印刷 | 通常画面に戻る |

イタリア

イタリア半島はローマ帝国が生まれたことに代表される地中海世界の中心地域であるが、ローマ帝国以降は基本的には統一されることがなく、長い分裂の時期が続いた。現在のイタリアの起源は1861年という、近代に入った時期にまで降ることにまず注意しよう。主権国家の形成は西ヨーロッパで最も遅れたが、しかし、都市国家ローマ以来のラテン文化、キリスト教世界の中心としてのローマ教皇、さらにルネサンスの震源地、などなど文化史的には一貫してヨーロッパをリードする地域であり、それが民族的誇りともなっていることも事実である。

 → (1)ローマ時代  (2)帝国崩壊後のイタリア半島  (3)ルネサンス時代  (4)リソルジメントの時代  (5)第一次世界大戦  (6)ファシズムの台頭  (7)第二次世界大戦  (8)王政廃止 → ローマの歴史

(1)ローマ時代

半島中部に起こった都市国家ローマが半島を統一し、さらに地中海世界を支配する帝国となる。

ローマ以前のイタリア半島

 イタリア半島には北部にイタリア人が南下して都市国家を作り、南部にはギリシア人フェニキア人植民市を建設した。半島の中部にあった都市国家ローマは始め北部にいたエトルリア人に支配されていたが、イタリア人の一派のラテン人エトルリア人の王を追放して共和政国家を築た。都市国家ローマが次第に有力となって周辺の都市を制圧して、半島統一戦争を展開し、さらにポエニ戦争を機にシチリア属州として獲得、その支配を西地中海全域に及ぼした。

ローマ帝国

 AD25年にローマ帝国が成立、イタリア半島はその文明の中心地として繁栄、1~2世紀の全盛期を迎えた。そのころからキリスト教も半島に及び、始めは弾圧されたが、次第に浸透していった。4世にローマ帝国が東西に分裂すると、西ローマ帝国がイタリア半島を支配し、ローマやラヴェンナを都とした。
 4世紀末以降、盛んにゲルマン人の侵攻を受けるようになり、476年にゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって西ローマ帝国は滅亡した。

イタリア(2) ローマ帝国後のイタリア半島

西ローマ帝国滅亡後、東ゴート、ビザンツ帝国の支配を受ける。フランク王国分裂によってイタリア王国が成立。中部はローマ教皇領となる。

ゲルマン諸国とローマ教皇

 次ぎに東ゴートのテオドリックがオドアケルを倒してイタリアに東ゴート王国を建設したが、6世紀には地中海支配の回復を目指す東ローマ帝国のユスティニアヌス帝によって滅ぼされた。東ローマ帝国はラヴェンナに総督府を置いてイタリアを支配したが、最後のゲルマン人の移動と言われるランゴバルド人の侵攻を受け、バルカン半島に後退した。北イタリアは再びゲルマン系の国家ランゴバルド王国が支配したが、フランク王国ピピンの寄進によってラヴェンナを領有することとなったローマ教皇は、フランク王国を新たな保護者として中部イタリアに勢力を有するすることとなった。南イタリアにはビザンツ帝国の支配が続いていたが、8世紀になると南イタリアにはイスラーム勢力の侵入が及んできて新たな脅威となり始めた。

フランク王国の分裂とイタリア

 フランク王国のカール大帝がランゴバルド王国を滅ぼし、800年にローマ教皇からローマ帝国皇帝の冠を授けられ、形式的には西ローマ帝国を復活させ、北イタリアはフランク王国の一部となった。しかし、870年のメルセン条約で中部フランク(ロタールの国)のアルプス以北が東フランクと西フランクに再分割され、残った中部フランクのイタリア半島の地域がイタリア王国となった。カロリング朝の王位は875年には断絶してしまい、国家統一を保つことは出来なかった。それ以降のイタリアは、中世から近代初頭に至るまで、長い分裂の時代を経ることとなる。分裂期の各地域のおよその動きは次のようになる。

分裂期のイタリア

  • 北イタリア 神聖ローマ帝国(ドイツ王)は代々「イタリア政策」に力を入れ、イタリアを支配しようとしたが、12世紀末には十字軍運動を機に東方貿易が盛んになったことによって北イタリアのヴェネツィアとジェノヴァなどの海港都市は大いに繁栄し都市共和国(コムーネ)となった。
  • 中部イタリア ローマ=カトリック教会の首長であるローマ教皇は中部イタリアにローマ教皇領をもち、教皇庁を通じて支配した。13世紀には最大となったが、14世紀ごろからローマ教皇の権威の低下にしたがって神聖ローマ皇帝やフランス王に浸食されるようになった。
  • 南イタリア 南イタリアはシチリアなどとともにビザンツ帝国の支配が続いたが、9世紀にはイスラーム勢力の侵入が激しくなり、その支配を受けることとなる。次いで11世紀には、ノルマン人による両シチリア王国が成立、その後はヨーロッパの強国の介入もあって、いくつかの政権が交互することとなる。

