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インディアン

北米大陸で広く部族社会を形成していた先住民族。ラテンアメリカ地域でのインディオに同じ。北米大陸に入植したイギリス、フランスなどの白人に土地を奪われ、さらにアメリカ合衆国独立後はその西漸運動によって圧迫され、居留地に押し込まれた。

 南北アメリカ大陸には、ベーリング海峡が地続きであった1万4千年から1万3千年前ごろに旧大陸から新人ホモ=サピエンス)が到達し、各地に分散、気候や地形の変化に応じて地域的変化を遂げていった。
 コロンブスの西インド諸島到達以来、新大陸の先住民はインディオといわれるようになったが、その英語呼称がインディアンであり、一般には北米大陸の先住民を指すことが多い。彼らは主として遊牧や狩猟で食糧を確保し、部族社会を形成していたが、異種の文明である白人を受け入れたインディアンは、多くは友好的で、白人を交易の相手と考えた。しかし、イギリス入植者の数が急増し、土地や資源が次々と奪われていく中で、次第に激しく抵抗するようになった。白人の入植地を襲撃し、その報復として白人によるインディアンの虐殺が繰り返され、インディアンは次第に西に追いやられていくこととなった。  → アメリカの独立とインディアン  西漸運動とインディアン
注意 インディアンという用語 インディアンという用語はコロンブスの誤用をそのまま継承しているので、ネイヴネイティヴ=アメリカンと言い直すべきであると当サイトで説明していましたが、これは誤っているというご指摘がありました。検討した結果、当方の誤解であったと判断し、次のように改めます。
<修正版>インディアンあるいはインディオという用語はコロンブスの誤用が定着したともいえるが、コロンブスが使った「インディアス」という言葉の概念は、現在のインドだけを指すのではなく、その東に位置するユーラシア東方世界すべてを含む概念であったので、新大陸と認識されるまではその地の住民をインディオ(インディアン)と呼ぶことは、あながち誤用とは言えない。現在のインド(狭義のインド)を含む地域を東インド、新大陸とその周辺が西インドとされ、東インド会社や西インド会社、西インド諸島などの概念・用語も定着した。
 しかし近代以降、「アメリカ」国家が成立すると、その中の「インド人」という云い方に違和感が生じた。特に第二次世界大戦後の公民権運動の中で、アジアン・アメリカン、アフリカン・アメリカンなどとともに、「ネイティブ=アメリカン」と呼ぶべきだという議論が起こった。ところが当のインディアンの人々は「ネイティブ=アメリカン」といわれることに反発している。「ネイティブ=アメリカン」とは、エスキモーやハワイの先住民も含む概念であり、インディアンの人々は自分たちの民族名をむしろ「インディアン」である、あるいはより正確には、ナバホやアパッチなどを民族名とすべきであると主張している。それは当然の主張であり、インディアンを「ネイティブ=アメリカン」といいかえるべきではない。
 アメリカでは現在、たしかに「ネイティブ=アメリカン」という云い方をされることが多いが、むしろその言い換えに「インディアン」の人々は侮蔑感を感じている。その観点からすると「インディアン」という民族名は、大きなくくりとしてはそのままにすべきであり、「インド人」という意味と区別する場合は「アメリカン=インディアン」とすることが正しい考えられる。
 以上のご指摘を頂いたのは猪熊博行さんからです。猪熊さんは退職後4年間ナバホ族の運営する大学 Dine’ Collage で Navajo and Indian studies を学んだ方です。その著書では、自らが習得したナバホの織物や銀細工の紹介を通じて、インディアンの豊かな文化とともに、その現状のさまざまな問題点を述べておられます。インディアンの置かれた現状を知るには最適な書物だと感じました。ご指摘とともに情報提供、ありがとうございました。<猪熊博行『風の民―ナバホ・インディアンの世界』2003 社会評論社> → インディアン問題(現在)

