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第一次世界大戦

1914~18年、帝国主義国家が二つの陣営に分かれて戦った、人類史上最初の世界大戦。総力戦という戦争の性格や飛行機、潜水艦、毒ガスなど新しい武器が出現し、戦争の形態を一変させた。

 1914年7月28日から1918年11月11日の4年3ヶ月続いた、人類最初の世界戦争。バルカン半島におけるドイツ・オーストリアとロシアの対立に、軍事秘密同盟を結んだそれぞれの陣営が同調して世界戦争となったもので、集団的自衛権を根拠とした軍事同盟によって戦争の抑止力とするという前世紀のビスマルク外交以来の国際理念が、サライェヴォの一発の銃弾で破綻したといえる。戦闘はほとんどヨーロッパのドイツの東西で東部戦線、西部戦線で展開されたが、他にトルコの周辺の西アジア、ドイツ勢力圏の及んだアフリカ、中国でのドイツ権益に対する日本の攻撃など、地球的規模で戦争が広がった。また、初期の想定に反して戦争は長期化し、各国とも戦闘力を維持する国内経済、産業、動員態勢の強化を迫られ、一部の専門的な職業軍人だけが戦う戦争ではなく、国家を挙げた総力戦とならざるをえなくなった。また戦争の形態は高度に技術化され、飛行機、潜水艦、毒ガスなど新しい武器を出現させ、戦争は戦闘員のみならず、一般市民をまきこみ、広範な犠牲を人的、物的に及ぼす戦争となった。戦争の長期化、戦線の拡大、国民生活への犠牲の増大は、次第に各国での厭戦気運を高めていったが、決定的な転換点となったのは、1917年5月のアメリカの参戦と11月のロシア革命(第2次)であった。アメリカの参戦は西部戦線におけるドイツの前進を阻み、ロシア革命は東部戦線での単独講和の可能性を生み出した。ドイツ国内でも兵士・労働者のドイツ革命が起こったことによって1918年11月に戦争は終結した。翌年パリ講和会議が始まり、1919年にヴェルサイユ条約として講和条約が締結され、新たな国際的平和維持機構として国際連盟の発足し、集団安全保障を新たな国際理念とする世界に転換した。しかし、ヴェルサイユ体制と言われる戦後体制は様々な問題点をかかえ、大戦後のファシズムの台頭、アジアの民族主義の台頭という新たな試練に耐えなければならなくなり、20年後の1939年の第二次世界大戦の勃発を防ぐことはできなかった。
 → (1)第一次世界大戦の原因と概要  (2)大戦の経過  (3)大戦の終結  (4)大戦の結果と影響

(1)第一次世界大戦の原因と概要

戦争の原因

 根本的な要因としては、列強の領土・植民地・勢力圏をめぐっての対立から起こった帝国主義戦争である。列強は19世紀末から各地で衝突を繰り返していたが、主としてバルカン問題におけるオーストリアとセルビアの対立に、それぞれ背後についているドイツとロシアが応援する形となり、またヴィルヘルム2世世界政策として展開した3B政策などが西アジアやアフリカにおいてイギリスの3C政策やフランスの植民地政策が衝突したことなどから二大陣営が形成されることとなった。さらにヨーロッパの帝国主義列強がアジア・アフリカに殖民地を所有していたことから、殖民地における情勢が複雑に関係した。ドイツ側についたオスマン帝国に対して領内のアラブ人勢力をイギリスが支援して西アジアにも戦争は拡大し、東アジアでは日英同盟を口実とした日本が中国や太平洋のドイツ権益を攻撃した。こうしてこの戦争は人類最初の「世界戦争」となった。

戦争目的の宣伝

 本質は帝国主義列強が進めた、秘密軍事同盟による勢力均衡による平和維持という国際政治が破綻したために起こった戦争であったが、アメリカ合衆国が参戦すると、専制政治に対する民主主義(デモクラシー)の維持のための戦いという戦争目的が宣伝される王になった。 (引用)連合諸国は、この戦争を“カイザー(ドイツ皇帝)の専制政治”に対するデモクラシーの戦い、世界支配をめざすドイツ軍国主義を打倒して国際正義を維持し小国の権利を擁護するための戦争であると称したが、アメリカの参戦後はアメリカ大統領ウィルソンが唱えた“デモクラシーが栄え得る世界にするための戦争”、“戦争をなくすための戦争(a war to end war)”という標語が高く掲げられるにいたった。これに対して、独墺側諸国は、戦争をもって民族的対立を防衛するための戦いであると宣伝したが、次いでやがて、反動的なロシア・頽廃したフランス・偽善的なイギリスの打倒をその戦争目的として標榜するにいたった。<岡義武『国際政治史』1955 再刊 2009 岩波現代文庫 p.167>