イタリア(3) ルネサンスの時代

14~16世紀、分裂状態が続く中、フィレンツェ・ローマなどの都市でルネサンスが展開される。15世紀末~16世紀前半はイタリア戦争の戦場となる。

 十字軍時代後の商工業、東方貿易などの遠隔地貿易が再興され、ヴェネツィアジェノヴァミラノフィレンツェなどの都市共和国(コムーネ)が成長し、互いに競い合っていた。北イタリアのこれらの都市はロンバルディア同盟を結成して皇帝に抵抗した。また皇帝とローマ教皇の対立と結びつき、都市同士や都市内部の有力者は皇帝党/ギベリン教皇党/ゲルフに分かれて争った。
 ローマ教皇もアビニヨン捕囚、大分裂によって権威は衰えたものの、中部イタリアに教皇領を所有し、宗教的にはまだ大きな力を握り、政治的にも都市共和国を牽制しながら、キャスティングボードを握っていた。
 またこのようなイタリアの分裂状態に対し、フランスとスペイン(神聖ローマ帝国)が介入し、複雑な国際情勢が展開され、両国軍がたびたびイタリアに侵入してイタリア戦争を繰り返していた。このような政治的には混乱した時代が、ルネサンスの展開された時代であった。

イタリア=ルネサンスの条件

 ルネサンスが14~15世紀に、イタリアで始まり、展開された背景には、ローマ文化の古典古代の遺産があったこととともに、イスラーム文化と接触し、それを通してギリシア文化を採り入れることができたことがあげられる。
 北イタリアのヴェネツィアやジェノヴァなどの商人による東方貿易(レヴァント貿易)によってビザンツ、イスラーム世界と接触していたが、十字軍運動によってもたらされた新しい情報も集まってきていた。また南イタリアはシチリア島などで直接イスラーム教徒と接触することがあり、キリスト教文明の価値観を超えた刺激を受けやすい位置にあったといえる。特にイタリア=ルネサンスに大きな刺激となったのが1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落、つまりビザンツ帝国の滅亡であった。その際、ギリシアの学者たちはイスラーム教の支配を逃れて、まずヴェネツィアに亡命したが、ヴェネティアでは彼らを受けいれる気風はなく、そこからさらにフィレンツェに移ってきた。彼らによってギリシア思想がフィレンツェに移植されたことも、ルネサンスの発展を考える際に重要である。彼らはギリシア・ローマの古典をもたらしただけでなく、イスラーム文化の影響もヨーロッパ世界に伝えることになった。

イタリア戦争

 15世紀末に始まり、16世紀中頃に終わったフランスと神聖ローマ帝国がイタリアを舞台に戦ったイタリア戦争は、イタリア=ルネサンスを終わらせただけでなく、ヨーロッパの戦争形態を一変させ、そしてイタリアに国民意識を芽生えさせ、主権国家を形成する契機をももたらした。
フランス軍の侵入 イタリア戦争はフランスのヴァロア朝シャルル8世が1494年にナポリ王国の王位継承権を主張してイタリア侵入したことから始まり、1499年には同じくルイ12世がミラノ公国の領有権を主張して侵入するなど、フランスの介入に対する、ローマ教皇やスペイン王、神聖ローマ皇帝の反撃として展開された。1521年からはフランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝ハプスブルク家のカール5世(スペイン王カルロス1世)の対立という構図が明確になった。
スペインによるイタリア支配へ カール5世は1555年にタイすると、ハプスブルク家はオーストリアとスペインに分かれ、スペインはフェリペ2世が継承した。フェリペ2世は1559年のカトー=カンブレジ条約でイタリア戦争を終結、およそフランスをイタリアからの撤退させ、イタリアに対するスペイン=ハプスブルク家の支配を強化した。ミラノ、ナポリ、シチリアはスペインのフェリペ2世が統治することとなったのである。
商業革命によるイタリア経済の沈滞 15~16世紀、イタリアのほぼ全域を支配したスペインでは大航海時代が展開され、ヨーロッパ経済の中心が大西洋岸に移動するという商業革命がおこった。その結果、イタリア諸都市の経済を支えていた地中海貿易は相対的に衰退し、イタリア経済も沈滞期に陥った。

オーストリアによるイタリア支配

 17世紀まで、イタリアは実質的にスペインの支配と分裂の下におかれ、他のヨーロッパ諸国が主権国家体制に移行していく中で、政治的にも経済的にも停滞した。しかし、スペインそのものも1700年にスペイン=ハプルブルク家のカルロス2世が継嗣なく死去したことから激しい変動が起こった。
スペイン継承戦争 1701年、フランスのルイ14世がスペインの王継承権を主張して孫のフェリペ5世を即位させたことから、スペイン継承戦争が勃発、10年以上続いた戦争は1713年のユトレヒト条約で終結した。オーストリア=ハプスブルク家は1707年にロンバルディアを獲得、さらに1714年のラシュタット条約でそれまでスペイン=ハプスブルク家領であった南ネーデルラントミラノナポリ王国サルデーニャを獲得した。この戦争においてもイタリアは各国の戦利品として分割され、その分割にはイタリア人の意志はまったく容れられなかった。

サルデーニャ王国

 フランスとオーストリアの中間にあったサヴォイア公国は、スペイン継承戦争でオーストリア・イギリスに協力したことによって勝利者側に入りユトレヒト条約シチリア王国を獲得して「王国」となった。1720年、シチリアをオーストリアに譲渡し(形式的な王位は維持した)、代わりにサルデーニャを獲得、かくしてピエモンテとサルデーニャ島を支配するサルデーニャ王国(首都はピエモンテのトリノ)が成立した。このサルデーニャ王国がやがてイタリア統一の核となっていく。