コロンブス以前のインディアン

(引用)コロンブス以前、南北アメリカ大陸には、7500万人のインディアンが暮らしていた。彼らは何百もの異なった部族文化と、約2000もの独自の言語をもっていた。多くの部族は狩りをし、食物を集めながら移動する遊牧民だった。なかにはすぐれた農耕民として、共同体をつくって定住している者もいた。北東部の部族でもっとも強力だったイロクォイ族のあいだでは、土地は個人のものではなく、共同体全体のものとされた。イロクォイ族の人びとは協力して農耕や狩猟を行い、食べ物も分かち合っていた。彼らの社会では女性の地位が高く、尊重されていた。女もさまざまな権限をもち、子どもたちは自立するように育てられた。そしてイロクォイ族と同じように暮らしていた部族は、ほかにもたくさんあったのである。つまり、コロンブスやあとに続くヨーロッパ人たちは、無人の荒野へきたのではなかった。場所によっては、ヨーロッパと同じくらい人口密度の高い世界へやって来たのだ。そのうえインディアンは、独自の歴史、おきて、詩をもち、ヨーロッパ人よりずっと平等に暮らしていた。はたして、〝進歩〟とは、彼らの社会を滅ぼす理由たり得たのだろうか?<ハワード=ジン/鳥見真生訳『学校で教えてくれない本当のアメリカの歴史』上 2009 あすなろ書房 p.25>
 コロンブスが上陸したサン=サルバドル島にはタイノー族やアラワク族などのインディアンが数十万も居住していたが、わずか10年で彼等は滅ぼされてしまった。<ディー・ブラウン/鈴木主税訳『わが魂を聖地に埋めよ』上 1970 草思社 p.10>

白人入植者との戦い

 メキシコより北の北米大陸に白人が入植した当初は原住民のインディアンは約1000万人と推定されている。東部に入植したイギリス人はヴァージニアでのタバコ栽培をインディアンから学ぶなど、当初は友好的であったが、プランテーションを開拓していくうちに次第に利害が対立するようになった。また当初はインディアンを労働力としようとしたが、戦闘的、反抗的な姿勢を強めたためそれをあきらめ、本国から渡ってきた年期奉公人とアフリカからもたらされる黒人奴隷を労働力とするようになった。イギリス人を中心とした入植者は、プランテーション拡大によって抵抗するインディアンを実力で排除し、東海岸に13植民地を建設した。東部の人口が増えると、アパラチア山脈を越えて西部に押し出されるようになった開拓者は、そこでもインディアンの土地を奪い取っていったので、インディアンとの衝突が各地で起こるようになった。植民地当局は当初は西部入植を制限していたが、1676年にヴァージニアベーコンの反乱が起こった。これは、植民地総督の統制に不満をもっていた開拓農民が武装民兵をつくって反乱し、貧しい白人年期奉公人と黒人奴隷を巻き込んで、インディアン集落を襲撃した事件である。

Episode ウィスキーと土地を交換・・・

 インディアンは土地を所有することを知らなかった。土地は空気や水と同じように、部族のすべての人の物であった。白人入植者は「契約」という概念を知らず、文字も知らないインディアンに契約書に×印をサインの代わりに書かせて土地を奪っていった。
(引用)銃、ナイフ、鉄のやかん、織物類、……白人のもたらした数々のものは、インディアンの生活をより容易にした。インディアン達は、それらの品々をビーバーをはじめとする毛皮あるいは土地を代償として手に入れた。しかし、彼等が支払った真の代償は、痛ましい自己喪失ということであった。とりわけ、白人の毛皮取引商人が持ち込んだウイスキーの類は、インディアンにとって破滅への呪いの水であった。わずかばかりのウイスキーを求めて、ただにも等しい値段でビーバーの毛皮を、土地を、白人達に投げ与えた。インディアンらしい素朴な生活の知恵とリズムはまったく乱され、白人への依存は抜きがたくなっていくばかりだった。<藤永茂『アメリカ・インディアン秘史』1974 朝日選書 p.90>

アメリカの独立とインディアン

フレンチ=インディアン戦争

 イギリス人のほかに、フランス人が北のカナダと南のミシシッピ地方に進出してきた。イギリス人はインディアンの土地を力ずくで奪おうとしたのに対して、フランス人はインディアンとの毛皮などの取引を主としていたので、インディアン部族の多くはフランス人に好意を寄せた。そこで1754年にイギリスとフランスが衝突すると、インディアンはフランスと同盟してイギリスと戦った。そこでこの戦争はイギリス側ではフレンチ=インディアン戦争と呼んでいる。しかしこの戦争ではイギリスが勝利し、フランスはほぼ北米大陸から撤退した。

