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二月革命/三月革命(ロシア)

1917年3月、ロシアで起こった民衆蜂起によってロマノフ朝を倒した革命。ブルジョワ権力である臨時政府を樹立した。第一次世界大戦で困窮したロシア民衆が、旧暦2月23日(新暦3月8日)、ペテルブルクで「パンよこせデモ」を行ったことに対してツアーリ(ニコライ2世)政府が武力で弾圧したことをきっかけに起こった。軍隊も民衆側についたことによって政府は追いつめられ、皇帝は退位、ケレンスキーを首班とする共和政体の臨時政府が成立した。その後、臨時政府とレーニンなどのボリシェヴィキが対立、同年10月の十月革命(十一月革命)によって社会主義を掲げる労働者政権であるソヴィエト政権が樹立される。この1917年の一連の革命は、1905年の第1次に次ぐ、第2次ロシア革命ともいわれる。

 1917年の新暦3月8日に起こったロシア革命は、当時ロシアではロシア暦が用いられており、2月23日にあたっていたので、二月革命いわれた。現在は新暦(太陽暦)で三月に当たるので三月革命もいう。同年中、続いて起こる十月革命(十一月革命)とともに、第2次ロシア革命、或いは単にロシア革命という場合もある。

革命の勃発

 第一次世界大戦に参戦したロシアは、ドイツ・オーストリア軍に押され、国土の多くを占領された。また戦争は国内の食糧・燃料の不足、物価騰貴をもたらし、国民の生活を急激に悪化させた。特に人口の多い首都ペトログラード(ペテルブルク)ではその矛盾が深刻で、1916年頃から盛んにストライキが起こっていた。ついに1917年ロシア暦で2月23日(新暦3月8日)、国際女性デー※にあたり、女子労働者の「パンよこせ」デモを皮切りに、全市がゼネスト状態に入った。民衆は「戦争反対」「専制政府打倒」という政治的スローガンを掲げて立ち上がり、軍隊がそれに呼応してペトログラードの労働者と兵士のソヴィエトを結成した。
※国際女性デー 1910年、コペンハーゲンで開催された国際社会主義者会議で、女性の政治的自由と平等のために闘う記念日を設けることが提案され、それ以後、西欧各国で「国際女性デー」の行動が行われるようになった。当初はその日程は各国の事情で異なっていたが、1913年のドイツで3月8日に行われ、ロシアでもその時初めて開催された。ただしロシアは旧暦であったので、2月23日にあたっていた。1917年にも2月23日(新暦3月8日)がその日にあたっていた。現在も、3月8日は「国際女性デー」として世界各国で女性の権利拡大を訴える活動がおこなわれている。3月8日の日付となった理由は諸説あり、そのひとつは1904年3月8日、アメリカ・ニューヨークで女性が参政権(選挙権)を要求してデモを行い、その後まずアメリカ社会党の女性たちによって2月の最終日曜日に行われるようになったことがあげられている。

革命の一週間

 1917年2月23日から一週間にペトログラードで起こったできごとについては、次の文が要領よく雰囲気も伝えている。
(引用)国会開催日の2月14日以後ストライキとデモが盛りあがり、3万人が働く金属工場プチロフ工場では18日に一職場で始まったストライキが21日には全職場に拡大し、22日にはロックアウトがおこなわれた。2月23日(新暦3月8日)の国際婦人デーには、あらたに繊維工場の婦人労働者などがデモに参加してストライキが拡大した。この季節はロシアのもっとも寒く日が短い時期であったが、パンもたきぎもなかった。この日午後には首都の治安維持の全権が警察から軍へ移ったが、25日にはストライキは全市に広がり、新聞はでず、電車も動かず、多くの大学は無期限ストに入り、26日の日曜日デモ隊は、鎮圧にあたろうとする軍隊に挑戦的、嘲笑的となり、氷片を投げつけた。軍はいたるところで実弾の発砲をおこない多数の死者が出たが、夜になってついに軍の一部が反乱し、武装蜂起が始まった。翌27日朝ヴォルイニ連隊で反乱がはじまり、28日夕刻には首都守備隊のほとんど全部が革命の側に加わり、蜂起軍は駅、橋、兵器庫、電信局、中央郵便局、ペトロパウロ要塞を占領した。首相、内相、首相(都?)戒厳司令官らは翌3月1日までに次々に逮捕され、専制は崩壊した。首都における死者は約170人、負傷者は1000人であった。<木村英亮『増補版・ソ連の歴史―ロシア革命からポスト・ソ連まで』1991 山川出版社 p.35-36>

二重権力となる

 民衆の蜂起は全国に波及し、皇帝ニコライ2世1917年3月15日に退位し、ロマノフ朝の帝政であるツァーリズムは終わりを告げた。一方、国会では立憲民主党(カデット)のリヴォフ公を首相とする臨時政府が成立し、議会制によるブルジョワ政権が成立した。これがロシア暦で二月革命(後に太陽暦が採用されてからは三月革命と言われる)であるが、一方で各地に労働者・農民はソヴィエトを結成し、戦争を継続しようとする臨時政府と鋭く対立し、独自のソヴィエト権力を作り上げた。こうして二重権力の状態となった。