イタリア(4) リソルジメントの時代

ナポレオンのイタリア遠征を契機として、イタリアの統一運動(リソルジメント)が始まり、1861年にイタリア王国が成立。

ナポレオンのイタリア遠征

 分裂と外国支配が続くイタリアに、民族意識と統一意識をもたらしたのは、1796~97年のナポレオンイタリア遠征であった。ナポレオンは、北イタリアのロンバルディア、モデーナ、教皇領とヴェネツィアの一部を合わせて、衛星国家チザルピナ共和国(ラテン語で「アルプスの手前のガリア」の意味。ロンバルディア地方をさす)を樹立、ミラノを首都とした。ナポレオン没落後のウィーン会議の結果、ウィーン議定書でオーストリアの支配が復活した。
イタリア遠征 ナポレオンはフランス総裁政府に命じられ、イタリア遠征軍を率いて北イタリアに侵攻、オーストリア・サルデーニャ連合軍を破り、チザルピナとシスパダーネという二つの共和国をつくった。カンポ=フェルミオの和約を締結してフランスに引き揚げた。1798年にはフランス軍はローマに侵攻し、教皇ピウス6世に退位を迫りローマ共和国の樹立を宣言した。こうしてイタリア各地に革命的政権が成立したが、ナポレオンがエジプト遠征に転じると、北イタリアの各政権は互いに争い、混乱が深まっていった。1799年に権力を掌握したナポレオンは、1800年に再びアルプスを越えてイタリアに侵攻、以後15年間のイタリアは、シチリア島とサルデーニャ島を除き、フランスの分割支配を受けることとなった。
ナポレオンによるイタリア支配 ナポレオン支配下のイタリア半島では、合法性という言葉はその意味を失い、各地で新しい国と為政者が誕生、イタリア人の意図と関係なく国境線は頻繁に引き直され、ほとんどの人は自分が今何という国に住んでいるかさえ答えられない状態となった。チザルピナ共和国は1802年からはナポレオンを大統領とするイタリア共和国と改称され、トスカナはエトルリア王国となり、ピエモンテ・パルマなどはフランスに併合された。さらに1805年には北部にミラノを首都とするイタリア王国となった。ナポリ王国は1806年にフランスに占領され、ナポレオンの弟ジョゼフがナポリ王として即位した。
 ナポレオンが占領できなかったのはシチリア島とサルデーニャ島であったが、この二島にはイギリスが海軍を派遣し、フランス軍の上陸を阻止した。1806年にはイギリス軍はシチリア島にブルボン家の国王を保護する名目で島に上陸して占領したが、その目的は貴重な硫黄がフランス軍の手に落ちることを防ごうとした戦略的行動であった。サルデーニャにはサヴォイア国王が亡命し自治政権を建てた。こちらもイギリス艦隊にに守られていた。
 フランス統治時代のイタリアでは、特に北イタリアにおいては封建地代の廃止、10分の1税の廃止など改革が実行され、産業の発展と中産階級の成長も見られたが、南イタリアでは封建制度は根強く残っていた。ナポレオンによって、自由と平等というフランス革命の精神がイタリアにもたらされたが、その一方でナポレオンはイタリアをフランス帝国に組み込み、公用語としてフランス語を強要したことは、イタリア人の反発を招き、彼らの民族的自覚を呼び起こすこととなった。

ウィーン体制下のイタリア

 1814~15年にナポレオンのフランスが敗れ、オーストリア軍が勝利した結果、あっという間に旧体制が復活した。サルデーニャ王国(ヴィットリオ=エマヌエーレ1世。ピエモンテとサルデーニャ島を支配し、都はトリノ)、フィレンツェ公国は復活し、ローマ教皇はローマに戻った。ウィーン体制は正統主義が標榜されたが、現実にはオーストリアがほとんどイタリア半島全体を支配することとなった。ロンバルディアとヴェネツィアはオーストリアに直接統治され、モデナとパルマの両公国はハプスブルク家の所領となり、ナポリ王国はオーストリアの同盟国として事実上従属した。多少とも独立性を維持できたのはオーストリアとフランスの緩衝国となったピエモンテ(サルデーニャ王国。ニースとサヴォイアを回復し、ジェノヴァを併合した)だけとなった。
青年イタリア ウィーン体制の時代、ヨーロッパ各地で自由主義と民族主義(ナショナリズム)の運動が盛んになった。ウィーン体制の柱となったオーストリアのメッテルニヒはこれらの運動をきびしく弾圧した。イタリアにおいてもオーストリアの支配からの解放をめざす民族主義者がカルボナリといわれる結社をつくり、蜂起したが、厳しく弾圧された。この運動を契機としてイタリアでもイタリア統一運動(リソルジメント)が始まった。イタリアの独立運動を担ったのは。マッツィーニらが組織した青年イタリアであった。