アメリカ独立戦争とインディアン

 18世紀後半、アメリカ13植民地では急速にイギリスからの独立を求める声が強くなった。それに対してイギリスは1763年、国王ジョージ3世の名で国王の宣言という植民地政策を示したが、それはアレガニー山脈からミシシッピ川までの地域を国王直轄のインディアン保留地とし、植民地人の自由な開拓を許さないこととした。さらに、1773年、ボストン茶会事件が起きると、イギリスは強圧的諸条令の中で「国王の宣言」をさらに強化して、入植者の進出を制限した。これを歓迎したインディアン諸部族は、1775年にアメリカ独立戦争が始まるとイギリスを支援し、アメリカ独立軍と戦った。植民地の白人が独立すればさらにインディアンの土地を奪いにくることを恐れたからであったが、結局アメリカ合衆国が勝利し、1783年のパリ条約でミシシッピ以東のルイジアナがアメリカ領に編入され、彼らの危惧は現実のものとなり、〝アメリカ人〟の手によるインディアンの土地の略奪、殺戮が始まった。
 極論すれば、アメリカ合衆国の独立は〝インディアンの土地を略奪する自由〟をイギリスから獲得するための戦いであった。従ってそのの独立宣言、さらにアメリカ合衆国憲法にインディアンの存在を認める発想はそもそもなかったのである。

アメリカによるインディアンの土地収奪

 19世紀にはいると、1803年のジェファソン大統領によるルイジアナ買収などを契機に、アメリカ合衆国の支配が大陸の中西部に及び、インディアンは強く圧迫されることとなった。1812年から始まるアメリカ=イギリス戦争では、インディアンの多くがイギリスに協力したことを理由に、アメリカ軍によるインディアン掃討作戦が展開された。

インディアンの抵抗

 アメリカ合衆国軍の攻撃に立ち向かったのがインディアンの英雄テクムセだった。彼はショーニー=インディアンの出で、それまでも合衆国の騎兵隊と戦ってきたが、インディアンの命と土地を守るには、部族を超えた団結が必要であることを理解していた。また当面の敵のアメリカと戦うため、イギリス軍に加わり、1812年のデトロイトの戦いではアメリカ軍に勝利をおさめ、その名声は白人にも広まった。しかしかんじ んのインディアンは、開化5部族と言われたクリーク、チェロキー、チカソー、チョクトウ、セミノールのように、キリスト教や学校などの白人文化を受け容れ、アメリカ合衆国に同化していこうという現実派も多くなっており、テクムセの戦いもアメリカ=イギリス戦争がアメリカの勝利で終わると共に衰えた。
チェロキー文字表
チェロキー文字表 藤永茂『アメリカ・インディアン秘史』p.143

Episode チェロキー文字 セコイアの奇跡

 若いチェロキー=インディアン、セコイアは部族の人びとが白人に追い出されながら、抵抗をあきらめその文化を受け容れようとしていることにいらだった。彼は自分たちが文字を持たないことが白人の優位を許している一因だと考え、自分たちの文字を創ろう!と決意した。彼は一念発起するとさまざまな試行錯誤を重ねながら、独力で12年かかり、1821年についにチェロキー語を表す文字表をつくりあげた。セコイアは6歳の娘アヨカに文字を教え、アヨカは自由にかけるようになった。はじめはセコイアを狂人扱いしていたチェロキーもその素晴らしさを知り、進んで使うようになり、まわりのクリークやチョクトウにも広がっていった。わずか数年で、チェロキー文字で書かれた本の図書館ができ、新聞が発行されるまでになった。しかし、チェロキー=インディアンを待ち受けた歴史は過酷であり、インディアン強制移住法によって土地を奪われ、チェロキー=ネーションが崩壊すると共に用いられなくなった。今、セコイアの名は、ヨセミテ国立公園などに見られる有名な巨木の名前になって残っている。

