクソンが1828年に大統領に就任して、その案が具体化した。インディアン強制移住法は1830年5月23日、下院で賛成102、反対97で成立した。それによって、ジャクソン大統領は、ミシシッピ川以東に住む、チョクトウ、クリーク、チカソー、セミノール、チェロキー(いわゆる開化5部族)、約6万人のインディアンを、必要とあらば強制手段によってミシシッピ以西の地に移住させる権限が与えられた。

チェロキー=インディアンの抵抗

 インディアン強制移住法に基づき、ジャクソン大統領は国防長官らを派遣して、部族ごとに交渉を開始、移住を強制した。まずチョクトウが同意し、続いてクリーク、セミノール、チカソーの各インディアンが相次いで屈服し、31年暮れから移住が始まった。厳しい冬の集団移住は悲惨の一語につき、食糧も不足する中、氷の上を素足をひきずって幽鬼のような長い列が続いた。
 チェロキー達はその有様を知って、強く移住に抵抗すりょうになった。チェロキーは議会を有して法律を制定し、独立国家としての体裁をもつチェロキー=ネーションを成立させており、その大統領(!)に選ばれていた指導者ジョン=ロスはたびたびワシントンに赴いてアメリカ政府と交渉したり、裁判に訴えた。アメリカ世論の中にもインディアンに同情的なものもあったが、1832年の大統領選挙でジャクソンが再選され、インディアンの希望は潰えた。ジャクソン大統領の姿勢は、合衆国の内部に別個のチェロキー=ネーションが存在することは許せないという政治的な面が強くなった。特にチョロキー=ネーションを抱えるジョージア州は強くその排除を連邦政府に迫った。そのような中で、チェロキー=ネーションの中に移住を承諾するかわりに良い条件を引き出そうという条件闘争派が生まれ、分裂した。条件闘争派はジョン=ロスが捕らえられている間に連邦政府と条約を結び、1837年元旦を期して第一陣が移住地目指して出発した。しかしこのグループはインディアンでも豊かな層で、大部分のインディアンは出獄したジョン=ロスに従って、チェロキー=ネーションを離れようとしなかっt。1836年に大統領となったヴァン=ピューレンはジャクソンの子分だったのでチェロキーに移住を強く迫り、将軍スコットを派遣した。スコットは軍隊でチェロキーをいったん強制的に収容所に押し込んだ。収容所の惨状を見たジョン=ロスも、移住費用を政府が持つことでついに移住に同意した。

Episode チェロキーランド宝くじ

 ジョージア州政府はチェロキー=インディアンを追い出すための一計を案じた。それは白人向けに出て行く予定のチェロキー=インディアンの土地と家屋を景品にしたくじを売り出したのである。当選した白人は、インディアンが出て行くのを待たずにその土地に出かけていって追い立てる。こういういやがらせでインディアンを追い出そうと目論んだのだった。ただし、インディアンの有力者で移住に協力を申し出ているものの土地と家屋は巧妙にあたらないように仕組まれていた。<藤永茂『アメリカ・インディアン秘史』1974 朝日選書 p.189>

涙の旅路

1838~39年、チェロキー=インディアンがミシシッピ東岸を排除され、西部に集団移住を強制されオクラホマの居留地に移住した。

涙の旅路
涙のふみわけ道 藤永茂『アメリカ・インディアン秘史』p.197
 ジャクソン大統領の1830年に出されたインディアン強制移住法によって、ミシシッピ以東のインディアンの部族の多くはミシシッピ以西への移住を強いられていたが、チェロキー=インディアンは最後まで移住を拒み、独自の社会を維持していた。しかし、1836年に大統領となったヴァン=ピューレンはチェロキーに軍隊を派遣し移住を強く迫った。チェロキー側にも妥協を望む声も起こり、ついに移住を決定した。
 チェロキー=インディアンの移住は1838年9月から39年3月にかけて、アメリカ東南部のジョージアから、ミシシッピを越え、西部のオクラホマまでの1300キロの距離を、1万3千人を千人ずつの13集団に分けて行われた。幌馬車が1集団あたり50台、一人に毛布1枚が支給され、途中の食糧調達用に一人あたり66ドルが当てられた。しかし、途中で彼等に食料を売りつけた白人の業者が不当に値段を上げたので、たちまち底をつき、インディアンは寒さと飢えでつぎつぎと病に罹った。80日間という移動期間が決められていたので、病人が出てもとどまることができず、うち捨てられた。この悲惨な旅路で、約4分の1が命を落としたという。ジョン=ロスの妻のクオティーも肺炎で死んだ。
 チェロキー=インディアンが泣きながらたどった西への1300キロの道程を「涙の旅路」 The Trail of Tears と呼んだが、原語では Nuna-da-ut-sun'y で「そこで人びとが泣いたふみわけ道」の意味である。旅路と言っても道があったわけではなく、原野を踏み分けていったので、「涙のふみわけ道」ともいう。1839年3月、彼等は目的地オクラホマに着いた。チョクトウ=インディアンの言葉でオクラは「人々」を、ホマは「赤い」を意味する、平原インディアンが生活している場所であった。<藤永茂『アメリカ・インディアン秘史』1974 朝日選書 p.204-209>  → インディアン居留地
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第12章3節 ア.領土の拡大
書籍案内

藤永茂
『アメリカ・インディアン秘史』
1974 朝日選書