交戦国

 帝国主義の列強が同盟国側と連合国側の二陣営に分かれ、それに周辺諸国が利害関係の対立、領土的野心などの思惑からいずれかの陣営に加わり、世界が大きく二分されることとなった。
同盟国といわれたのは、三国同盟ドイツオーストリア=ハンガリー帝国を基軸とし(イタリアは中立を宣言)、トルコ(オスマン帝国)、ブルガリアなどが加わった。
連合国(協商国とも言う)はフランスイギリスロシア三国協商を軸に、セルビアモンテネグロルーマニアギリシアのバルカン諸国、三国同盟を離脱したイタリアが加わった。ヨーロッパ以外では、アジアでは日本(14年8月)、中国(17年8月)など32カ国が連合国側に参戦した。また、イギリスの海外自治領であるカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アも協力し、植民地インドからも徴兵された。アメリカの参戦は大戦の後半、1917年4月であったが、それが連合国側の勝利に決定的な要因となった。

反戦運動とその挫折

 各国では戦争反対の声も多かった。特に労働組合と社会主義政党は、帝国主義戦争に反対の立場を取っていたので、第2インターナショナルもただちに戦争反対の声明を出した。フランスではジョレスがもっとも熱心に戦争反対を叫んだ。しかし彼は、開戦直後に暗殺されてしまった。実際に戦争が始まると、各国の社会主義政党も次第に自国の戦争を支持する側に回るようになり、国際連帯による反戦運動は崩壊した。またドイツでは社会民主党も戦争支持の主流派であるシャイデマンやエーベルトが優勢となり、あくまで反戦を主張したカウツキー、リープクネヒトローザ=ルクセンブルクらは独立社会党を結成して分裂した。ロシアでもメンシェヴィキエスエルは戦争支持を表明し、戦争反対を主張したボリシェヴィキは少数派となり、弾圧された。こうして第一次世界大戦は労働者の国際連帯を目指した第2インターナショナルの運動を崩壊させることとなった。

(2)第一次世界大戦の経過

1914年6月にオーストリアがセルビアに宣戦布告して開戦となる。ロシア、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアが参戦しヨーロッパが主戦場となる。東西の戦線で長期化し、総力戦が続く。

開戦

宣戦布告 1914年6月28日のサライェヴォ事件を受けて、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ=ヨーゼフ1世とその政府は、セルビア人の実行犯の背後には大セルビア主義の民族団体とそれを支援するセルビア政府がいるとして、ドイツ帝国ヴィルヘルム2世とその政府から白紙委任を取り付けた上で、最後通牒を発し、セルビアが拒否したことを受けて7月28日、セルビアに宣戦布告した。ロシア帝国ニコライ2世はセルビアを支援するため軍隊に動員をかけ、それを知ったドイツがロシアに最後通牒を発すると、ロシアがそれに答えて8月1日にドイツに宣戦布告、ドイツとロシアの開戦は必然的にフランスを巻き込むこととなり、ドイツはフランスに対して中立を要求したがフランスはそれを拒否して3日に宣戦布告した。こうしてバルカンの地域紛争は、ヨーロッパの列強が連鎖的に加わる世界戦争に転化し、「八月の砲声」がヨーロッパにとどろくこととなった。
ドイツ軍のベルギー侵攻 ドイツは8月2日、ベルギーに対しドイツ軍の通過を要求、拒否されると4日に侵入を開始した。中立国ベルギーが侵犯されたことを理由にイギリスは参戦した。ベルギーは予想に反して激しく抵抗したが、ドイツ軍は6日にリエージュを包囲して列車輸送式の大砲で大量の砲撃を加え、さらに飛行船ツェッペリン号による空爆を加えた。大量の砲撃と空爆という近代戦がリエージュ攻撃から始まった。しかしリエージュはよく抵抗し、8月16日まで持ちこたえた。このベルギーでの戦闘については<バーバラ・タックマン『八月の砲声』1962 山室まりや訳 ちくま学芸文庫 上 p.59-60>に詳しい。