西漸運動とインディアン

インディアン強制移住法

 19世紀を通じてアメリカ合衆国の白人の西部開拓(西漸運動)が進み、インディアンはしだいに追いつめられた。それでもアパラティア山脈からミシシッピ川東岸にかけての肥沃な土地にはインディアンが居住し、中にはチェロキー=インディアンのように文字を持ち、国家機構的な自治を行っているものもあった。その土地の奪取をはかったジャクソン大統領は、1830年にインディアン強制移住法を制定して、彼等をミシシッピ以西の荒れ地に移住させる事を計画し、軍隊を派遣して圧力を加え殉じ移動させていった。チェロキー=インディアンは最後まで抵抗していたが、ついに屈服し、1838年から9年にかけて移住した。移住は困難を極め、13000人のインディアンの4人に一人が途中で倒れるという「涙の旅路」と言われる惨状を呈した。こうしてインディアンは保留地といわれる地域に隔離されることとなった。

セミノール戦争

 インディアン強制移住法が出され、中部でクリーク=インディアンやチェロキー=インディアンが抵抗を続けていたのと同じ時期に、フロリダ半島でもオセオーラというインディアンに指導されたインディアンと合衆国軍のセミノール戦争という激しい戦争が続いていた。このセミノール戦争も1840年までにセミノールの敗北に終わった。その後も各地でインディアンとアメリカの騎兵隊の衝突が続き、部隊は西部の大草原に移っていった。スー族やアパッチ族、シャイアン族、コマンチ族などの平原インディアンと騎兵隊が戦ったのもこの時期である。平原インディアンの中には、有名なアパッチ族のジェロニモのように、有能な指導者に率いられてアメリカの騎兵隊と戦った。

「良いインディアンは死んだインディアン」

 アメリカ政府は平原インディアンに対しても広範な居留地を認めていたが、南北戦争開始と共に、インディアン保護策は無視されてしまう。おまけに居留地内に金鉱などの資源(後には石油資源)が見つかると、白人が殺到するようになり、また鉄道敷設を口実に取り上げられるなど、居留地は縮小していった。これらの状況に対して、インディアンの部族の中には武器を取って戦う者が現れたのは当然のことだった。
 白人に対するインディアンの襲撃がふえると、アメリカ政府は大規模な騎兵隊を派遣してその討伐にあたり、しばしば苦戦した。有名なカスター将軍と共にシャイアン族討伐軍を率いたシェリダン将軍は、投降したインディアンが自分の名前をおぼつかない英語で「トゥサイ、良いインディアン」と名乗ったとき、「私の知っているインディアンは、必ず死んでいた」と言った。この言葉は簡潔な「良いインディアンは死んでるインディアンだけだ」という警句となってアメリカ中で語られるようになった。<ディー・ブラウン/鈴木主税訳『わが魂を聖地に埋めよ』上 1970 草思社 p.192>

バッファローを巡る争い

 平原インディアンはバッファロー狩りで生活していた。彼らはスペイン人から手に入れた小さな馬(馬はもともと新大陸にはいなかった)に乗り、バッファローを狩猟し、肉を食用とし、その皮は衣服やティピーというテントの材料とされていた。このようにバッファローは平原インディアンの生活基盤であったが、そこに入り込んできた白人は大陸横断鉄道に従事する人びとの食用にバッファロー狩りをはじめた。1865年には1500万頭はいたと推定されるが、1880年代には数千頭にへってしまった。生活の基盤を奪われた平原インディアンは、白人を襲撃するようになり、アメリカ政府は騎兵隊を派遣してインディアンの殲滅をはかった。これが19世紀後半の新たなインディアン戦争であった。「西部劇」は無知で狂暴、野蛮なインディアンしか描かないが、それは全く誤っており、誇張されたものに過ぎない。

