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イタリア社会党

イタリアの社会主義政党。第一次世界大戦後の1919~20年の北イタリアのストライキを組織したが、分裂し、ファシズムの進出を阻止できなかった。

 イタリア社会党は、1895年にポー川流域の労働者を基盤に組織された。指導者の多くは弁護士出身であった。イタリア初の社会主義政党が成立した背景には80~90年代のイタリアの急激な工業化、特にいたイタリアにおける製鉄や自動車工業の勃興による労働者の増大にあった。ブルジョワ自由主義の政府も当初は労働者保護政策をとり、イタリア社会党主流派も政府を支持したが、革命を目指す急進派が生まれ、早くも党内対立が激しくなった。後のファシズムの独裁者ムッソリーニもはじめはイタリア社会党の党員で機関誌の編集長を務めていた。

第一次世界大戦で反戦を貫く

 1914年、第一次世界大戦が勃発すると、イタリア社会党は中立を主張し、イタリアの参戦に反対した。ムッソリーニは参戦論を主張したが直ちに除名された。西ヨーロッパの社会主義政党の中で最後まで中立を主張したのはイタリア社会党だけであった。そして1917年にロシア革命が起こり、ソヴィエト=ロシアの社会主義国家建設が始まると、イタリア社会党も革命を志向する急進派が勢力を増していった。

北イタリアの大ストライキ

 第一次世界大戦のイタリアでは、軍隊が解体され、軍需工業の生産がストップしたために失業者が急増し、1918年にはインフレが進行するという社会不安が増大する中、1919年から20年にかけて、革命近し、と発憤したイタリア社会党によって指導された北イタリアのストライキが連続的・戦闘的に行われた。農村でも貧しい農民による地主の土地の占拠など、「赤い二年間」といわれた革命的な動きが高揚した。運動は1920年9月の約4週間にわたる労働者の「工場占拠」事件で最高の盛り上がりを見せたが、しかし、革命には至らなかった。運動の側には組織的な統一した指導や、明確な方向性が欠けていたのだった。イタリア社会党の指導者セッラティは、革命に踏み切れば西欧諸国の干渉を受け鎮圧されるのではないかと恐れた。ストライキが続く中、経営者や地主はコスト削減に必死となったため、労働者大衆の中には解雇を避けるために運動から離脱するものが増え、運動は急速にしぼんだ。

ファシストの攻撃

 反比例して工場経営者や地主の中にはこのような革命前夜の危機に対して、政府や議会は無力であり、自分たちを守ってくれないという強い不満が起こり、1920年末にファシスト運動の高揚へと転換していった。各地で復員兵などによって作られた「襲撃隊」と呼ばれた民兵組織が、社会主義者や労働運動指導者を「国家の敵」であるとして「愛国的」襲撃を加えるようになった。この運動は1921年春までに大衆運動となってポー川やトスカナ地方を中心に全国に広がり、ファシスト運動といわれるようになり、ムッソリーニの率いるファシスト党へと組織されていくことになる。

社会党の分裂

 1921年1月、イタリア社会党はリヴォルノで大会を開催したが、その席上、アントニオ=グラムシとその同調者は、党の指導方針に対する批判から党をされ、イタリア共産党(PCI)を結成した。グラムシは理論家として有名ではあったが、共産党を支持したのは少数派であり、5月の選挙では15議席しかとれず、党自体は支持基盤も小さく、その力もほとんどなかった。しかしこの分裂によってイタリア社会党も弱体化し、ファシスト党はロシア=ボリシェヴィキの手先がイタリアにもいる、と共産党の脅威を宣伝する材料を与えることになった。  
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第15章2節 エ.イタリアのファシズム