イタリア統一戦争

 その運動も弾圧されたが、サルデーニャ王国のカブールは、フランスの支援を受けてオーストトリアとのイタリア統一戦争を戦った。この時はフランスのナポレオン3世が単独で講和したため、北イタリア全土の解放はできなかったが、続いて青年イタリアの残党ガリバルディによるシチリア占領、さらにナポリ占領に続いて南イタリアをサルデーニャ王に献上したことによって、1861年にイタリア王国が成立した。

イタリア王国

 さらに1866年、普墺戦争でプロイセンを支援たことによってヴェネツィアを併合し、さらにローマ教皇領の併合が1870年に実現してイタリア統一は完成し、翌年にローマが正式に首都となった。
 1870年には、普仏戦争でフランスが敗れ、勝ったプロイセンのビスマルクは、ヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世の皇帝即位式を行い、ドイツ帝国を樹立した。イタリアとドイツが近代的な国民国家を県瀬下のがほぼ同時であったことは興味深い。また遠くアジアの地では日本が1868年に明治維新によって近代国家としての歩みをはじめている。

残された問題

 イタリア王国はこうして統一を達成したが、いくつかのイタリア人居住地がまだ併合されておらず、未回収のイタリアとして残ったこと、ローマ教皇との関係があったことが問題点として残っていた。

イタリア(5) 第一次世界大戦

ドイツ・オーストリアとともに三国同盟を締結したが、次第に離反し、第一次世界大戦が起こるとイギリスとの密約で監獄協商側について戦った。

三国同盟の締結

 19世紀末、ヨーロッパの資本主義先進諸国が帝国主義段階に達し、盛んに海外領土を拡張してくると、イタリアでもそれに便乗した動きが生じ、まず地中海の対岸の北アフリカと、アドリア海の対岸のバルカン半島への関心が高まった。
 とくに1877年に露土戦争でオスマン帝国がロシアに敗れたことを受けて、北アフリカのオスマン帝国領であったチュニスへの侵出をはかるようになった。ところが、戦後のベルリン会議の結果、イギリスのエジプト進出を認める代わりに、フランスのチュニス進出を認めれれ、1881年に出兵して保護領とした。イタリアはこのフランスのチュニス占領に危機感を持ち、翌1882年にフランスに対抗するためにドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国との三国同盟を結成した。これはドイツのビスマルクの働きかけに答えたものであったが、同時にクリスピ首相のフランスを仮想敵国とする外交方針によるものであった。

クリスピの攻撃的外交

 1880~90年代のイタリアを首相として主導したクリスピは、マッツィーニの影響を受け、ガリバルディのシチリア遠征にも参加した共和主義者であったが、リソルジメントの栄光を再現したい欲求を強く持っていた。内政ではシチリア島で起こった「ファッシ」という農民の暴動を押さえこみ、社会主義政党を解散させるなど労働者の運動も弾圧して政府の権威を強め、外交ではフランス敵視とアフリカ進出という好戦主義で国民の愛国心を喚起しようとした。フランスはローマ教皇(バチカン)と結んでイタリア侵攻を企てていると宣伝して、敵意をあおり、三国同盟結成に動いた。北アフリカでは80年代からエチオピア侵出を画策した。チュニスをフランスに占領されたイタリアは、残る北アフリカの大国エチオピアへの侵攻を企てた。しかし、1896年にアドワの戦いに敗れてエチオピア遠征に失敗し、クリスピも辞任に追いやられた。

帝国主義政策

 その後イタリアは、その帝国主義的膨張の対象をオスマン帝国領のトリポリに転換した。それを知ったフランスはイタリアをドイツから離反させる目的で、1900年に秘密協定を結びモロッコをフランスが、トリポリをイタリアが勢力圏とする分割協定を結んだ。さらに1909年にはロシアもイタリアと秘密協定を結び、バルカンでのロシアの行動をイタリアが承認する見返りにトリポリ・キレナイカの権益を認めさせた。これらの帝国主義的分割協定に基づき、イタリアは1911~12年にイタリア=トルコ戦争でトリポリ・キレナイカを獲得した。このように、イタリアは三国同盟を結んでいながら、ドイツ・オーストリアと敵対しているフランス・ロシアと早くから近づいており、三国同盟は形骸化していた。 → イタリアのアフリカ侵出

アメリカ大陸への移民の増大

 1901~14年のイタリアはその間の首相を務めた人物の中からジョリッティ時代ともいわれる。この時期はイタリアの工業がめざましく発展した時代であり、1899年にトリノで設立されたフィアット社に代表される自動車産業の発展が始まった。この発展は外国市場の活況による輸出の伸びによって支えられ、またイタリアの石炭不足を補う、アルプスの豊富な水資源を活用した水力発電が新たなエネルギー源として供給されるようになった。しかし、北イタリアにおける工業の急速な発展は、農村との格差をさらに広げ、特に南イタリアの貧しい農民は北イタリアに出て賃金労働者になるか、アメリカ大陸への移民として移住するかの道を選んだ。アメリカに向かった人々は新移民といわれ、その工業発展の労働力となった。
 ジョリッティ内閣は「近代化」を進めるため、労働者保護にも力を入れた。イタリア社会党も社会主義革命は工業化と工場労働者の増大が前提と考えていたので、主流派は内閣を支持した。しかしそれにたいして敵との妥協だとして反発する過激派も現れた。若き日のムッソリーニもその一人だった。一方、内閣が社会主義に迎合していると不満と不安を抱くようになった中間層は、強力な政府による強いイタリアを志向するナショナリストが生まれてきた。