Episode カスター将軍の敗北

 インディアン戦争ではインディアンがたびたびアメリカの騎兵隊を破って勝利している。最も有名なのは1876年6月、スー=インディアンがカスター将軍の率いるアメリカ第七騎兵連隊を全滅させた戦いである。これはスー族のバッファロー猟場であったブラック・ヒルズに金鉱が発見されたため、白人が侵入し、たびたび衝突して白人側に大きな被害が出ていたので、アメリカ政府がスー族の排除をはかろうとして起こった。スー族の酋長シッティング=ブルはシャイアン族、アラパホ族と連合して大部隊を組織し、訓練を施してまちうけていた。それとは知らぬカスターはインディアンの領域深く入り込んで、シッティング=ブルの指揮するインディアンに包囲され、ついに全滅してしまった。この敗戦はアメリカ政府に対インディアン作戦を本格化させることとなった。その後、アリゾナのアパッチ族がジェロニモに率いられてアメリカ軍と戦ったが、それが互角に戦った最後であった。<ディー・ブラウン/鈴木主税訳『わが魂を聖地に埋めよ』下 1970 草思社 p.63-107>
 スー=インディアンの声に耳を傾けてみよう。
(引用)わが友よ、長年のあいだわれわれはこの土地に住んでいた。グレート・ファザー(アメリカ大統領グラントのこと)の土地へ出かけていって、面倒を起こしたことなど一度もなかった。われわれの土地にやってきて面倒を起こし、いろいろ悪いことをやったげく、仲間に悪事を教えたのは、グレート・ファザーの部下なのだ。……あなたがたの仲間が大きな海を越えてこの国にやってくる以前には、そしてその時から現在までに、あなたがたが買いたいと申し出た土地で、これほど豊かなところはかつてなかった。わが友よ、あなたがたが買おうとするこの土地は、われわれの持っている最上の土地なのだ……この土地は私のものだ。私はそこで育った。私の祖先はここで暮らし、ここで死んだ。だから私もここにとどまりたい。<ディー・ブラウン/鈴木主税訳『わが魂を聖地に埋めよ』下 1970 草思社 p.66>

インディアンの抵抗の終わり

 インディアンによる組織的な抵抗は、1890年のサウス・ダコタでスー・インディアンが300人以上が殺されたウーンデットニーの虐殺で終わりを告げた。その時点でのインディアン人口は、約25万に減少したと言われ、それぞれ全米各地の設けられた居留地で生活している。インディアンに市民権が与えられるのは1924年のことであり、さらに投票権は第二次世界大戦後の1948年にようやく認められた。

インディアン問題(現代)

アメリカ合衆国憲法とインディアン

 アメリカ合衆国憲法の第1条第2節3項では「アメリカインディアンは課税対象とせず、アメリカの公式人口統計には含めない」とされている。つまり、インディアンはアメリカ国家とは別であり、アメリカ政府と条約を結ぶ「外国」として扱われてきた。そしてアメリカが西に領土を広げる過程で、おびただしい数のインディアンとの条約が締結された。1871年にはアメリカ議会は「独立国家として、アメリカ合衆国と条約を締結するインディアンの国はもう存在しない」と宣言した。そして1924年のインディアン市民法で、「インディアンをアメリカ国民とみなして課税対象とする」とした。しかし、憲法の修正は行われていない。<猪熊博行『風の民―ナバホ・インディアンの世界』2003 社会評論社 p.196>

F=ローズヴェルト大統領の改革

 フランクリン=ローズヴェルト大統領はインディアン管理局の長官にインディアンに同情的なコリアーを起用し、居留地内にインディアン自身の初等教育学校を作ることや、自治政府を作り、必要に応じて部族憲法を制定するなどの法案を用意した。各インディアン部族に諮られた結果、全部族の4分の3近くが賛同した。しかし最大部族のナバホなどのいくつかの部族は、この法案が家畜の数量管理権はアメリカ政府にあるという一項があったため承認しなかった。こうして部族憲法を持ち、議会と自治政府をもつ部族も増えているがすべての部族がそうなっているわけでは無い。また自治政府と言っても財政的には連邦政府の巨額の援助を受けており、経済的に自立することはできていない。なおインディアンのアメリカ合衆国における選挙権は第二次世界大戦後の1948年にようやく認められた。<同上 p.234>

