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北イタリアのストライキ

第一次世界大戦後の経済危機が深刻になる中、1919~20年にかけて、イタリア社会党が指導した工場占拠などを含む激しい運動。

 イタリア社会党は第一次世界大戦では一貫して戦争反対を貫き、参戦を主張したムッソリーニを除名した。党内では議会を通じて漸進的に改革を進めようという主流派に対して、労働者の直接行動を重視した急進派が対立していたが、1917年のロシア革命の成功は急進派の勢力を増大させ、彼らは労働者に対してストライキを呼びかけ政治体制の転換を目指した。そのような情勢の中で、1919年から20年の二年間は、特に北イタリアの工業地帯で労働者による工場占拠などを伴うストライキが相次ぎ、さらに農村では農民による土地の占拠などが続いて「赤い二年間」といわれる革命的状況となった。 → イタリア(6)

「赤い二年間」

 1919年の夏、食糧危機による暴動が北・中部イタリアで発生し、商店の略奪が広がり、いくつかの都市の広場には革命の象徴である自由の木が植えられて共和国の誕生が宣言された。この年のストライキ参加者は100万人を超え、翌年はさらに倍増した。
 暴動の大きな要因は、1918年以降の経済危機であり、戦後の軍隊解散、軍需工場の閉鎖に伴う失業者の増大(1919年に200万に達した)、さらにインフレが進行(卸売物価指数が50%近く上がる)し、年金生活者や給与が固定されている公務員を直撃した。農村では戦争中に地代は凍結されていたうえ、復員した農民が地主に土地の分配を迫って不法に占拠するなどの紛争が起こった。

工場占拠事件

 1920年9月にはいわゆる「工場占拠」事件が起こった。4週間以上もの間、延べ50万人の労働者が、工場や造船所を占拠し続け、経営責任者を追い出し、赤旗を掲げた。時のジョリッティ内閣は軍を出動することをためらい、経営者に譲歩を要求し、労働者の企業経理監査を認める法律に同意した。こうして一挙にイタリアでの革命が成功するかと思われたが、イタリア全土の大衆を革命行動に巻き込むことはできず、革命は起きなかった。

革命には至らず

 1919~20年の「赤い二年間」の蜂起は、全国的な戦略がなく、統一を欠いた危険な暴動に終わった。トリノではアントニオ=グラムシの指導によって労働者が管理する新しい国家政体の基本制度として「工場評議会」が設立されるなど実験的な試みが行われたが、その動きは他の都市にはひろがらず、地域によってはサンディカリストやアナーキストが主導権を握るなど、指導層の統一と方向性を欠いた労働運動であった。イタリア社会党の指導者セッラティは、革命に踏み切れば西欧諸国の干渉を受け鎮圧されるのではないかと恐れ、大衆の革命蜂起をむしろ押さえようとした。このストライキを指導して力をつけたグラムシらは1921年にイタリア共産党を結成した。
 1920年後半の不況色が一段と強まると運動を支えて労働者は使用者からの解雇を恐れて運動から離れていった。不況下で経営者や地主はコスト削減に必死で、雇用を守ることは困難になっていた。そのようななかで1920年末にファシスト党による暴力的な攻撃が激しく加えられるようになり、軍や警察もそれを放置する中、ストライキは急激に衰え、代わってファシストの運動が盛り上がることとなった。<ダカン『イタリアの歴史』2005 ケンブリッジ版世界各国史 創土社 p.276-279>
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ダカン/河野肇訳
『イタリアの歴史』
ケンブリッジ版世界各国史
2005 創土社