第一次世界大戦で中立宣言の後、連合側に参戦

 ジョリッティ内閣は第一次世界大戦が勃発すると、中立を宣言した。その口実は、ドイツ・オーストリアのセルビアへの宣戦布告は「攻撃戦争」であり、三国同盟の規定しているのは防御同盟であるからイタリアには参戦義務はない、というものであった。そして1915年5月に至って、三国協商側に参戦した。それは1915年4月のロンドン秘密条約で、戦後の「未回収のイタリア」及びアドリア海沿岸のダルマチアなどの移譲を条件にイギリス・フランス・ロシアの三国協商側に参戦することを密約していたからであった。

イタリアが三国協商側についた理由

 もともとイタリアが三国同盟に加わったのは北アフリカにおけるフランスとの対立があったためにドイツに接近した結果であるが、オーストリア=ハンガリーとはトリエステや南チロルなど「未回収のイタリア」を占領されているので利害は一致していなかった。そのため両国関係はしっくりいっていなかった。それ以外にも、すでにフランスとはモロッコとトリポリ・キレナイカをそれぞれ互いに領有を認める協定を結び、オーストリアと敵対しているロシアとも秘密で協力を約束していたからであった。
(引用)ジョリッティが「イタリアは、中立を維持することによって、戦勝国との交渉において“相当の取り分”を獲得することができる」と主張したことはよく知られている。・・・しかし結局、イタリアは、首相と外相が一存で英仏と結んだ秘密協定のためにどうしても参戦せざるをえなくなった。イタリア首相と外相はその協定について議会にも、軍の意向も諮らず、おそらく国王にさえ知らせていなかったと思われる。1915年5月はじめ、イタリアが英、仏の味方として参戦することが判明したとき、抗議の嵐が巻き起こった。・・・しかし、もう手遅れだった。いまさら条約を撤回すれば、国の面目は丸つぶれになるであろう。<ダカン『イタリアの歴史』ケンブリッジ版世界各国史 創土社 p.265>
 ミラノに生まれた芸術家集団の未来派は「戦争は世界を救う唯一の治療薬である」と宣言し、ナショナリストたちは、参戦は「汚職にまみれた議員たちを駆逐し、売春宿のごとき議会を炎と鉄で浄化することによって」、「国家」を刷新する手段であるとみなし、参戦を声高く唱えた。イタリア社会党は中立を主張したが、機関誌編集長のムッソリーニは公然と参戦を主張し、党から除名された。

第一次世界大戦とイタリア

 イタリアの第一次世界大戦への参戦は、連合国側にとって期待されたほどの結果をもたらさなかった。1917年秋のカポレットの戦いでは、イタリア戦線でのイギリス・フランス軍との共同作戦であったが、大敗し、戦局を転換することはできなかった。その後はアルプス山麓で悲惨な塹壕戦を強いられた。しかし最終局面の1918年10月にはイタリア戦線のイタリア軍が連合国軍、アメリカ軍とともにオーストリア軍を追いつめ、11月4日に、南チロルからの撤退、連合軍のドイツ攻撃のためのオーストリア領内通過の自由などを条件に停戦を成立させた。
 第一次世界大戦後のパリ講和会議ではイタリア代表のオルランドがその主要メンバーとして参加し、オーストリア領の割譲を主唱したが、その結果成立したサン=ジェルマン条約ではトリエステと南チロルの譲渡だけが認められるにとどまり、ロンドン秘密条約でのその他の地域の領有は実現しなかった。この講和に対する国民の不満を背景に、復員兵などを中心にファシズムが台頭していくこととなる。

イタリア(6) ファシズムの台頭

領土拡張が認められなかったことからヴェルサイユ体制への不満が強まり、また戦後の不況の中で社会的不満が高まる中、ムッソリーニの率いるファシスト党が勢いを増し1922年に権力を獲得、ファシズム体制が成立する。

 第一次世界大戦は結果的に専制国家の敗北、議会制民主主義国の勝利となったことから、戦勝国に加わったイタリアにおいても、1918年12月に男性普通選挙制度に転換した。その結果、1919年11月の総選挙では労働者層を代表するイタリア社会党が躍進して第一党となった。第2党にはイタリア人民党と称するカトリック勢力がその位置を占め、ブルジョワ民主主義・自由主義者は後退し、危機感を抱くようになった。

ヴェルサイユ体制への不満

 さらにパリ講和会議でイタリアの主張するダルマティアとフイウメ(イタリア語でリエカ)の領有が認められなかったことから政府非難が強まり、1919年6月にはナショナリストの詩人ダヌンツィオがフィウメを占領するという事件が起こった。ジョリッティ内閣は海軍を出動させて1920年12月にダヌンティオを降伏させたが、ダヌンティオは英雄扱いされ、政府および議会に対する反発が強まった。