マルヌの戦い

 1914年9月、ドイツ軍はシュリーフェン計画に基づき、大軍をベルギーから侵入させ、パリの西方に向かわせた。パリの西側を迂回する計画であったが、現地指揮官は途中で方向を転じパリの東側に向かった。移動中のドイツ軍をイギリスの偵察飛行機が発見、フランス軍が急襲し、好機を作った(このときパリのタクシー600台が兵員輸送に活躍した)。パリ東方のマルヌ川付近での会戦は、ドイツ軍のモルトケが安全を期して戦線を後退させたので、ドイツ軍の進撃が止まった。こうして当初の6週間でパリを陥落させるというドイツの戦略がくずれ、長期戦の様相を呈することとなり、いわゆる西部戦線での膠着した塹壕戦に以降していった。

Episode 「マルヌのタクシー」

 9月5日、フランスの第六軍(総司令官ジョッフル)はマルヌでドイツ軍を迎え撃った。だが、フランス軍は手薄であり、この戦線に新鋭部隊を投入することがどうしても必要になった。 (引用)そのころ、パリの街を走るタクシーはルノー製のものがほとんどだったが、フランス軍はそれらを大急ぎでかき集め、前線への兵員輸送に当たらせた。その数は600台と伝えられる。その作戦はみごとに成功し、マルヌ会戦はフランスの勝利に終わり、ドイツ軍は退却をよぎなくさせられ、以後は塹壕戦/陣地戦の膠着状態に入り、これがドイツ敗北の遠因となった。パリ陥落の危機は救われた。そいてルノー製のそれらの車は、後々までも、”マルヌのタクシー”として歴史に名を留めている。現在もその一台は、パリのルノー博物館に誇らしげに展示されている。なおこれらのタクシーは、使用のたびごとに通常の料金を払ってもらった。”タクシーに乗って”戦場に、そしてあるいは死へとおもむいたことになるが、そこにはどこか20世紀ならではのブラック・ユーモアが見え隠れしている。<折口透『自動車の世紀』岩波新書 1997 p.94>

西部戦線

 ドイツ軍はベルギー領内を破竹の勢いで突破、ついにフランス国内に侵入した。シュリーフェン計画では最右翼は大きく迂回してパリの西側に回る予定であったが、功を焦ったかクルップ将軍が進路を東に変えてしまった。それをイギリス軍の飛行機が発見して陸上のフランス軍に連絡、ジョッフル将軍麾下のフランス軍がドイツ軍を捕捉し、9月5日、マルヌの戦いでその進軍を阻止した。ドイツの総司令官モルトケは、当時東部戦線でロシア軍が予想以上に迅速に国境に迫っているとの知らせを受け、東部戦線からロシア戦線へ兵力を一部移動させるためドイツ軍は戦線を後退させたのである。こうしてドイツの短期決戦策は失敗し、独仏国境線にそって西部戦線が形成され、両軍とも塹壕を掘って対峙する長期戦に突入した。ドイツ軍は塹壕戦での新戦術として毒ガスを開発、1915年4月のイープルの戦いではじめて使用し、戦争は陰惨な様相を呈していった。

Episode 「西部戦線異常なし」

 西部戦線に実際に参加したドイツのエーリッヒ=レマルクは、1927年にそのときの戦場体験をもとに『西部戦線異常なし』を発表した。これは過酷な戦場の現実を告発した反戦文学として、世界的な反響を呼んだ。早くも翌1930年にアメリカのルイス=マイルストンが映画化し、第3回アカデミー賞を受賞して日本でも評判となった。その後も何度か映画化されているが、やはりこの作品が鮮烈だ。華やかな歓声に送られ、戦場に向かった若い兵士たちを待ち受けた現実。塹壕の中に閉じこもる主人公の頭上に・・・。一人の兵士は死んだが、前線から本部に送られた報告は〝西部戦線異常なし〟という電文だった。<エーリッヒ=マリア=レマルク/秦豊吉訳『西部戦線異常なし』新潮文庫>

