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ニコライ2世

1917年、ロシア革命の渦中で殺害された、ロシア帝国ロマノフ朝の最後の皇帝。

ロマノフ朝ロシアの最後のツァーリ(皇帝)。父アレクサンドル3世の皇太子時代の1891(明治24)年、ウラジヴォストークでのシベリア鉄道の起工式に参加するために途中で来日し、滋賀県大津で暴漢に襲われた(大津事件)ことがある。

帝国主義政策の強化

 1894年に皇帝となってからは、ツァーリズムの強化と特に東アジアへの進出というロシアの帝国主義政策を推進した。蔵相ウィッテがそのもとで実質的に政策を進め、1895年の三国干渉、1896年の東清鉄道敷設権の獲得を進めた。また1898年の旅順・大連の租借などを行った。露仏同盟を強化してフランス資本の援助によるシベリア開発を進めた。

万国平和会議の提唱

 一方でニコライ2世は、帝国主義列強間の戦争の危機を緩和、回避するために、1899年と1907年の2度にわたり、ハーグ万国平和会議の開催を提唱した。この会議では国際仲裁裁判所の設置や毒ガスの使用禁止を含む戦時国際法の制定などの成果を上げたが、各国の利害の対立から実効力を持たせることはできなかった。

日露戦争と第1次ロシア革命

 東アジアに侵出した日本との対立から、1904~5年の日露戦争に踏み切ったが、実質的な敗北を喫し、また国内で戦争を継続する帝政への不満が高まって第1次ロシア革命が勃発した。ニコライ2世は十月宣言を発して国会/ドゥーマの開設などを約束した。しかしこの動乱を乗り切ると、ほどなく反動化し、ツァーリ専制政治を復活させた。日露戦争後は日本との支配圏分割に応じて東アジアからは後退し、再びバルカン方面への進出をはかるようになり、オーストリアとの対立を深め(バルカン問題)、第一次世界大戦の原因のひとつを作った。

第一次世界大戦と第2次ロシア革命

 第一次世界大戦が始まると8月のタンネンベルクの戦いで大敗したのを機に、ドイツ・オーストリア軍の侵攻を許し東部の広大な国土を占領された。このような危機にもかかわらず、ニコライ2世は宗教家ラスプーチンを重用し、政治は混乱した。この危機に国内の矛盾が一気に噴出し、1917年三月革命が勃発、3月15日に退位した。その後、反動勢力に利用されることを恐れた革命政府に捕らえられ、シベリアのエカチェリンベルク付近で殺害された。後になってそのとき処刑された娘のアナスタシアの生存説が流されるなど、今でも処刑については謎が多い。 → 第2次ロシア革命

Episode ニコライ2世と「ホディンカの惨劇」

 1896年5月18日、モスクワのホディンカ原で、ニコライ2世の即位の式典が開催された。皇帝が贈り物のお菓子を群衆に配布しようとしたところ、集まっていた群衆が殺到し、将棋倒しになって1389名の死者が出るという惨事となった。ロシアではその後、大惨事のことを「ホディンカ」というようになったという。その後、この原は軍の飛行場となったが、1935年にはソ連の旅客機が空中衝突して48人が死ぬという事故が起こった。02年には飛行場の一部が高層住宅に転用されたが、その工事ではモスクワ市長の汚職事件が起こっている。今度、飛行場は廃止され、商業施設に転用されることになったが、また何か「ホディンカ」が起きるのではないかと、モスクワでは心配されているという。<朝日新聞 2006年5月18日の記事による> 
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ノートの参照
第14章1節 オ.ロシア
第15章1節 エ.ロシア革命