Episode 太平洋戦争でのナバホ

 第二次世界大戦で、アメリカ軍は暗号通信にインディアンの言語を使用した。太平洋戦線では、日本軍による暗号傍受を避けるため、ナバホ族が通信兵(コードトーカー)として訓練され、ナバホ語で通信を行った。ナバホ語は文法も語法も音もまったく西欧語と違うので、日本軍の暗号解読班も解読できなかったという。2002年に公開されたアメリカ映画『ウインドトーカース』は、太平洋戦争の激戦地サイパンで活躍した二人のナバホ族インディアンが出てくる。彼らは最前線に投入され、砲兵や海上の戦艦に砲撃目標地点を知らせる役目を担った。彼らは大事な通信兵なのでその護衛がついているわけだが、護衛兵は通信兵が敵の捕虜になりそうな時は、躊躇せず殺せと命令を受けている。映画はニコラス=ケイジ演じるる護衛兵の苦悩と、差別の目で見られながらアメリカ兵として戦うインディアン兵士の葛藤が描かれている。サイパンの戦場での日本兵との血なまぐさい殺し合いの場面は直視が耐え難いが、アメリカにおけるインディアンとその言語の存在に焦点を当てた映画としては興味深い。

公民権運動とインディアン運動

 1960~70年代、公民権運動が盛り上がる中、インディアンも自らの権利を求めて立ち上がった。アメリカン=インディアン=ムーブメント(AIM)と呼ばれたその運動は、キング牧師らの黒人運動よりラジカルな面があり、インディアンの伝統文化の復活とともに漁業権、狩猟犬、領土の回復、居留地での自治権を訴えた。またたびたび直接行動に訴え、世界にアピールした。その例として、1969年にインディアン青年がサンフランシスコ沖のアルカトラス島(かつて刑務所があったところ)を19ヶ月にわたって占拠した事件、1973年にAIMがかつてのウーンデットニーの虐殺のあったところを武装占拠してFBIや州警察、連邦軍と銃撃戦のうえ鎮圧された事件などがおこっている。<同上 p.17>
 また、AIMは、コロンブス=デーやメイフラワー記念日などにも抗議のボイコットを繰り広げた。80年代からは暴力的な雲郷は少なくなり、考古学資料として発掘されたインディアン人骨の返還運動や、インディアン居留地近くでの地下核実験への抗議運動など、幅広い運動になっている。またAIM運動の成果として、1968年には「インディアン公民権法」が成立し、平等な公民権が認められた。それによって、インディアンが自らの文化伝統の保護育成のため居留地における部族語の教育、ナバホ族立大学のような高等教育機関の発足などが実現している。<同上 p.18>

インディアン居留地の抱える問題

 インディアンが部族語を教育することは認められたが、現実には居留地外では通用しないので、英語しか話せないインディアンが多くなっている。インディアン独自の部族語は、最大部族のナバホ語をはじめ、絶滅の危機にある。社会問題としては、インディアンの飲酒の蔓延、青年の自殺率が高いことなどが深刻であり、その背景には生活の貧しさがある。 → インディアン居留地
 インディアンと白人の価値観の違いは「伝統的信仰」対「キリスト教」、「人と人とのつながり」対「個人主義」、「大地とともに」対「利益を求めて移動」という図式で厳然として存在している。<同上 p.196>
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ノートの参照
9章2節 イ.アメリカにおける殖民地争奪
第11章2節 ア.北アメリカ植民地
第12章3節 ア.領土の拡大
第12章3節 ウ.工業国アメリカの誕生
書籍案内

藤永茂
『アメリカ・インディアン秘史』
1974 朝日選書

D.ブラウン/鈴木主税訳
『わが魂を聖地に埋めよ』上
1972年 草思社

D.ブラウン/鈴木主税訳
『わが魂を聖地に埋めよ』下
1972年 草思社

猪熊博行
『風の民―ナバホ・インディアンの世界』
2003 社会評論社
DVD案内

ラルフ・ネルソン監督
『ソルジャー・ブルー』
キャンディス・バーゲン/ピーター・ストラウス 1971

それまでの西部劇とがらりと変わり、インディアン側に立って描いた作品。


アーサー・ペン監督
『小さな巨人』
ダスティン・ホフマン主演

ホフマンが白人とインディアンの混血児を100歳まで演じた話題作。カスター将軍全滅の真実が語られる。


ケビン・コスナー
『ダンス・ウィズ・ウルブス』
ケビン・コスナー主演

南北戦争の英雄がインディアンのスー族と行動を共にする。アカデミー賞受賞作。息をのむ草原の美しさ。


ジョン・ウー製作・監督
『ウインドトーカース』
ニコラス・ケイジ主演

テーマは重く、インディアンのコードトーカーの存在を知ることはできるが、映画としては「派手な戦争アクションもの」の域を出ていない。