東部戦線

 第一次世界大戦でドイツ・オーストリア=ハンガリーの東部に形成された戦線を東部戦線という。1914年8月、ロシア軍がタンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗したため戦線を後退させた。

タンネンベルクの戦い

 ドイツの東側の東部戦線で、1914年8月17日、ドイツ領東プロイセンに進撃したロシア軍が、タンネンベルクでドイツ軍に敗れた。ロシア軍は当初、ドイツの予想を上回る速さで進撃してきたが、次第に補給と通信の不備が露呈してきて、進撃が停滞した。ドイツの戦線立て直しに派遣された新司令官ヒンデンブルク大将とルーデンドルフ参謀長は、ロシア軍の無線を傍受してその進路を知り、列車で大軍を移動させて、タンネンベルクのロシア軍を急襲して勝利を収めた。このときの戦闘で25万人のロシア兵のうち、12万5千が戦死か捕虜になり、ドイツ側の損害は1万にすぎなかった。タンネンベルクでのロシア軍の敗北は、ツァーリ政府の威信を著しく落とし、ロシア革命の勃発の警鐘となった。

Episode ドイツ軍の復讐の地、タンネンベルク

 第一次世界大戦でドイツがロシアに大勝したタンネンベルクは現在のポーランド、ワルシャワの北方約150kmほどのにあり、グルンヴァルトという。この地は1410年、ドイツ騎士団団がリトアニア=ポーランド王国軍と戦い、撃破されたところであった。ドイツ騎士団が大敗を喫したこの闘いは、ドイツ人にとって屈辱的なものであったので、今度の勝利をあえてタンネンベルクの戦いと四だ。グルンヴァルトはその後20世紀にいたるまでポーランドとの対決と復讐を象徴する地となったわけだ。<志摩園子『物語バルト三国の歴史』2004 中公新書 p.61>

バルカンでの戦線

 第一次世界大戦の直接の引き金となったバルカン半島での両陣営での対立も続き、もオーストリア=ハンガリーとブルガリアの同盟国側とセルビア・モンテネグロ・ルーマニア・ギリシアの連合国側が各所で交戦した。次第にオーストリア=ハンガリーは多民族国家の弱点を露わにして、敗北することが多くなった。また東部戦線には入らないが、トルコ領でもガリポリの戦いがあり、中東でもドイツ・トルコ軍とイギリス・フランスなどの連合軍が闘った。

ガリポリの戦い

 第一次世界大戦オスマン帝国(トルコ)が1914年10月に参戦したため、ダーダネルス=ボスフォラス海峡がドイツ海軍にを抑えられることとなった。これは、ロシアにとって危機であり、イギリスにとってもスエズ運河の防衛にも大きな障害となる。そこでイギリスの海軍大臣ウィンストン=チャーチルは、英仏軍とロシア軍が連絡をつけることができるようにするため、ダーダネルス海峡の入り口にあたるトルコのガリポリ要塞を攻撃・占領する作戦を立てた。その作戦に基づいて、1915年4月25日、イギリス・フランスの連合軍にオーストラリア・ニュージーランド連合軍(ANZAC)が加わって攻撃したが、トルコ軍は守備隊長ムスタファ=ケマルに指揮されて容易に陥落しなかった。
 攻防が続く間、1915年10月14日にブルガリアが同盟国側に参戦し、12月にはセルビア軍がオーストリア軍に敗れたためドイツ・オーストリア軍とトルコ軍が直接連絡を取ることができるようになり、連合国軍のガリポリ作戦は失敗に終わり、翌16年1月に撤退した。その代わりに15年10月にギリシア領のサロニカに上陸し橋頭堡を築き、ギリシアを説得して連合国側に参戦させた。
 このガリポリの戦いで英仏軍を撃退したトルコのムスタファ=ケマルはこの時弱冠34歳、ガリポリの英雄として戦後にその名声を高め、後にトルコ共和国の初代大統領となる足場を築いた。一方のチャーチルは作戦失敗の責任を取り、一時閣外に去る。なお、オーストラリアでは、4月25日をアンザック・デーとして戦死者を追悼する日としている。(A=Australia NZ=New Zealand A=Army C=corps)