十月革命へ

 亡命先から帰国したレーニンボリシェヴィキを指導し、四月テーゼを発表して「すべての権力をソヴィエトに」という路線を打ち出した。しかし当初、ソヴィエトには社会革命党(エスエル)メンシェヴィキなどが多数を占めており、ボリシェヴィキは少数だった。7月にエスエルのケレンスキーが臨時政府首相となったが、第一次世界大戦の即時講和を拒否し、戦争継続を決定したため、ボリシェヴィキとの対立が激化し、ソヴィエトを弾圧した。両者の対立はついに同年中に十月革命が勃発し、臨時政府は倒されてソヴィエト政権が成立し、社会主義国家への移行を目指すこととなった。

二月革命の意義

 ロマノフ朝の帝政を倒し、共和政国家に移行させた革命であり、ロシアにおけるブルジョワ革命であった。ブルジョワを代表する臨時政府は西欧型議会政治をめざしたが、労働者・農民の中に生まれたソヴィエトは独自の権力を志向し、二つの権力が並立する二重権力となり、対立が次第に深刻となっていった。
(引用)ソヴィエトの当初の態度は、それほどはっきりしたものではなかった。マルクスの歴史図式によれば、ニつの異なった革命――ブルジョワ革命とプロレタリア革命――が順次起きるはずであった。ソヴィエトを構成する人々は、ごくわずかの例外を除いて、この二月のできごとを、西欧型ブルジョワ民主主義体制を確立するロシア・ブルジョワ革命として把えることに満足して、社会主義革命の方は不確定の将来のこととして後景に退かせていた。臨時政府との協調はこうした考えからすれば当然の帰結であり、この考えは、最初にペトログラードに戻った二人の指導的ボリシェヴィキ――カーメネフとスターリン――にも分かちもたれていた。
 四月はじめにおけるレーニンの劇的なペトログラード到着は、この不安定な妥協を粉砕した。レーニンは――当初、ボリシェヴィキの中でさえも、ほとんど孤立無援だったが――、ロシアにおける現下の動乱はブルジョワ革命であってそれ以上の何ものではないとする想定を攻撃した。二月革命以後の状況の展開は、それがブルジョワ革命の範囲内にとどまってはいられないだろうというレーニンの見地を確証した。・・・<E.H.カー/塩川伸明訳『ロシア革命―レーニンからスターリンへ』1979 岩波現代文庫 2000刊 p.3-4>

参考 二月革命は誰が起こした

 1917年2月23日(3月8日)、二月革命が勃発した時点では、ロシア社会民主労働党はすでにボリシェヴィキメンシェヴィキに分かれており、ロマノフ朝の専制政治と戦争に反対する革命派の組織であるソヴィエトでもボリシェヴィキは主流派とは言えなかった。またボリシェヴィキの指導者レーニンはスイスに亡命中であった。そのなかで革命が始まったわけであるが、そのときの事情を後にトロツキーは次のように説明している(当時はトロツキーはメンシェヴィキに属し、ロシアを離れていた)。
(引用)2月23日は国際婦人デーであった。社会民主主義労働者の間ではそれを、集会、演説、ビラなど一般的な形で記念することが予定されていた。婦人デーが革命の初日になりうるなど前日にはだれの頭にも浮かばなかった。どの組織もその日にストライキを呼びかけてはいなかった。それどころかボリシェヴィキ組織、それも完全な労働者地区であるヴィーボルク地区のもっとも戦闘的な組織である委員会でさえ、ストライキをひかえさせようとした。・・・委員会は、党の強化も不十分だし、労働者には兵士との結びつきがほとんどないため、戦闘行動のときは来ていないと考えていた。そのため委員会は、ストライキを呼びかけるのではなく、いつとも決まっていない将来の革命的決起にそなえるということにした。2月23日の前日、委員会はそのような方針を決め、みんなはそれを受け入れたかに見えた。ところが、翌朝、あらゆる指示に反して、いくつかの工場の女子紡織工がストライキに入り、金属労働者のところへ代表を派遣して、ストライキ支援を訴えた。「涙をのんで」・・・ボリシェヴィキはそれを認めた。ボリシェヴィキにつづいてメンシェヴィキやエスエルの労働者も。しかし、いったん大衆的なストライキがはじまったら、すべての労働者を街頭に呼び出し、みずから先頭に立たたなければならない――カユーロフ(地区委員長)はそう決心したし、ヴィーボルク委員会もそれを承認するほかなかった。「決起という考えは労働者の間ではもうとうに熟していた、ただその時点では、それがどういうことになるのかだれも予想はしていなかった。」当事者のこの証言を記憶しておこう。それは事態のメカニズムを理解するうえできわめて重要なものである。・・・
 したがって事実はこうである。二月革命は本来の革命組織の反対を押し切る形で下から開始された。しかも自発的にイニシアチヴをとったのはもっとも圧迫され、抑圧されていたプロレタリアート層、女子労働者――紡織工であった。その中には兵士の妻たちも大勢いたと考えなければならない。決定的要因はパンをもとめる長蛇の列であった。その日、およそ9万人の男女の労働者がストライキに入った。闘争気運はデモ、集会、警察との乱闘となってあらわれた。運動は大企業をかかえるヴィーボルク地区で起こり、そこからペテルブルク地域に飛び火した。・・・女性――しかも女工ばかりではなかった――の大群がパンを要求して市ドゥーマに向かった。それは雄の山羊に乳を要求するようなものであった。市内各地に赤旗があらわれた。そこに記されたことばは、勤労者はパンを欲しているが、専制も戦争も欲していないということを証明していた。婦人デーはもりあがり、犠牲もなく、成功裏に過ぎた。しかし、その一日になにが秘められていたか、そのことは夕方になってもだれも察知できなかった。・・・<トロツキー/藤井一行訳『ロシア革命史1』2000 岩波文庫 p.201-204>