「赤い二年間」

 一方、1919年から20年にかけて、第一次世界大戦後の戦後不況が深刻になり、生産の縮小から失業者が急増し、インフレが急激に進行するしていた。ロシア革命の成功に刺激された社会主義政党であるイタリア社会党は、革命の好機ととらえ、北イタリアのストライキを指導し、労働者による工場占拠、農民による地主の土地の占拠など、革命的な動きが高揚した。1920年9月には革命的な機運が最高潮に達し、労働者による工場占拠が約4週間にわたって続けられた。しかしこの「赤い二年間」といわれた1919~20年の動きは革命には至らなかった。イタリア社会党指導者に明確な革命への統一的指導性が欠けていたからであり、かえって不況が深刻化して労働者が職を失うことを恐れ、運動か離れたことが衰退の要因であった。

ファシスト党の登場

 それに対して、工場経営者や地主などブルジョワジーは革命の進行を恐れ、社会主義者に対する憎悪をたぎらせるようになり、また政府や議会は自分たちを守ってくれないという不満を強めることになった。そのような中、開戦前は第一次世界大戦への参戦を主張したためにイタリア社会党から除名されていたムッソリーニは、1919年3月、ミラノで「戦闘ファッシ」を組織し、反社会主義・反議会主義を掲げて強力な政府の樹立を主張し始めていた。1919~20年に自然発生的に各地に「襲撃隊」と呼ばれた民兵組織が生まれ、ストライキや工場占拠を行う労働者を襲撃し始めると、それらを組織して全国的にファシスト運動を展開するようになった。1921年にはムッソリーニを指導者とする全国ファシスト党が組織され、社会主義革命を恐れる保守派の支持を受けて直接行動を展開するようになると、自由主義政府もそれを容認し、社会主義勢力を押さえようとした。

ファシスト政権の成立

 1922年10月、ファシスト党がローマ進軍を行い、ローマの中枢部を占領するという直接行動に出ると、政府は戒厳令を敷いてこの反乱を鎮圧しようとしたが、国王はそれを認めずかえって内閣を罷免し、ムッソリーニに新たに組閣を命じた。ムッソリーニはファシストの暴走を統制できるのは自分だけであると宣伝していたのだった。こうして国王から任命されるという合法的な形でムッソリーニのファシスト政権が成立した。当初のムッソリーニ内閣にはファシスト党員は3名にとどまり、残りは自由派、人民党(カトリック系)、軍出身者などに与える妥協的なものであった。
 ムッソリーニはそれまでの暴力的なファシスト党というイメージを変えるため、国王派やナショナリスト知識人を党に取り込み、穏健なブルジョワの支持を拡大し、1923年には選挙法を有利に改正して、24年の総選挙で自動的に国会の3分の2の議席を獲得した。
マッテオッティ事件  1924年6月初め、社会党の代議士マッテオッティがファシスト党過激派グループに誘拐、殺害されるという事件が起こった。マッテオッティは24年の総選挙で、ファシスト党が暴力によって干渉していることを告発しムッソリーニは危機に陥っていた矢先だった。マッテオッティ殺害事件にはムッソリーニ自身が関わっていた疑いが濃くなり、世論と国会は沸騰した。一方、ファシスト義勇軍(党の軍事組織)はムッソリーニに独裁体制をとることを迫った。1925年1月3日、国会で演説し、告発を受けて立つことを表明、その一方で義勇軍、襲撃隊がどんな行動に出るか責任が持てないと、内戦の危機を煽って反対派を牽制し、独裁政治を宣言した。結局、国会はムッソリーニ告発をあきらめ、国王も承認した。こうして、1925年1月3日のムッソリーニ演説は、その独裁政権の成立の契機となり、「イタリアの自由主義と議会政治の終わった日」と言われた。<ダカン『イタリアの歴史』2005 ケンブリッジ版世界各国史 創土社 p.292-294>

ムッソリーニの権力掌握

 1925年1月3日演説で独裁を宣言したムッソリーニは、ファシスト党の襲撃隊の違法行為を禁止し、ファシスト党員を国家機構の中に組み入れてそれを統制下に置くことに成功した。さらに、暗殺未遂事件が起こったことを理由にして、26年10月にすべての野党を廃止し、今後は「国家防衛を目的として」いかなる野党を創設することを禁止した。また報道機関に対しては政府批判をすれば没収という脅しをかけた。新聞はそれに従い、ムッソリーニとその政府の礼賛記事を自主的に書くようになった。それは「胸が悪くなるような」記事に満ちていたが、新聞の売り上げは減らなかった。「おそらく、当時の新聞のスポーツ欄と文化欄に人気があったためであろう。」<ダカン・同上 p.298>
アルバニア保護国化  イタリアはフイウメ問題でユーゴスラヴィア王国と対立していたが、そのユーゴスラヴィアがフランスとの提携を強めると、対抗するためにアルバニアに対する経済援助を強めた。アルバニアでは政権を握っていたゾグーもイタリアへの依存を強め、1926年にティラナ条約(友好安全保障条約)を結び、事実上のイタリアの保護化が開始された。翌年には防衛同盟条約が締結され、イタリアはアルバニアに対する政治的影響力を強めた。ただし、アルバニアは28年からゾグーを国王とする立憲君主国として独立を維持しており、最終的にイタリアに併合されるのは1939年のムッソリーニの武力侵攻による。 → アルバニア保護国化