ヴェルダンの戦い

 ヴェルダンは、現在のフランスのロレーヌ県北部、ベルギー国境の近くの地点。かつて、ヴェルダン条約が締結されたところ。第一次世界大戦で1916年2月~6月、フランス軍のヴェルダン要塞に向けて、ドイツ軍が総攻撃を行って、大戦最大の開戦が行われたところである。ヴェルダンの戦いでは莫大な量の砲弾が使用され、フランスは31万5千、ドイツ軍は28万1千の死傷者を出した。結果的にフランス軍は防衛することに成功し、司令官ペタンの名声が上がった。

ソンムの戦い

 第一次世界大戦で1916年6月~11月、北フランスのソンムでドイツ軍に対するイギリス・フランス連合軍の総攻撃が展開された。イギリス軍のヘイグ将軍は、まだ実験段階だった戦車をはじめて実戦に投入した。戦闘は全くの消耗戦となり、イギリス軍に42万、フランス軍に20万、ロシア軍に45万の犠牲者を出し、勝敗無く終わった。
(引用)理想主義はソンムで滅んだ。熱狂した志願兵たちは、もう熱狂しなくなった。かれらは、戦友への誠実さ以外は、大義名分とか指導者とか、あらゆるものへの信頼を失った。戦争は目的をもつことを止めた。戦争はただそれだけのために、いわば根気くらべとして続いた。<A.J.P.テイラー『第一次世界大戦』新評論 P.145-148>

海上の戦い

 大戦前、イギリスとドイツは建艦競争を繰り返し、巨大な艦隊を有していたが、開戦当初はイギリスが制海権を握り、ドイツ海軍はバルト海から出られず、「宝の持ち腐れ」状態だった。唯一、ドイツ東洋艦隊は太平洋を縦横に活動して、イギリス海軍・フランス海軍と戦っていた。しかしホーン岬を回って大西洋を北上したところで1914年12月、イギリス海軍に敗れ撃沈された。
 その後、陸上の戦いが膠着状態に陥ると、ドイツ軍は食糧を輸入に依存しているイギリスをたたくための戦略的な海上決戦を挑んだ。それが1915年5月のユトランド沖海戦であった。ドイツ艦隊は善戦し、イギリス艦隊により多い損害を与えたが、海上封鎖網を打開するまでには至らなかった。そこで考えられたのが、無制限潜水艦作戦であった。これはUボートといわれた潜水艦が、警告なしに商船に対しても魚雷攻撃をするというもので、1917年2月から着手した。これは想定以上にイギリスに打撃を与えたが、無防備の商船に対する攻撃がルシタニア号事件のように第三国、特にアメリカ人を犠牲にしたことから、アメリカの参戦を誘発し、結果的にドイツにとって大きなマイナスとなった。イギリスは潜水艦攻撃から商船を守るため、ロイド=ジョージが「護送船団方式(コンボイ=システム)」を考案し、それからは被害を激減させることに成功した。
 なお、地中海でもドイツ海軍とフランス・イギリス海軍が交戦し、さらに黒海ではロシア海軍とオスマン海軍が戦っている。1917年2月にイギリスは日本海軍の地中海への派遣を要請、日本海軍は巡洋艦3隻、駆逐艦12隻を派遣した。駆逐艦1隻の他数隻が撃沈され、78名が戦死したが、Uボート4隻を撃沈した。<三野正洋他『20世紀の戦争』朝日ソノラマ p.36>

