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ラスプーチン

ロシア帝政末期のニコライ2世の宮廷で実権を振るった僧侶。1916年12月、暗殺された。

 農民出身の宗教家で、ニコライ2世の皇后アレクサンドラと血友病の皇太子の治療を通じて宮廷に入り込み、皇后の信頼を得(愛人とも言われる)、皇帝も彼を重用するようになった。ロマノフ朝のツァーリを影で操る彼は”怪僧”と言われ、大臣の人事にも口出しして宮廷に大きな影響力を持った。しかし第一次世界大戦の戦局の不利、国内の経済の悪化など危機が深刻となると一部の貴族はその排除を狙うようになり、1916年12月に暗殺された。
 この事件は末期のロマノフ朝の腐敗、混乱を象徴しているとされている。第一次世界大戦の渦中にあったロマノフ朝ニコライ2世は、1917年2月にペトログラードで始まった民衆蜂起に対処する能力をすでに失っており、二月革命(三月革命)の勃発によって第2次ロシア革命へと移っていく。

Episode 怪僧の暗殺

 1916年2月、前年の9月以来休会になっていた国会(ドゥーマ)が再開されたが、その条件は「ラスプーチン問題を取り上げない」ということだった。ニコライ2世は前例を破って国会の開会式に出席したが、議院内閣制を認めず、政府と国会の対立は深まるばかりで、ニコライは政治的に孤立していた。
(引用)この年も押し詰まった12月29日の晩から30日の朝にかけてラスプーチン暗殺計画を練っていた皇族ドミトリー・パヴロヴィチとユスーポフ公、それに極右議員プリシケヴィチは、ラスプーチンをユスーポフ邸に招いた。ユスーポフらの証言によると、そこにラスプーチンに青酸カリ入りのケーキを食べさせ、毒入りワインも飲ませた。
 だが、平然として死ぬ様子もなかったので、ピストルで撃った。それでも、この怪物はもがき、ほえたてて死なないため、近くの運河に運んで行って、沈めて殺したということだ。ドミトリーはニコライのいとこであり、ユスーポフはニコライの妹クセニアの女婿にあたる。ラスプーチンがロマノフ朝を蝕む害毒として、いかに皇族やニコライの近親者らから憎まれていたかがわかる。<保田孝一編『ニコライ二世の日記』1990 朝日選書 p.232>
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保田孝一編
『ニコライ二世の日記』
講談社学術文庫 Kindle版
初刊1990 朝日選書