進歩的に見えたファシズムの「魅力」

 ムッソリーニが継承した思想は、理想的な「国家」創造によって何世紀にもわたり分裂し異民族に服従させられ傷つけられたイタリアを修復しなければならないといった思想であり、愛国心から生じる国民道徳がなければ自由主義につきものの個人主義と物質主義のために、国は腐敗し利己主義と無秩序がはびこるであろうという主張であった。ムッソリーニが進めた社会改革は、そのような分裂と個人主義という「症状」を治療するためのもので、ファシズムは、労働組合をいわゆる「コーポレート・ステート(協調組合体制)」という新しい形態に変えることによって労働者を統制し、プロパガンダを教育手段として労働者の政治意識を変えようとした。それらは多くの点で反動的であったが、「国民のコンセンサスを得るためにファシスト政権が試みたさまざまな手法は、しばしば当時の人々に(イタリア以外の国でも)斬新で進歩的にみなされたのである。<ダカン・同上 p.299>

ラテラノ条約

 1929年、ファシスト政権はローマ教皇庁とラテラノ条約を締結した。これによりヴァチカン市国は独立した主権国家となり、1860年から70年の間に失われた教皇領に対する巨額の補償金が支払われることになった。また添付の政教協約によって、宗教科目が小学校ばかりでなく中等学校でも取り入れられるなど、カトリックを国民の宗教であることを認めた。これによってムッソリーニは「ローマ問題」に決着をつけたと宣言し、その個人的権威を国内外で高めることに成功した。
 ラテラノ条約調印の後、ムッソリーニは国会を審議会的なものにすることとし、400名の議員候補者名リストを示し、それを承認するかどうかの国民投票を行った。その結果、850万票が賛成、反対はわずか13万6千でファシスト政権は信任された。「大衆の政治的統制の手段として教会を利用する」体制を実現させ、ムッソリーニはローマ教皇から「神の使者」と賞賛された。<ダカン・同上 p.318>

ファシズムに対する不満

 ファシストは政治権力を掌握し、国民の賛意を得ようとさまざまな改革を行ったが、最大の障害の一つは国民の大半が直面している貧困であった。ファシスト「日とはパンのみにて生きるにあらず」と精神的な自覚をもとめたが、特に南部の農民の困窮は深刻であった。ファシスト政体の元手は存在しないとされたマフィアは依然として社会的腐敗と組織犯罪の温床となっていた。
(引用)ファシズムが国民の賛意を得ることができなかった決定的な要因は、その思想に知性の欠けていることであった。ファシスト政権は、まさに合理的な政策を否定することによって成立した政権であった。しかし、ドーチェ信仰、愛国的美辞麗句、パレード、制服、映画、サッカー、海岸地帯へのハイキングなどのすべてを寄せ集めても、堅実な政策や現実的な議論の欠如の埋め合わせをすることはできなかった。1930年代になると、ファシズムは明らかに思想としての力を失っていた。1934年に正式に決定された「協調組合体制」が有名無実であったために、国民の不満は最高潮に達した。<ダカン・同上 p.323-324>

イタリア(7) 第二次世界大戦

ムッソリーニのファシズム政権はエチオピア併合など領土拡張策をとり、ドイツと提携を強めベルリン=ローマ枢軸を成立させる。第二次世界大戦では当初中立を装ったがドイツの快進撃を見て参戦。しかし北アフリカなどで軍事的失敗を重ね、次第に追い詰められ、43年7月に失脚。替わったバドリオ政権は連合国と講和を探ったが反発したドイツ軍がイタリアを占拠。シチリアに上陸した連合国軍と激しい戦闘となり、44年6月解放された。

エチオピア侵略

 ムッソリーニのファシスト政権は、国内の不満を海外膨張策で解消しようとして1935年、エチオピア併合(エチオピア戦争)などの侵略性格を進めた。エチオピアに対する侵略は空爆、毒ガスを使用する強引なものであったが、かつての1896年にアドワの戦いでの屈辱的な敗北に対する報復を実現したとして国内では歓迎されたが、国際連盟は連盟加盟の独立国に対する侵略であるとしてイタリアを非難し、経済制裁を決定した。しかしイタリアはドイツの支援を受けて、首都アジス=アベバを占領して併合を強行した。

ベルリン=ローマ枢軸

 ついで1936年にスペイン戦争が始まるスペイン人民戦線の共和国政府に対する反乱軍であるフランコ軍に対して、ヒトラーのドイツとともに軍事支援を行った。こうしてナチス=ドイツとの提携が深まり、1936年にはベルリン=ローマ枢軸を成立させた。さらに翌37年には日独防共協定に加わり、日独伊三国防共協定を結んた。こうして枢軸国の一員となったイタリアは同37年、国際連盟を脱退した。

アルバニア併合

 さらにヒトラーのナチス=ドイツがミュンヘン会談のわずか6ヶ月後、1939年3月、チェコスロヴァキア解体を強行すると、ムッソリーニはその機会を利用してアルバニアに侵攻した。アルバニアは1926年以来、事実上のイタリアの保護国となっていたが、ムッソリーニは軍事占領によってイアルバニア併合を強行した。