ヨーロッパ以外での戦闘

 第一次世界大戦はほとんどがヨーロッパの、独仏と独露国境、バルカン半島、イタリアとオーストリアの国境付近が戦場となった。しかし、オスマン帝国や日本が参戦したため、アジアにおいても戦場となるところがあった。
中東の情勢 オスマン帝国が同盟国側で参戦したためイギリスはいち早く1914年にエジプトの保護国化をオスマン帝国に通告してスエズ運河を確保し、カイロを拠点にパレスチナへの進出を図った。1916年6月、アラビアの紅海沿岸のヒジャズ地方でアラブの族長フセインが反乱を起こしたので、イギリス海軍の情報将校トーマス=ロレンスが派遣され、ロレンスはアラブ軍の顧問格でそのゲリラ戦を指導した。ロレンスはアラブのゲリラを率いてオスマン軍の鉄道を破壊するなど後方攪乱に飛び回り、1918年9月まで活動した。これが有名な〝アラビアのロレンス〟である。
日本の参戦 開戦直後の1914年8月、イギリスは日本に対して東シナ海のドイツ艦隊を攻撃してほしい」と要請した。日本は日英同盟にもとづいてただちに出兵を決定したが、日本の中国・太平洋方面への進出を警戒するアメリカがイギリスに要請を中止するよう申し入れたたため、イギリスはそれに従ってドイツ艦隊攻撃要請を取り消した。しかし日本は第一次世界大戦への参戦を強行、8月15日にドイツに対する最後通牒を出し、回答がないとして9月2日に山東半島に上陸、11月までに膠州湾入口のドイツの青島要塞を陥落させた。この時、日本の飛行機が初めて実戦に参加した。さらにドイツ領太平洋諸島のマーシャル、マリアナ、パラオ、カロリン諸島を占領した。
 こうしてドイツの中国・太平洋の利権を接収した日本は、1915年1月中華民国の袁世凱政府に対し、二十一カ条要求をつきつけ、欧米諸国が世界大戦で動きが取れない中、中国本土への帝国主義的侵略を開始した。日本の露骨な大陸での利権拡張にはイギリス・アメリカは警戒したが、日本を対ドイツ戦争にとどめておく必要から、その中国に対する要求を黙認し、抗議しなかった。

(3)第一次世界大戦の終結

1917年、4月のアメリカの参戦と、11月のロシア革命(ソヴィエト政権の成立)によって転機を迎え、1918年10月にドイツで革命が起こり皇帝が退位、11月に停戦となった。

戦局の転換

 開戦当初、列強の首脳は短期に決戦を挑んで、適当な時期に収束させるつもりであったが、1914年9月のマルヌの戦い以降、その目論見は崩れ、引きに引けない膠着状態に陥ってしまった。そのまま一進一退が続いたが、1917年に入り一挙に情勢が変化した。
ロシア革命 その動きの一つはロシア革命(第2次)の勃発である。二月革命(三月革命)でツァーリ政府が倒され、臨時政府とソヴィエトの二重権力となると、臨時政府は連合国との関係を重視して戦争継続を表明し、ソヴィエトはそれに反対した。ドイツは密かにスイスに亡命中のソヴィエトの指導者レーニンがドイツ領内を通行できるように手配(封印列車)し、それによって4月に帰国したレーニンは四月テーゼを提示して、ボリシェヴィキ革命を指導した。レーニンの指導のもとで始まった反戦・反臨時政府の武装蜂起に対しては、臨時政府は前線から軍隊を呼び寄せてそれを弾圧した。7月に権力を掌握したケレンスキーも戦争続行を表明したが、前線の兵士の中には戦争忌避の動きが強くなり、戦線から離脱する兵が多くなった。ボリシェヴィキが武装蜂起して十月革命(十一月革命)が成功し、ケレンスキー内閣は崩壊、11月8日、レーニンは平和についての布告を発表して、交戦国すべてに対し無併合・無賠償による即時平和を提唱した。連合国からはすべて無視されたが、ドイツは好機と考え1818年3月、両者はブレスト=リトフスク条約を締結して単独講和を成立させ、ソヴィエト=ロシアはポーランドの独立その他の大幅な領土縮小を認めた。
アメリカの参戦 もう一つの動きはアメリカ合衆国の参戦である。アメリカは、伝統的な孤立主義の外交原則を守り、大戦勃発当初は中立を表明した。その一方、イギリス・フランス・ロシアには盛んに武器や物資を援助し、実質的には連合国に大きく肩入れしている状態であった。ただ国内にヨーロッパの戦争でアメリカの青年の血を流すべきでないという声も強く、ウィルソン大統領も戦争には踏み切れずにいた。ところが、1915年5月のルシタニア号事件を機にドイツの無制限潜水艦作戦に対する非難が強まり、ウィルソン大統領は参戦を決意、1917年4月に議会の同意を得てアメリカ合衆国の参戦に踏み切った。アメリカ軍がヨーロッパ戦線に派遣されたことによって戦局は決定的に連合軍有利に転換した。またウィルソン大統領は、1917年11月、レーニンが「平和についての布告」を発表すると、それに対抗して戦争目的の明確化と戦後処理の原則を示す必要に迫られ、翌年1月18日に十四カ条を発表した。
シベリア出兵 社会主義を掲げるソヴィエト政権の成立は資本主義諸国にとって脅威であり、またその戦争からの離脱は特に西部戦線でドイツと戦っているフランス・イギリスにとって痛手となる。そこで連合国はロシア革命への干渉を計画し、1918年3月には英仏米三国軍がムルマンスクに上陸、反革命政権を支援する対ソ干渉戦争を開始した。4月には日本軍がシベリアのウラジオストックに上陸した。5月にはロシア領内に捕虜となっていたチェコスロヴァキア軍団がシベリア経由で西部戦線に移動する途中でボリシェヴィキと衝突、英仏米日は8月にシベリア出兵に踏み切った。

