印刷 | 通常画面に戻る |

二月革命/三月革命(ロシア)

1917年3月、ロシアで起こった民衆蜂起によってロマノフ朝を倒した革命。ブルジョワ権力である臨時政府を樹立した。

 当時ロシアではロシア暦が用いられており、2月におこった革命なので二月革命いわれた。現在の太陽暦では三月に当たるので、三月革命もいう。同年中、続いて起こる十月革命(十一月革命)とともに、第2次ロシア革命、或いは単にロシア革命という場合もある。第2次ロシア革命
 第一次世界大戦に参戦したロシアは、ドイツ・オーストリア軍に押され、国土の多くを占領された。また戦争は国内の食糧・燃料の不足、物価騰貴をもたらし、国民の生活を急激に悪化させた。特に人口の多い首都ペトログラードではその矛盾が深刻で、1916年頃から盛んにストライキが起こっていた。ついに1917年ロシア暦で2月23日(新暦3月8日)国際婦人デーにあたり、女子労働者の「パンよこせ」デモを皮切りに、全市がゼネスト状態に入った。民衆は「戦争反対」「専制政府打倒」という政治的スローガンを掲げて立ち上がり、軍隊がそれに呼応してペトログラードの労働者と兵士のソヴィエトを結成した。

革命の一週間

 1917年2月23日から一週間にペトログラードで起こったできごとについては、次の文が要領よく雰囲気も伝えている。
(引用)国会開催日の2月14日以後ストライキとデモが盛りあがり、3万人が働く金属工場プチロフ工場では18日に一職場で始まったストライキが21日には全職場に拡大し、22日にはロックアウトがおこなわれた。2月23日(新暦3月8日)の国際婦人デーには、あらたに繊維工場の婦人労働者などがデモに参加してストライキが拡大した。この季節はロシアのもっとも寒く日が短い時期であったが、パンもたきぎもなかった。この日午後には首都の治安維持の全権が警察から軍へ移ったが、25日にはストライキは全市に広がり、新聞はでず、電車も動かず、多くの大学は無期限ストに入り、26日の日曜日デモ隊は、鎮圧にあたろうとする軍隊に挑戦的、嘲笑的となり、氷片を投げつけた。軍はいたるところで実弾の発砲をおこない多数の死者が出たが、夜になってついに軍の一部が反乱し、武装蜂起が始まった。翌27日朝ヴォルイニ連隊で反乱がはじまり、28日夕刻には首都守備隊のほとんど全部が革命の側に加わり、蜂起軍は駅、橋、兵器庫、電信局、中央郵便局、ペトロパウロ要塞を占領した。首相、内相、首相(都?)戒厳司令官らは翌3月1日までに次々に逮捕され、専制は崩壊した。首都における死者は約170人、負傷者は1000人であった。<木村英亮『増補版・ソ連の歴史―ロシア革命からポスト・ソ連まで』1991 山川出版社 p.35-36>

二重権力となる

 民衆の蜂起は全国に波及し、皇帝ニコライ2世は3月15日に退位し、ロマノフ朝の帝政であるツァーリズムは終わりを告げた。一方、国会では立憲民主党(カデット)のリヴォフ公を首相とする臨時政府が成立し、議会制によるブルジョア政権が成立した。これがロシア暦で二月革命(後に太陽暦が採用されてからは三月革命と言われる)であるが、一方で各地に労働者・農民はソヴィエトを結成し、戦争を継続しようとする臨時政府と鋭く対立し、独自のソヴィエト権力を作り上げた。こうして二重権力の状態となった。

十月革命へ

 亡命先から帰国したレーニンボリシェヴィキを指導し、四月テーゼを発表して「すべての権力をソヴィエトに」という路線を打ち出した。しかし当初、ソヴィエトには社会革命党(エスエル)メンシェヴィキなどが多数を占めており、ボリシェヴィキは少数だった。7月にエスエルのケレンスキーが臨時政府首相となって二重政権は解消されたが、第一次世界大戦の即時講和を拒否し、戦争継続を決定したため、ボリシェヴィキとの対立が激化し、ソヴィエトを弾圧した。両者の対立はついに同年中に十月革命が勃発し、臨時政府は倒されてソヴィエト政権が成立し、社会主義国家への移行を目指すこととなった。

二月革命の意義

 ロマノフ朝の帝政を倒し、共和政国家に移行させた革命であり、ロシアにおけるブルジョワ革命であった。ブルジョワを代表する臨時政府は西欧型議会政治をめざしたが、労働者・農民の中に生まれたソヴィエトは独自の権力を志向し、二つの権力が並立する二重権力となり、対立が次第に深刻となっていった。
(引用)ソヴィエトの当初の態度は、それほどはっきりしたものではなかった。マルクスの歴史図式によれば、ニつの異なった革命――ブルジョワ革命とプロレタリア革命――が順次起きるはずであった。ソヴィエトを構成する人々は、ごくわずかの例外を除いて、この二月のできごとを、西欧型ブルジョワ民主主義体制を確立するロシア・ブルジョワ革命として把えることに満足して、社会主義革命の方は不確定の将来のこととして後景に退かせていた。臨時政府との強調はこうした考えからすれば当然の帰結であり、この考えは、最初にペトログラードに戻った二人の指導的ボリシェヴィキ――カーメネフとスターリン――にも分かちもたれていた。
 四月はじめにおけるレーニンの劇的なペトログラード到着は、この不安定な妥協を粉砕した。レーニンは――当初、ボリシェヴィキの中でさえも、ほとんど孤立無援だったが――、ロシアにおける現下の動乱はブルジョワ革命であってそれ以上の何ものではないとする想定を攻撃した。二月革命以後の状況の展開は、それがブルジョワ革命の範囲内にとどまってはいられないだろうというレーニンの見地を確証した。・・・<E.H.カー/塩川伸明訳『ロシア革命―レーニンからスターリンへ』1979 岩波現代文庫 2000刊 p.3-4>
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第15章1節 エ.ロシア革命
書籍案内

木村英亮
『増補版・ソ連の歴史―ロシア革命からポスト・ソ連まで』
1991 山川出版社

E.H.カー/塩川伸明訳
『ロシア革命―レーニンからスターリンへ』1979
岩波現代文庫 2000刊