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ニコライ2世

ロシア帝国ロマノフ朝の最後の皇帝(1894~1918)。皇太子時代に日本で大津事件に遭遇した。1904年、日露戦争に踏みきり、第1次ロシア革命勃発に至る。バルカンを巡りオーストリアとの対立を深め、1914年の第一次世界大戦の要因をつくり、戦争中の1917年、ロシア三月革命で退位。その渦中で1918年7月、ボリシェヴィキによって殺害された。

 ロマノフ朝ロシアの最後のツァーリ(皇帝)。父の皇帝アレクサンドル3世のもとで皇太子であった時の1891年(明治24年)5月、ウラジヴォストークでのシベリア鉄道の起工式に参加するために途中で来日し、滋賀県大津で暴漢に襲われた(大津事件)ことがある。

大津事件

 皇太子ニコライは、1890年3月、首都ペテルスブルクを出発、オーストリアを経てギリシアから軍艦アゾヴァ号に乗船し東洋巡航に乗り出した。香港などを歴訪の後、4月27日、長崎に到着。鹿児島を経て5月9日、神戸に上陸、翌10日には京都御所、二条城などを見物し、11日に琵琶湖遊覧に向かった。湖上遊覧を楽しんだ後、滋賀県庁での午餐会に臨み、終了後の午後一時、京都に向けて出発、大津市内京町通り下小唐崎を通行中、警備中の巡査津田三蔵が突然抜刀し、人力車上のニコライを後方から斬りつけ、右側頭部に二ヶ所の傷を負わせた。
 ニコライ遭難の報を受けた明治天皇は驚愕し、翌日自ら臨時列車で京都に向かい、13日午前、滞在中の宿舎にニコライを見舞った。傷は軽症であったが、ニコライは日本人医師の手当てを好まず、5月までの滞在日程を切り上げ、5月19日、神戸よりウラジヴォストークに向けて離日した。明治天皇は神戸での出航まで同行した。
 明治政府(松方正義内閣)は、滋賀県知事沖守固を懲戒免官、青木周蔵外相と西郷従道内相がそれぞれ引責辞職させた。青木外相は日露関係の悪化を恐れ、元老もロシアの対日感情の悪化を考慮して、大審院(現在の最高裁にあたる)長の児島惟謙に犯人を死刑にするよう圧力をかけた。しかし、5月29日、大津地方裁判所で開廷された大審院特別法廷は、津田三蔵に対して無期懲役の判決を言い渡した。これは司法権の独立を守ったとされ日本近代史において特筆される判決だった。
 当時日本には、当時の著名なジャーナリスト徳富蘇峰をはじめ、ニコライ皇太子の訪日を将来の戦争に備えた敵情視察であるとする論調が盛んで、犯人の動機もその風説を信じたためと言われている。ニコライの訪日にそのような意図があったかどうかは別として、大津事件はその10年ほど後のシベリア鉄道の開通、その直後の日露戦争へと収斂していく出発点となった。<井上勇一『鉄道ゲージが変えた現代史』1990 中公新書 p.13-17>

帝国主義政策の強化

 1894年10月20日、父アレクサンドル3世が死去したために皇帝となった。戴冠式は1896年5月14日に挙行、参列した清の李鴻章や日本の山県有朋らと戴冠式外交が展開された。ニコライ2世の時代は、ツァーリズムの強化と特にロシアの東アジア侵出というロシアの帝国主義政策を推進した。蔵相ウィッテがそのもとで実質的に政策を進め、1895年の三国干渉、1896年の東清鉄道敷設権の獲得を進めた。また1898年の列強により中国分割に加わり、旅順・大連の租借・南満支線の敷設などを行った。ヨーロッパではドイツ・オーストリアと対抗するため、露仏同盟を強化しており、シベリア開発もフランス資本の援助によって進められた。1900年、清で義和団が反乱を起こすと他の列強とともに出兵、1900年8月14日 に北京が奪回され反乱は鎮圧(北清事変)され、翌年、講和が成立し北京議定書が締結されたものの、ロシアは鉄道保護の口実で満州から撤兵せず、イギリス・日本との対立が先鋭になってきた。特に朝鮮ではロシアの影響力が強まり、日本に大きな脅威を与えた。