第二次世界大戦

 1939年9月、ヒトラーがポーランドを侵攻、第二次世界大戦が勃発すると、ムッソリーニは当初は「非交戦国」を宣言した。イタリアはエチオピア戦争とスペイン戦争で軍備を消耗しており、参戦の余裕がなかったためであったが、40年にドイツ軍がフランスのパリを占領すると、便乗して世界戦争に参戦した。1940年9月には日独伊三国同盟を締結、枢軸国の主要国として名を連ねた。しかし、北アフリカ戦線などでイタリア軍は次々と敗北すると、国内ではムッソリーニ独裁に反発する勢力が強まっていった。

イタリアの無条件降伏

 ムッソリーニ政権のイタリアはギリシア、北アフリカ、地中海でイギリスに敗れ、ドイツ軍の支援でようやく戦線を維持していたにすぎなかったので、1943年早くも休戦を意図し始めた。7月9日の連合軍のシチリア上陸を受けると、25日に軍の一部が国王の了解を得てクーデターを決行し、ムッソリーニは失脚、監禁された。
 代わって成立したバドリオ内閣は9月8日に連合軍との休戦(降伏)を発表し、ドイツに宣戦布告した。ヒトラーは直ちにドイツ軍を派遣、イタリア軍を武装解除してローマを占領した。国王と政府はローマを脱出、南部のプリンディシに逃れた。これは国王に対する国民の支持を失墜させることになった。ドイツ軍はさらに幽閉されていたムッソリーニを救出し、北部に連行し政権を作った(サロ共和国という)が、ムッソリーニは傀儡で実権はドイツ軍が握った。こうして北部はドイツ軍の支配、南部は連合軍が占領という南北分断の事態となり、北イタリアではファシスト政権時代に獄中にあった共産党員が解放され、ドイツ軍に対するパルチザン闘争を開始した。10月1日にナポリに侵攻した連合軍(アメリカ軍)はドイツ軍の抵抗にあって苦戦、イタリア戦線は膠着した。特に44年2月のモンテカシーノ(中世のモンテカシーノ修道院の所在地)の激戦は勝敗がつかなかった。また北イタリアのミラノなどで、ドイツとサロ共和国に対する大規模なストライキが広がった。1944年6月、連合軍がようやくローマを解放、パルチザン勢力はバドリオ内閣に代わる連立内閣を樹立した。ドイツ軍との戦闘は翌年6月まで続く。パルチザンに手を焼いたドイツ軍は徐々に後退、ムッソリーニも逃亡を図ったが、1945年4月、パルチザンに捕らえられ、ミラノ市民の前に引き出されて愛人とともに逆さ吊りにされて殺された。

イタリア(8) イタリア王政廃止 共和国の成立

第二次世界大戦後、1946年に王政を廃止し共和政となる。

 1944年6月、連合軍によってローマが解放され、バドリオ内閣に代わりパルチザン闘争の主体となった各政党の連立内閣が成立した。ドイツ軍に対するレジスタンスの中心となったイタリア共産党は、ファシズム崩壊によって獄中の党員3000人が釈放され、亡命先のモスクワから戻った党指導者トリアッティ(トリアッチ)が祖国再建のためには国王とも協力するという政策転換を行った上で連立内閣に参加した。チャーチルなど連合国首脳は共産党が政権に参加することに反対したが、イタリアの国内情勢はそれを避けられなかった。

国民投票で王政廃止へ

 1946年6月に国民投票が行われて僅差であったが共和制支持が上回り、王政は廃止され「イタリア共和国」となった。また同年のパリ講和会議の結果、イタリア講和条約で海外領土をすべて放棄し、連合国との講和が成立、ドイツに比していち早く国際社会に復帰した。
 ファシスト党は解散させられたが、それに協力した官僚や財界人に対する責任追及は不徹底で、なお保守的な勢力は力を保っており、保守政党のキリスト教民主党がその後の政権を担当することとなり、共産党は連立政権から排除された。

イタリアの王政廃止

 イタリアの開戦時の国王ヴィットリオ=エマヌエーレ3世はファシストを支持し、さらにドイツがローマを占領した1943年9月にはローマから逃亡したので国民の信頼を失い、46年5月に退位して皇太子ウンベルトが王位を継承した。その1ヶ月後の46年6月2日に憲法制定国民議会の選挙と同時に国民投票が行われた。その結果は、共和制への賛成1270万票、反対1070万票のわずか200万票差で王政廃止が決まった。このとき、ローマや南部では王政支持票が圧倒的に多く(ナポリでは79%)、北部では共和制支持が圧倒的に多かった。こうして共和制は、1861年のイタリア王国と同様、南部と北部の分裂を放置したまま誕生した。<ダガン『イタリアの歴史』2005 ケンブリッジ版世界各国史 創土社 p.346 などによる>   → 現在のイタリア 
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
1章3節 ローマ世界
5章1節 カ.分裂するフランク王国
5章3節 ドイツ・スイス・イタリアと北欧
8章2節 ルネッサンス
8章4節 イタリア戦争
第12章2節 イタリアの統一
第15章1節 第一次世界大戦の勃発
第15章2節 イタリアのファシズム
書籍案内

ダガン/河野肇訳
『イタリアの歴史』
2005 ケンブリッジ版
世界各国史

藤沢道郎
『物語イタリアの歴史』
1996 中公新書