戦争の終結

 ドイツ軍はロシアとの単独講和によって東部戦線の兵力を西部に振り向けたが、1918年8月8日、北フランスのアミアン付近で、アメリカ軍が参加した連合軍によって撃破され、それを機にドイツ軍の後退が始まった。バルカン方面でも、ブルガリアが9月末に停戦に応じ、オーストリア軍はサロニカからの連合軍の北上とイタリア軍の攻勢に対して戦意を失い、オスマン帝国軍もイギリスのパレスティナ進出とアラブの反乱で苦しむ中、10月にそれぞれ停戦に追いこまれた。
 そして10月、ドイツで無謀な出撃命令を拒否した海軍兵士がキール軍港の水兵反乱を起こし、それがきっかけで各地で兵士・労働者が蜂起するドイツ革命が勃発して、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命、帝政が倒された。社会民主党のエーベルトはドイツ共和国の権力を握ると、革命運動を抑えて弾圧し、一方で11月11日、フランスのコンピエーニュの森で連合国と停戦協定を結び、戦争を終わらせた。

Episode 〝背後からの一刺し〟

 この時、ドイツ陸軍はまだ西部戦線のフランスでとどまっており、連合国軍がドイツ国内に進撃していたわけではなかった。参謀総長ルーデンドルフは冷静にアメリカ軍の兵力を計算してドイツ軍に勝ち目がないと停戦を判断したが、軍の大物ヒンデンブルクをはじめ軍人はまだ負けていないという見方が強かった。にもかかわらず降伏することになったのは国内での革命騒ぎによって〝背後から一刺し〟されたためだという意識が彼らには強く残った。この意識は、ヴェルサイユ条約での敗戦国ドイツに対する過酷な要求に対する反発とともに、後にドイツに再び軍国主義が燃えさかる火種となって残った。

犠牲者

:戦死者802万人、負傷者2122万人、民間人死者664万人とされている。

(4)第一次世界大戦の結果と影響

第一次世界大戦の結果とそのもたらした影響の要点をあげると次のようになる。

 第一次世界大戦は連合国(協商国)側の勝利として終わったが、直接的な被害だけでなく、戦勝国・敗戦国を越えて大きな影響を及ぼした。人類最初の世界大戦によってもたらされた変化をまとめると次のようになる。

・旧帝国の消滅

 第一次世界大戦の結果として、ドイツ帝国(ホーエンツォレルン家)、オーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク家)、ロシア帝国(ロマノフ家)という中世以来の専制君主制国家が崩壊した。また、オスマン帝国でも大戦末期にトルコ革命が始まり崩壊した。そのため、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国、オスマン帝国に支配されていた東ヨーロッパやバルカン半島の諸民族が独立を達成することとなった。

・イギリスの没落

 第一次世界大戦の結果、イギリスは戦勝国ではあったが、戦争のために疲弊し、また植民地でも反英独立運動が活発になってその統制は弱まり、19世紀中ごろからの「大英帝国」の繁栄、第二帝国またはパックス=ブリタニカといわれた状況は終わりを告げることとなった。

・社会主義国の出現

 第一次世界大戦の末期に、ロシア革命が勃発し、世界最初の社会主義国家としてロシア(ソヴィエト=ロシア。ソ連の成立は1922年)が出現した。一方で資本主義を繁栄させたアメリカ合衆国を中心とした陣営は、「自由主義」を掲げて、社会主義勢力の拡大や革命の伝染を警戒するようになった。

・アメリカの繁栄

 途中から第一次世界大戦に参加したアメリカ合衆国は、戦後に債務国から債権国に転換し、世界の強国にのし上がった。戦後の1920年代は「永遠の繁栄」と言われる最盛期を迎える。