万国平和会議の提唱

 一方でニコライ2世は、帝国主義列強間の戦争の危機を緩和、回避するために、1899年の第1回と、1907年の第2回の2度にわたり、ハーグ万国平和会議の開催を提唱した。この会議では国際仲裁裁判所の設置や毒ガスの使用禁止を含む戦時国際法(あわせてハーグ条約という)の制定などの成果を上げたが、各国の利害の対立から実効力を持たせることはできなかった。

日露戦争と第1次ロシア革命

 ロシアは東アジアに侵出した日本との対立から、1904年2月、日露戦争に踏み切ったが、実質的な敗北を喫し、また国内で戦争を継続する帝政への不満が高まって1905年1月の「血の日曜日」事件から第1次ロシア革命が勃発した。
 ロシアは1905年9月5日にポーツマス条約を締結して戦争を終結した後、首相ウィッテが中心となって自由主義的な改革をとりまとめ、1905年10月17日にニコライ2世の名で十月宣言を発して国会(ドゥーマ)の開設などを約束した。
 しかしこの動乱を乗り切ると、ニコライ2世の宮廷はほどなく反動化し、ツァーリ専制政治を復活させた。日露戦争後は日本との支配圏分割に応じて東アジアからは後退し、再びバルカン方面への進出をはかるようになり、オーストリアとの対立を深め(バルカン問題)、第一次世界大戦の原因のひとつを作った。

第一次世界大戦と第2次ロシア革命

 第一次世界大戦が始まると8月のタンネンベルクの戦いで大敗したのを機に、ドイツ・オーストリア軍の侵攻を許し東部の広大な国土を占領された。このような危機にもかかわらず、ニコライ2世は宗教家ラスプーチンを重用し、政治は混乱した。この危機に国内の矛盾が一気に噴出し、1917年3月8日、二月革命(三月革命)が勃発、1917年3月15日に退位した。その後、反動勢力に利用されることを恐れた革命政府に捕らえられ、シベリアのエカチェリンブルク付近で殺害された。後になってそのとき処刑された娘のアナスタシアの生存説が流されるなど、今でも処刑については謎が多い。 → 第2次ロシア革命

Episode ニコライ2世と「ホディンカの惨劇」

 1896年5月18日、モスクワのホディンカ原で、ニコライ2世の即位の式典が開催された。皇帝が贈り物のお菓子を群衆に配布しようとしたところ、集まっていた群衆が殺到し、将棋倒しになって1389名の死者が出るという惨事となった。ロシアではその後、大惨事のことを「ホディンカ」というようになったという。その後、この原は軍の飛行場となったが、1935年にはソ連の旅客機が空中衝突して48人が死ぬという事故が起こった。02年には飛行場の一部が高層住宅に転用されたが、その工事ではモスクワ市長の汚職事件が起こっている。今度、飛行場は廃止され、商業施設に転用されることになったが、また何か「ホディンカ」が起きるのではないかと、モスクワでは心配されているという。<朝日新聞 2006年5月18日の記事による>

NewS ニコライ2世の家族アルバム、公開

 ロシアのエカテリンブルクの博物館で、2013年5月、帝政ロシア最後の皇帝ニコライ2世の家族アルバムが公開された。アルバムには210枚の写真があり、大半は未公開で、皇帝自身が写したものもあり、皇帝のリラックスした普段の姿も記録されていた。ニコライ2世は1917年3月に退位後、シベリア西部のトボリスクの離宮で幽閉生活の後、ボリシェヴィキ政権樹立により、エカテリンブルクに移され、1918年7月、その地の地下室で家族ともども銃殺された。幽閉生活の間、皇帝自身がひまつぶしに家族アルバムを作ったと思われる。それがどのような経緯で博物館に収納されたかは不明である。2013年は、ロマノフ朝創設の1613年から400年周年にあたっており、その記念に「最後の皇帝」のアルバムが公開され、ロシア国民に熱狂を以て迎えられたという。AFPbb News 2013/5/20

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