・東ヨーロッパ諸国の独立

 東ヨーロッパの大国に従属していた諸民族が、アメリカ大統領ウィルソンの「民族自決」の理念に沿って、戦後に独立を達成した。ハンガリーとチェコスロヴァキアはオーストリアから分離独立した。またオーストリア領であったボスニア・ヘルツェゴビナはセルビア・モンテネグロと共に新たにユーゴスラビアを建国した。またポーランド、バルト三国(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)、フィンランドがロシア帝国からの独立が認められた。

・植民地の民族主義運動の激化

 帝国主義国家間の矛盾が世界戦争に行き着いたことから、それまで植民地として支配されてきたアジア・アフリカの諸民族の中から、民族の独立を求める運動が本格化した。特にイギリスの支配を受けていたインドでのガンジーらによる新たな独立運動の展開、西アジアのアラブ諸民族の自立の動き、中国の五・四運動や朝鮮での三・一独立運動に見られる動きなどが重要である。また大戦後の民族独立運動は、ロシア革命によって登場した社会主義運動とも結びついていく。

・新たな武器と総力戦の始まり

 第一次世界大戦は戦争の規模がかつて無かっただけでなく、その質を大きく変化させ、戦争の犠牲が非戦闘員にも直接及ぶという現代の戦争形態の始まりとなった。特に、航空機毒ガス戦車潜水艦といった新しい武器の出現は大量殺戮と非戦闘員を巻き込む現代の戦争の特色を見ることができる。また、戦争が一部の職業的な軍隊によっておこなわれるのではなく、国家の経済や国内体制、世論の結束なども求められる総力戦となったことも、現代の戦争の特質であった。

・勢力均衡論から集団安全保障へ

 今、第一次世界大戦から学ばなければならないのは、列強がそれぞれ軍事同盟を結んで、利害の対立する陣営との勢力均衡をはかる国際政治のあり方が破綻した、ということである。ヨーロッパのイギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ロシアという五大国がその帝国主義的な利害の対立から、かつての普仏戦争のような戦争がいつ起こるかわからない状態の時、バルカン問題という先鋭的な対立点が表面化した。そのとき各国が戦争回避のために採ったのがビスマルク以来の勢力均衡論であった。しかも二国間の軍事同盟や領土・植民地分割協定は多くは秘密条約とされた。このような勢力均衡論、秘密外交が、サライェヴォの銃声によって破綻したのが第一次世界大戦であった。
 そして大戦後の新しい国際秩序は、ヨーロッパ五大国以外のアメリカ合衆国が主導権を握った。ウィルソンの理念は、国際連盟という国家間の協議の場を作り、秘密外交を排して国家間の紛争を解決していこうという集団安全保障の理念によってもたらされた。これが、千数百万という犠牲を出した世界戦争という悲劇から人類が学んだことだ。ただ不幸にしてウィルソンの理念は、当のアメリカ議会が否定してアメリカが加わらなかったこと、一方で新たに登場した社会主義国ソヴィエト=ロシアをその集団に加えなかったことでうまくいかなかった。また敗戦国ドイツに対する、過酷な賠償金を主とする講和条件も適切ではなかった。そのような欠点から、この戦争には「第一次」という名称が後につけられてしまうことになったが、一度は世界が集団安全保障の理念で世界平和を維持しようと試みたことは軽視すべきではない。そしてその後「第二次」を防げなかったという失敗があったからこそ、現在、「第三次」の勃発を曲がりなりにも抑止することができている。間違えてはならないことは、「集団的自衛権」ではなく「集団安全保障」ということだ。
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ノートの参照
第15章1節 ア.第一次世界大戦の勃発
第15章1節 イ.戦時外交と総力戦
第15章1節 ウ.対戦の結果
書籍案内
第一次世界大戦 表紙
A.J.P.テイラー
/倉田稔訳
『目で見る戦史 第一次世界大戦』
1963 新評論

岡義武
『国際政治史』1955
再刊 2009
岩波現代文庫

バーバラ・タックマン
『八月の砲声』
1962 山室まりや訳
ちくま学芸文庫

エーリッヒ=マリア=レマルク/秦豊吉訳
『西部戦線異常なし』
新潮文庫